三章 求めているのは

1 By my side

 この街の家賃はバカ高い。

 眠ることができれば充分でも、シェアする相手がいないフェリスが部屋を探すのは大変だった。

 ブルーパブを営むダグの下で働くことにしたのも、住む部屋を用意してもらえたからといえる。

 接客は苦手だ。呑み屋も好きじゃない。

 貸してもらう部屋も、自分だけが使える部屋ではなかった。むしろ合間の時間に、こちらが使わせてもらうといったほうがいいかもしれない。

 それでも、ネズミや隣人の迷惑行為に怯えずにすみそうな部屋は魅力的だった。

 店から歩いて数分のこの部屋は、ダグがサイドワーク用の部屋として借りているものだった。時間単位のレンタル・ルームとして、仕事も個人での利用も関係なく貸している。

 フェリスが住む前は、昼間も何かで貸していたらしい。そこをふいにしてでも、パブに人手が欲しかったとみえる。

 フェリスの仕事は、ブルーパブと並行して、この部屋の管理を手伝うことだった。

 掃除や備品の整理は苦にならない。本来なら他人が目にすることはない行為の後片づけを含めても。

 客が使ったあとの部屋にはいると、金属っぽい甘い臭いや、シンナーに似た臭いが残っていることがある。思い当たることがあるが、考えないようにして換気した。

 この仕事で、店での給与とは別に手当てが出る。少額ながら貯金ができたのは初めてのことで、それを思えば悪いことばかりではなかった。。

 気が重くなるのは、利用ルールを守ってくれない客が時々いることだ。

 一筋縄ではいかない客──以前の仕事の同業者とのやりとりには骨が折れた。


「利用時間すぎてます。早く出てください」

「疲れてるんだからから一時間ぐらい大目に見てよ。飼い主ダグに黙っておくだけでいいんだから簡単でしょ」

「次の人が来ます。掃除しておかないといけないんです」

 小柄できゃしゃな体躯に、うつむきがちな視線。相手はフェリスの見てくれで、なめてかかってくる。ゴネれば折れると思っている。

 現に断りきれずに、次の客とバッティングしてしまい、ダグに怒鳴りつけられたこともあった。

 同じ間違いは繰り返したくない。

 自分の場所は、自分で守らないといけない思いが強くなっていた。

 悔しいが、いまの自分はダグの胸三寸で生かされている。認めたうえで、いまある場所を守る努力をおしまない。やる気をなくしたら、こんな部屋すら失ってしまうことになる。

 フェリスは、精一杯の強い態度をとった。

 放り出されていた客のバックを拾い上げ、相手に押し付ける。追い出しにかかった。

 不健康な生活で、さして腕力のない女でも、フェリスには厳しい相手だった。酒の酔いで脱力して、とらえどころのない身体を、どうにかドアの外まで押し出した。

「あんたもわかるでしょ? 男のいないベッドで休みたいのよ! ベッド本来の使いみちを忘れるぐらい、働き通しなんだから」

「ここは時間制の貸し出しベッドです。モーテルに行ってください」

 相手の目がつり上がった。

「わかった口をきくんじゃないよ!」

 下手に出ても効果がないとわかると、右手があがった。

 フェリスの肩を突き飛ばそうと手を引いたところで、

「そこのふたり!」

 鋭い声がとんできた。


「おしゃべりは夜の十時にふさわしい音量……って、フェリス?」

「コスギさん……!」

「顔見知り⁉︎」

 警官の制服をみとめた女が舌打ちした。分が悪い。癪に障るが、この場は退いた方が賢明だと判断した。

「あんたの行動範囲はわかってる。このままじゃすませないからね!」

 オーソドックスな捨て台詞をおいて立ち去ろうとする。

 狭い廊下でルイとすれ違いざま、偶然を装って肩をぶつけようとした。が、予測範囲内の行動をルイは簡単にいなす。

 バランスを崩した女が、口の中で四文字言葉の呪詛をつぶやき、今度こそ立ち去った。

「あの、いまのひとは……別に……」

「上の階に用があって来てたの」

 ルイは、言葉を重ねるようにして話した。立ち入ったことを訊くつもりない。

 服と化粧から、相手の仕事の察しがついていた。いたずらに仕事を増やすだけなら、聞かないほうがいいこともある。

「困ったことがあったら、痴話喧嘩で通報してもいいんだからね」

「痴話……そんなんじゃないです!」

「気に障ったらごめん、ジョークは下手なの。でも、本当に何かあったら連絡して」

 たくさんある制服のポケットのひとつから、名刺を出す。余白にペンを走らせた。

「911に抵抗あるなら、こっちで。プライベートの番号だから、わたししかとらない。茶飲み相手になってでも、荷物持ちを頼みたいでもOK。無理なときは断るから、気軽にね」

 フェリスは素直に受けとらない。

「困ったひとには誰にでもプライベートの番号をおしえているんですか?」

「もちろん、誰にでもじゃない。あなただから、おしえたの」

「職権濫用……?」

 ルイは小さく吹き出した。

「うん、まあそうだね」

 肯定したが、真剣に伝えたいこともある。警官の顔にもどって続けた。

「プライベート番号は下心がはいってる。でも、助けたいのは本心で職業病」

「正直に言っちゃっていいんですか?」

「ウソ言って、あとでバレたほうが印象悪くなる。なら最初から、ぶっちゃけたほうがいいかなって」

「店で勤務時間をおしえてくれたとき、はぐらかせました。自分が誘われるなんて思い上がりだと思ったし、本当なら……怖かった。いろいろあったから」

「話してくれてありがとう。警官と付き合うのは、ほかのひととは違ってくることがあると思う。だから、フェリスのペースで近づいてきてくれたら嬉しい。やっぱダメでも、それでいい。とりあえずのお試しで充分だよ」

 本音はもうひとつあった。

 近くにいればフェリスをマスター——ダグから遠ざけやすくなる。

 ダグのサイドビジネスがどんなものか、まだわからない。小さい違法なら、あえて指摘するつもりもない。

 けれど、フェリスの安全が関わってくるようなら、すぐに対処できる位置にいたかった。

 フェリスの手が、名刺を受けとった。少しの苦笑をそえて。

「じゃあ、いちおう」

「うん。いちおうでいいから」

「——ということで、話はついたのか?」

 いつのまに下りてきていたのか。やや距離をおいてカルロスが立っていた。

「やあ、奇遇だな」

 フェリスへ挨拶がわりに片手をあげ、

「上の階まで声が届いてきたけど、たいしたトラブルじゃなかった?」

「あ……さわがせて、ごめんなさい」

 警察沙汰になると、ダグがまた怒り出しかねない。居合わせてくれて助かったと思う。

「こっちの騒ぎの元凶は、さっき出ていった。カルロスも片付けてきたんなら、すぐ声をかけてくれたらよかったのに」

「貸しをつくっとこうと思って。それより上階の宿六のせいで、ボタンが弾け飛んじまった」

 シャツの胸元が中途半端にあいていた。

「捕まえてきてないってことは——」

「報告書が面倒くさい。の措置ですませて無線を入れておいた」

「まあ現実的にいかないとね──って、部外者に聞かせたらマズイんだけど」

「聞こえませんでしたから。すいません……針と糸をお貸しできればよかったんですけど……」

 時計を気にしているフェリスに応える。

「気を使わなくていいよ。ダクトテープでとめとけばいいし」

「うん、そういうやつだよな、ルイは」

「部屋はここ?」と、相棒の反応を耳に入れていないルイ。

「……ええ、まあ」

「明日の出勤前、差し入れ持ってきたいんだけど。いい?」

「いただく理由がありません」

「口止め料。蜂蜜ベーコンのベーグルと、コーヒーなんてどう?」

 少々強引かと思ったが、

「安すぎだろ」と、カルロスが流れをつくってくれる。

 フェリスに向かって「デザート付きでないと、うっかり話しそうだよな」

「そこまでは」

 フェリスが笑みをこぼした。

 返ってきた好意的な表情に、カルロスの片手が動く。フェリスからは死角になる位置で、相棒の背中にゲンコツをぶつけた。

「ただ、ベーコンは好きじゃないから、クリームチーズかトーフペーストにしてもらっても?」

「10ー4(了解テン・フォー)」

 ルイは目尻を下げて敬礼してみせた。自分からリクエストを出してくるのは、いい傾向だ。もう一方の手をカルロスの背後に回し、ゲンコツを返した。

 いいところにヒットしたらしい。カルロスがむせているところで無線が入った。オペレーターが家宅侵入のコードをがなっている。

「長居してごめんね。それじゃ」

「いってらっしゃい。気をつけて」

「あんたもな! 揉め事おきたら、ご遠慮なく」

「ちょっかいかけてないで、早く!」

「長話してたの、ルイだろ!?」

 小さくなっていく二人の声が完全に聞こえなくなってから、フェリスは部屋に戻った。

 いつもより、ずいぶん静かに感じた。


 ベッドに座ったフェリスは、渡された名刺に目を落とした。

 学校にはほとんど通えなかったが、問題なく読める。

 この街の人間は、富者から貧者まで、すきあらば出し抜いて、こちらが持っているものを残らず収奪しようとする。契約書に請求書。文字が理解できないことは死活問題だ──。

 そう教えられたフェリスは、必死になって覚えた。

 そのアドバイスをくれて、教えてくれたのもサリーだった。

 名刺には、手書きで書き加えられた名前と電話番号、メールアドレス、二十四時間受付中の文字。簡単に教えることではないから、ルイの本気の表れなのか。

 サリーに訊いたらわかる……と考えている自分に気付いて、自嘲した。

 自分からサリーと離れた。

 離れたあとは意識して、思い出さないようにしていた。ひとりでやっていこうとした。

 なのに、いったん再会してしまうと、またサリーに面倒をみてもらっていた頃に戻ろうとしている。自分で考えないと。

 サリーを頭から追い出す。メモされた文字を指でなぞった。

 ルイ・コスギ。

 本名だ。ニックネームでも、通り名でもない。本当の名前を預けてくれた。

 ルイには良いところしか見せていない。強盗の逮捕や、怪我人の救護を手伝い、パブで忙しげに働く、表向きの顔だけ。

 察しが悪いふりをして、距離をあけようとしても、あきらめない。そばに居続けようとするルイに、いつも間にか安心感を覚えるようになった。

 このひとなら、ずっとそばにいてくれるかもしれない。

 ただ、不安もある。まだ見せていない顔を知ったとき、彼女はどうするだろうか。

 もしかしたら、警官としての思惑があるかもしれなかった。

 ダグのサイドビジネスは、完全にアウトだ。裏を取るための、とっかかりにされている可能性は否定できない。

 こういったネガティブなことが思い浮かんでも、近しくなりたい期待があった。

 自分はいったいどうしたいのか……。

 彼女が望んでいるのがセックスだけなら、ことは簡単だった。身体だけなら、離れるときも簡単そうだから。

 以前の仕事では、同性の客も少ないながらいた。性の嗜好と指向は人それぞれであることを承知していたから、最初から抵抗はなかった。

 もっとも、身体を道具にすることだから、できたのかもしれない。

 それに女のときのほうが、暴力に晒される危険が少なくなる安堵があった。オーダーがきたときは、積極的に手をあげた。

 けれども世間でいう、愛し合うということになると、いまひとつわからない。

 ルイは警官だ。人に言えないことばかりの過去をもつ自分とは、対極にある。応える資格があるのか疑わしい。

 そばにいたい気持ちはある。

 しかし本心で付き合うなら、嘘はつきたくない。

 ほかに選択肢がない生き方だったとはいえ、ルイはどう思うのか……。

 もうすぐ次の客が来る。思い切れない優柔不断にじりじりしながら、急いで部屋の準備にかかった。

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