2 ノックをしたのは
〝客〟が部屋を使っている間、フェリスはクリスタル・ダイナーで時間を過ごす。
最初に入ったきっかけは、近くにあったから。
二度目、三度目と続いたのは、いつ行っても開いているから。
ここを選んで通うようになったのは、初老のエプロン店主が、無粋な客から守ってくれるからだった。
そして店主自身も、心地いい距離を保ってくれた。
話好きのようだが、プライベートに踏み込むような話題は一切ふってこない。容姿に関するお世辞もない。構えることなく自然に話せる雰囲気は、サリーを思い出させた。
ただダイナーの料金でも、再三利用する
そういうときは、部屋のキッチンの隅で、息を潜めていた。
客たちは気にしていない。中には他人に聞かれることで、興奮する者もいる。
フェリスも気にならなかった。芝居がかった女の声も、物音のひとつと変わりない。終わったあと、控えていたフェリスを揶揄してくる男がいることが、うっとうしいだけだ。
客たちが引き上げて、ひとりになると、客たちが使った同じベッドで眠った。他人の情交で使われたベッドでも、サリーの元に身を寄せる以前のことを思えば、どうということはない。
安全であることが、なによりも重要だった。
加えてパブの仕事は、フェリスの体力には厳しい。疲労した身体は、強く睡眠を求めた。羊を数える必要もない。横たわれば、すぐに眠れた。
なのに昨夜は、ほとんど眠れなかった。
小さくなってきたルイとの距離を考えているうちに、ブラインドの外が明るくなっていた。
徐々に明るくなってきた部屋のなかで、何十回目かの寝返りをうつ。枕元に置いた、ルイの名刺が目に入るのも同じ数。
ふと、何か約束みたいなことがあったような気がした。
たわいもないことであり、楽しみにしていたような……。
何かあったことは間違いないのだが、抜けない疲労感のせいで、思い出すのが面倒になってくる。時計に目をやると、正午に近い。寝るのも思い出すのもあきらめた。
もぞもぞと起きあがったタイミングで、玄関ドアを叩く音がした。
ルイ・コスギが自分のセクシャリティーに疑問をもったのが
そうしてまだティーンの早い時期から、経済的な自立を意識するようになった。
とはいえ、大学進学がかなう経済的余裕が家になく、奨学金をとれるほどの成績もない。そのかわりに、運動能力と体力はあった。
机仕事でない警官なら、これらを活かせるし、高卒でもそこそこ安定して働ける——。
司法制度や一般教養に頭をしぼる事態など想像しないまま、アカデミーに入学した。
卒業できたのは、ルイの執念の結果ともいえた。
誰かに頼る生活では、自分のままで生きることはむずかしい。セクシャリティー面でのことを除いたとしても、生き方として譲りたくなかった。
大きな病気もなく健康なのは、実に幸運なことだ。この幸運でもって働いて、めぐまれなかった誰かを支えたいという、ひそかな思いもあった。
警官の仕事はラクじゃない。
一般の会社勤めのような、バカバカしいほどのペーパーワークや雑務も山とある。
現場では、人間の醜怪さを目の当たりにして、理不尽な暴力に対峙させられる、大きなストレスがある。そして、悪い面がめだつ階級社会だ。
それでもルイは、警官でいたかった。
報酬は高いといえないが、医療保険の保障や、年金、退職金制度があるから、生活面で安心できる。
表向きとは裏腹に、プライベートをオープンにできない偏見が根強い——多様な警官がいてこそ、住民のヘルプに応えられることを理解できない——職場でも、バディにはめぐまれた。カルロス本人に言ったことはないが。
カルロスといえば、よくシングルの長さを嘆いている。ここに警官ゆえの悩ましさが表れていた。
出会うのは犯罪者か、その周辺にいる者、もしくは同業者。少なくない警官の離婚をみても、パートナーとの関係を長く続けるむずかしさもある。
開き直って、ひとりが気楽という者もいるが、やはりパートナーはほしかった。仕事だけでは、人生の半分しか生きていない気がするから。
そのためにルイは、出勤前の貴重な時間を活用する。
約束したトーフペスト・ベーグルを手に、フェリスのアパートにむかった。
普段は、目についた店や屋台で適当に買っているが、これは同僚・友人にリサーチした。
買うために遠回りして、予定の時刻より少し遅れ気味になっている。歩く歩調を速めた。
少しの緊張も携えて。
この部屋にはドアブザーなんてものはないから、来訪者は自分の手を使ってサインを出す。ドアの叩き方に来訪者の感情が出るので、フェリスには都合がよかった。
少し忙しない叩き方だった。
気持ちが急くような叩き方は、よく聞かされる音だ。しかし、
「誰だろ……?」
昼間のこの時間なら〝客〟ではなかった。
かといって、部屋を訪ねてくるような友人はいないし、セールスが来るようなアパートでもない……
ベーグルだ。
ルイが朝食持参でくると言っていたのを思い出した。
差し入れなど、その場の会話の流れで出ただけだと考えていた。だから、軽い調子で好みを言えた。
本当に来てくれるとは思わなかった。
鍵を開けようとしたところで、くぐもった女性の声が届いた。
「下の階のワシントンっていいます。ちょっといい?」
「…………」
ひどく落胆していることに気づいた。
ルイに会うことを無意識のうちに、それほど楽しみにしていたのか……。
「ねえ、留守なの? すぐすむからさ」
「あ、はい。いま開けます」
居留守を使うことは考えなかった。
住民同士の交流がないので、初めて聞いた名前だ。それでも階下の住人が訪ねてくる理由──クレームなら思い当たることがあった。
昨夜の客との揉み合いが、思ったより響いていたのかもしれなかった。あるいは利用客が盛り上がった〝物音〟が、耳にはいってきたとか。
こじらせないために、さっさと謝ってしまおう。フェリスは深く考えず、ドアチェーンと鍵を外した。
「ご用は──」
ドアを開けて声を失う。そこにいたのは、女性ではなかった。
厚い胸板のせいで、色が褪せたTシャツが盛り上がり、太い首にクモの巣のタトゥーが張り付いている。フェリスは、男を見上げたまま後ずさった。
「なんだ。話に聞いていたより貧相な女だな」
タトゥー男の淫猥な視線が、フェリスの胸元や腰を這いまわる。
「まあ、顔が良いだけマシか」
男の背後から、ワシントンと名乗った女が含み笑いをもらした。
「このままじゃすませないって言ったよね?」
「……昨日の!」
時間を過ぎているのに休ませろとゴネていた女だ。派手な化粧をおとし、地味な服に変えていたせいで、印象がまるで違っていた。
「仲良しの警官がいれば大丈夫だとでも思ってたのなら、とんだ楽天家よ」
タトゥー男が口角を吊り上げた。
「身体に教えてやれば覚えるさ」
フェリスは身をひるがえす。通報して助けを。電話に駆け寄ろうとして、分厚い手に肩をきつく掴まれた。
骨が軋む音を聞いた気がした。
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