4 By your side

 ──フェリスは……身体を売っていたことがある?

 誰から聞いたのか。トラブルをおこした女が、意趣返しにもらしたのか。いまはどうでもよかった。

 目の前で、ルイが答えを待っている。

 どう応える?

 嘘を言いたくはなかった。だから答えは、

 ——ある。

 身体を売ったことはあった。お金を得る方法が、それしかなかったから。

 そう答えようとして、声にすることができなかった。

 疑問形で訊いてはいても、ルイは確信している。売春をしていた人間に、ルイはどう反応するのか。

 逮捕はできない。現行犯でないから──と、いままでなら真っ先に考えていたことは、まったく頭に浮かばなかった。

 不安と怖れで息が苦しい。冷たい汗が噴き出す。

 真実を知ったルイは、嫌悪感をあらわにする?

 そうして、離れていく? 

 去っていく背中は、もう見たくなかった。そんな場面をまた見るぐらいなら──

 イスを倒す勢いでフェリスは立ち上がっていた。ドアへと駆け出す。

 答えることから、ルイから逃げ出した。


 いきなり立ち上がったフェリスに、出遅れてしまった。

 ルイは、持ち前の反射神経で引き止めようと手を伸ばした。が、届かない。フェリスの背中が、あっという間にドアの外に消えた。

 こんなに身のこなしが速かったかと驚く。廊下に飛び出したフェリスを追いかけた。

 フェリスが階段を駆け下りようとして、踏みとどまった。反対側へ——階段を駆け上がっていく。進む先は屋上で、行き止まりしかない。

 すぐに追いつけると安心はできなかった。

 出口を見失った人間がとる、予期しない行動への危機感があった。


 逃げたところでルイの足にかなうわけがない。

 そんな当たり前のことすら、フェリスは考える余裕がなかった。ルイの目から逃れたい一心だった。

 背後でルイが謝っている声が聞こえる。両腕に紙袋を抱えた中年女性が、階段を上がってくるところだったから、ぶつかったのかもしれない。いまのうちにと、ひたすら足を動かした。

 肺がやける。足がもつれる。ようやく階段を上りきった。

 その先にあるドアを開ける。泳ぐように手足をばたつかせ、屋上へと出た。

 遮るものがない太陽の光が目を射る。眩しさで、あやふやな視界のまま前に進んだ。

「フェリス、危ない! とまって!」

 そんなことできない。追いつかれてしまう。

 屋上の縁まできた。パラペットによじ登る。

 こんなときは小さい身体がうらめしかった。さして高さはないのに、ワンアクションで乗り越えることがかなわない。

 パラペットの上半分は柵だ。この境界をこえれば、ルイに追いつかれることはない。

 追われているままなら、目の前からいなくなるところを見ないですむ。

 フェリスは精一杯足をのばす。柵を乗り越えた。

 身体が浮いた。

 重力から自由になり、視界いっぱいに空が広がって──

 衝撃は、それほどでもなかった。

 遠くから車の排気音が聞こえる。

 ……生きていた。

 どこも痛くない。背中に感じる温度とやわらかさで、フェリスはまだ死んでいないことを実感する。

「間に合った……」

 苦しげな呼吸のあいまから、ルイの安堵の声がした。

 屋上で仰向けになり、空を見ていた。

 さして衝撃を感じなかったのは、フェリスを抱きかかえたままコンクリートに倒れ込んだルイが、下敷きになってインパクトを引き受けてくれたから。

 ルイをクッションにしたまま、そのまましばらくじっとしていた。


「ごめん」

 ルイは言葉を慎重にえらんだ。

「繊細なことなのにデリカシーがなかった。軽々しく訊いて、ごめん」

「ルイが謝ることじゃなくて……」

 フェリスがのろのろと起き上がった。ルイの上からおりる。そのまま膝と手をつき、うなだれた。

「わからなかったの……ひとりで食べていく方法が、身体を売ることしか……」

「違う! 責めてるんじゃないから」

 跳ね起きたルイは、フェリスと視線の高さをあわせる。

「危ない仕事だとわかていても、やるしかなかったんだよね……?」

 じっとしているフェリスを急かすことなく、応えを待った。

 やがてフェリスが顔をあげた。口もとが動いた。

「…………」

 消えるような声を聴こうと、ルイは顔を近づける。

「ベッドで……お金より、食べ物より……」

「うん」

「ベッドで眠りたかったの!」

 フェリスの頬に、涙が雨のように流れ落ちる。

「寒さに震えたり、いきなり誰かに蹴飛ばされたりしないで……安心して……屋根のあるところで……」

 ルイは片手をのばした。

 フェリスの肩にふれる。拒絶のサインがないことを確かめた。

 そうしてから、ゆっくり抱きしめた。

「わかってる。ホームレス状態の女性をストリートであんまり見かけないのは、そういうことだよね。大変なのは、よく知ってるから」

 女性の場合、蹴飛ばされるぐらいではすまないことがあった。

 ルイの腕の中にある肩は薄い。小柄な身体つきは、親からの遺伝以上に、生育環境に原因がある気がした。

 あたたかい食事と、愛情ある保護者の存在で、ひとは育つことができる。

 食事は贅沢ぜいたくでなくていい。血縁の親でなくとも〝保護者〟になれる。

 それでも、どちらも無いことがある。売春の経験者に、DVやネグレクト、家が貧しくて傷ついた経験があることは、めずらしくなかった。

「過去を訊いたのは、フェリスのつらいことも知っておきたかったから」

 腕をとき、うつむいたままのフェリスに話しかけた。

「フェリスの苦しいを一緒に持つことができたら、軽くなるかもしれない。楽しいことなら、二倍以上に楽しくなると思う。フェリスをもっと知って、本当の関係をつくりたかったから」

「ルイは……」

 フェリスが、うかがうように視線を合わせてきた。

「急にいなくなったりしない? 何も言わずに消えたりしない?」

 ルイは推察する。

 初対面からのアプローチを茶化すでもなく、かといって好悪をあらわすでもなく。態度を曖昧にしていたのは、この不安を抱えていたせいか。

 近くにいた相手ほど、去られたときの傷は大きくなる。傷つける相手でないと信じるに足るまで、親しくなることが怖かったのか。

 なら、伝えておくべきことは──

「どんな時も、必ず言葉にする。うまく言えない時は、足りないままでも」

「ルイのことは好きなんだと思う。でも、たぶんなの。本当の『好き』なのかわからない。あたしの好きは、あたしにとって都合のいいことをしてくれる人を好きって言っているだけかもしれない」

「どんな好きでもいいよ。フェリスが厭じゃなかったら、一緒にいてほしい」

 フェリスが、ゆるゆると顔を上げた。

「でも、わからなかった。どうして、あたしなんかに声をかけたんだろって」

「『なんか』じゃない」

「よく陰気くさいって言われる。身体を求めるわけでもないのに、ルイは何がよかったのかなって……」

 顔がズバリ好みだった──は否定できないが、一番はそこじゃない。

「弱そうでいて強いから」

「抽象的すぎてわからない」

「えっと……見た目通りじゃないっていうか、意外な面があるところがいいなって。もっとよく知りたいって思った」

「じゃあ、もっと知って嫌いになることもあるんだ」

 なかなか用心深い。

「かもしれない。ただ、やっぱり付き合えないと感じたときも、もっと好きになったときも、ちゃんと伝える」

 誠意をみせてくれるルイに、自分も応えたい。長らく口にしなかった名をフェリスは告げた。

「フェリシア」

「……ん?」

「フェリシア・ウォーレスが、あたしの本当の名前」

「教えてくれてありがと。フェリシア……フェリス……どっちで呼ばれたい?」

「いまはまだフェリス。ブルーパブの仕事を辞めて、気持ちが落ち着いたらフェリシアに戻りたい」

「新しい仕事に?」

「ルイと一緒にいるなら、後ろめたいことはしたくない。あたしの部屋がどういうことに使われてるか、わかってるんでしょ?」

「だいたいは」

 ワンベットルームとはいえ、給仕係の給与とチップだけで、このアパートに一人で住むのは苦しいはずだ。何らかの他の収入か、ツテでもないと。

「パブを辞めたら、この部屋も出ないといけない。経験も資格もないし、生活が苦しくなるのは、わかってるけど」

「生活費の援助はできるよ。うちに泊まってくれても構わない」

「養ってほしいわけじゃない」

「う、うん」

 ルイは気圧され気味になる。自分よりずっと、しっかりしていそう。

「そういったことも含めて、フェリスの考え方を知りたい。わたしに相談してくれたら、もっと嬉しい。それより、さっきの……えっと……あれ?」

 仕事をかえることには賛成だった。グレイゾーンの仕事では、トラブルが起きても警察を呼べない。むしろ、グレイゾーンだから狙われることもある。

 ただ、辞めると聞いて、思い浮かんだ気がかりがあった。気をつけてもらおうと思ったものの、何だったのかを思い出せない。

 養ってほしいわけじゃない発言のインパクトで消えてしまった。勝手にフェリスを庇護する存在にみていたことに気づいて、焦った。

「ど忘れ? 大事なことなの?」

「えっと……」

 ルイはひとしきりうなり、あきらめた。

「ごめん。思い出したら、また話すよ」

 フェリスは、さして深く考えないままうなずいた。

 急いで聞かなくても大丈夫だろうと。


     **

 

 開店準備に入る一時間前のパブ。

 静かな店内でカウンターにもたれて待っていると、調理場からダグが出てきた。手にした小皿を差し出してくる。

「今度はこれを新メニューに入れてみたい」

 試作品は包み揚げだった。

「春巻き?」

「似たようなもんだな。フィリピンのルンピアだ。ビールと一緒なら、こっちのほうがいい」

 一口かじってみる。包まれた具材は、肉と野菜のシンプルなもので、チリソースがいい刺激になっている。意外にくどくない。

「オイルをスプレーして、オーブンで焼いた。これなら油のにおいがビールの邪魔をしない」

 形も都合がよかった。春巻きより細いスティック状だから、グラス片手に簡単につまめる。

 たまには良い気分にさせてやってもいいだろう。大きくうなずいて見せると、ダグの表情が得意げなものになった。わかりやすい男である。

 もっとも、調理の腕がいいのは本当だった。客入りが安定しているのは、クラフトビールもさることながら、フードメニューの良さもある。折を見てはメニューを入れ替え、客を飽きさせない。

 ダグに問題がないわけではなかった。相手が客であっても、横柄な態度を見せることがある。

 ただ、そういうときは、すかさずフェリスがフォローには入っていた。ふたりをセットにしておくと、揉め事にまで発展することがなくなった。

 パーフェクトでなくても、欠点を補うものを持っていれば、それでいい。ホール係を補充するまで人手不足ではあるが、的確な指示を出してやれば、充分まわしていける。やるからには完璧でないと満足できなかった。

 隠れ蓑にしているブルーパブとはいえ、手を抜くつもりはない。

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