3 フェリスの凶器
ルイは、フェリスのアパートが見えるところまで来てから気付いた。デザートを忘れた。
普段、甘いものを食べないし、勧められた店にスイーツメニューがなかったので、思い出すこともなかった。
日を改めて、もう一度届けることにする。
親しくなるには、まず会う時間を増やさないといけない。また会う口実にできる。
古いアパートだからエレベーターがなかった。階段を一段飛ばしで上がっていく。
仕事のときとは違って身体が軽かった。しかも、フェリスがこんな近くに住んでいたとは。
階段から廊下にはいったところで、低く重い物音を耳が拾った。
どこかの部屋の夫婦喧嘩がハデになっているだけであることを願う。子どもが部屋の中で、スケボーでアクロバットしているでもいい。時間外の仕事などしたくなかった。せっかくのコーヒーが冷めてしまう。
しかし、廊下から部屋の中を覗き込んでいる地味な服の女を見つけて、ぬるま湯気分が一気に抜けた。
フェリスの部屋だ。
そして、覗き込んでいるのは──
手配犯が身なりを変えていることがあるから、同一人物を見分ける目はついている。昨夜、フェリスともめていた女だ。
女のほうもルイに気付いた。舌打ちとともに逃げようとする。が、あいにく進路はルイがふさいでいる。
女は別の手をとった。開き直った薄ら笑いをうかべ、部屋の中を指した。
「早くしないと手遅れになるよ」
仲間を引き込んだ——⁉︎ ルイはコーヒーを放り出した。
駆け寄ろうとする背中に、さらに悪意ある言葉が刺さった。
「さんざん売り物にしてきた身体に傷がついたって、今さらだろうけど!」
ルイの動きが止まったのは、一瞬だけだ。
フェリスにとっては何度目かで見る、似た光景だった。
男が、嗜虐の表情をうかべて、
あるいは憤怒の表情で、
ときに無表情のなかに冷たい笑みを垣間見せ、殴るための手を振り上げている。
逃げなきゃ。
そう思うものの、身体どころか視線さえも動かすことができない。
子どもの頃、恐くて身体が動かなかった。
そのうち逃げても無駄──あきらめから動かないことが増えた。
いまは、恐怖に戻っている。
優しくふれてくるルイが現れ、サリーと再会した。
常連というだけで、気にかけてくれる人もいる。
大切にしてくれる人が増えると、痛みを痛みとして感じるようになっていた。
刹那の時間のはずなのに、タトゥー男の股間の異状に目がとまった。不自然に膨んでいるのは、いたぶることに悦びを見出す、ひとでなしの類の
冷めた眼差しになったフェリスの瞳が、次の瞬間、驚きで丸くなった。
目の前のタトゥー男が、横っとびに吹っ飛んだ。
タトゥー男にタックルする人影があった。
斜め後ろから倒しつつ足をとる。身体のバランンスを失ったタトゥー男がひっくり返る。そこを黒褐色の髪の若い女がマウントをとる。
ルイだった。
涼しげな薄い色のシャツにジーンズ。制服姿のイメージが強いせいで、別人のように見えた。
ルイが優勢だったのは束の間で、あっさり反転された。体重差を利用した馬乗りで、ルイの動きを封じたタトゥー男が、太い指で首を絞めにかかる。
フェリスには、映画を観ているようだった。
タトゥー男の下になっているのは、自分だ。圧倒的な力の差に抗うことができす、されるがままで。
過去を映しているようなシーンを前にして思う。あのとき、自分は何を望んでいたのか。
誰かに助けて欲しかったのか。
抗えるだけの力が欲しかったのか。
しかし、頼って、望むだけではダメだった。非力を嘆くだけは変わらない。
サリーのもとから離れた理由は、これなのだ。
サリーに甘えられない環境に身をおけば、自分で立てるようになるかもしれないと考えた。
サリーのように強くなってみたかった。
結局、ひとりになっても弱いままだった。誰かがそばにいることを弱いままな言い訳にしていた。
ひとりでないからこそ、ルイが一緒にいる今だから、変われるかもしれない。
そして、ルイを助けたい。
今度こそ——
フェリスは、近くにあったスツールを手に取った。息を吸い込み、両手で振りかぶる。タトゥー男の背中に向けて、思いっきり打ち下ろす。
男の分厚い背中が、安物のイスを弾き飛ばした。タトゥー男の目が、フェリスをとらえた。
「おもしれえ。3Pでやってくれんのか?」
攻撃の途中で気をそらしたタトゥー男の隙をルイが突く。
絞め上げている両腕の間に、手をねじ込んだ。肘で外側へと押し、腕を外させる。そのまま掌底で、男の頬を突き上げた。
脳を揺らされた男の体が横に傾く。その肋骨にコンパクトな膝蹴りを入れ、男の下から脱出した。
「いい気になるな!」
すぐに立ち上がったタトゥー男が、この場でもっとも弱い獲物へと目標をシフトさせた。人質にして形勢逆転をはかろうとする。フェリスに向かって、手を伸ばしてくる。
その体が前のめりに崩れた。
「こっちのセリフだ!」
ルイが背後から、タトゥー男の膝裏に足刀を蹴り入れていた。
床に這わせ、両手をついたその背中にとりついた。男の首に右腕をまわして、足を胴体にからませる。背後からチョークスリーパーで絞め上げた。
タトゥー男の表情が歪んだ。
絞めている腕の隙間に、指を差し込もうとする。身体を反転させて、ルイを下敷きにして体重をかける。外そうと足掻いた。
ルイも、タトゥー男のウエイトに押し潰されそうになっていた。
胸部を圧迫され、呼吸が妨げられる。男が暴れて腕が汗で滑り、ポイントがずれて極まらない。
オフでも拳銃は持っていた。使えば決着は早いが、この手の男には駄目なのだ。
女を相手に、腕力で負けさせる。
力で優位に立ってきた思い上がりをへし折ってやるために。
決着をつけたのは、フェリスだった。
軽いスツールなんかでは駄目だ。フェリスはキッチンに駆け込んだ。
目当てのものを見つける。すぐに引き返した。
ルイに仰臥させられ、腹を見せているタトゥー男の体勢はかわっていない。
フェリスは両手で持っていた、三リットルサイズの液体洗剤を精一杯の高さまで持ち上げた。
狙うのは、タトゥー男の
洗剤の重量に加速を与え、勢いよく落とした。
急所を打ち込まれた男が息を詰まらせる。抵抗が弱まったタイミングを逃さず、ルイの腕が頚動脈を確実に絞めつけた。
もがいていたタトゥー男だが、しばらくして動きが緩慢になる。
落ちる寸前で、ルイが腕を解いた。
背中を丸めて呼吸を貪るタトゥー男の髪をつかんで、強引に顔を上げさせる。目を合わせてから言った。
「臆病者は自分より弱い相手にだけ、腕力をふるうんだよね」
「ナメんな! てめえの歯、残らず叩き折って……!」
タトゥー男の声が尻すぼみになる。目の前に突き出された、盾型をしたシルバー・バッジの意味に、脳の理解が追いついた。
「ポリス……?」
問いかけではなく念押しだ。
「続きをやるなら、相応の──」
応えは早かった。最後まで聞かず、脱兎の勢いで部屋から飛び出していった。
部屋が静かになる。
タトゥー男が戻ってこないことを確信してから、やっとフェリスは安堵した。緊張が抜け、その場に座り込んだ。
動き回ったわけでもないのに、呼吸が荒い。手足がわずかに震えていた。
バッジをポケットに戻したルイが、そばにきて片膝をついた。
「ごめん。持ってきたコーヒー、廊下に飲ませちゃった」
フェリスは恐る恐る視線をわせた。
「こんなトラブルがおきた原因は訊かないの?」
「気になるけど優先順位はあと。まずは落ち着こう。このままがいい? イスにすわる?」
「床で……やっぱりイスがいい」」
ルイが無事なイスをとってきた。立ち上がったものの、身体がふらつく。手を借りてすわった。
人に手をあげるなんて、初めての経験だった。真似事でも動揺はなかなかおさまらなかった。
「フェリスが加勢してくれて助かった。正直、てこずってた」
「助けたのは、あたしじゃなくて洗剤だけど」
「パブでグラスを割ったときもそうだたけど、とっさの機転がきくんだね」」
「直接やり返す力がないだけ」
フェリスは自分の言葉に、敬語が抜けていることに気付いた。
いつからだろう。これも気が緩んだせいなのか、ルイとの距離が近くなったからなのか。
「わたしの場合は仕事だから、できるように訓練しただけ。あとは気合いと警官としてのカッコつけで、やり返す……じゃなくて制圧するの。
方法としては、利用できるものを使うのがカシコイやり方だと思う。危険や不安を感じたとき、遠慮なく声を上げることもね」
フェリスは小さく吹き出した。
「ルイのは、はったりなの?」
「制服で自分に発破をかけてるとこもあるよ」笑いながら肯定した。
「助けを求めた警官がオドオドしてたら、不安になるだけでしょ? 呼んだ側からしたら、新人だからとかの警官の事情なんて関係ないから。だから、できなくても自信がなくても、大丈夫って顔をしてみせるの。制服を着てると、やるしかないって気分になるんだよね」
ルイが膝を折って、目線を近くにした。
「そうやって、できるフリをしているうちに、自分のものになってきた。最初は、うまくいかないこともあったけど、何もしないままでいたら、できないままだったと思う」
ルイの話を聞くうちに思い出した。サリーからも、同じようなことを言われていた。
──客の前に出るときは、自分にこう念じるの。あたしのホントの値段は、一時間千ドルなんだって。
すべてのことに臆病になって縮こまっていたから、客に
やっぱりルイのそばにいたいと思う。
頼ってばかりだったサリーの代わりではなく、対等な関係がもてるようになってみたい。
思いを巡らしている様子のフェリスに、ルイが遠慮がちに訊いてきた。
「ぶしつけな質問させて」
硬くなった声に、フェリスは唇を結んだ。急になんだろうか。
「フェリスは……身体を売っていたことがある?」
フェリスの顔が、色を失った。
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