3 コーヒーの味がわからない
「クリスタル・ダイナー」という店の由来は、オープン当初はクリスタルガラスのシャンデリアがあったことから。
現在はシンプルな電球色の灯りとなった下で、サリーはテーブルについた。
ブルーパブの閉店まで時間があったが、自分ひとりしかいない薄暗いオフィスに戻る気になれない。まっすぐ、このダイナーにきてしまった。
時間稼ぎに食事をとる。あまり入りそうにないお腹にあわせて、コブサラダを頼んだ。
トマトもアボガドもみずみずしい感じがするし、ドレッシングも油っぽさがない。たぶん美味しいのだと思う。
同業者や客の難癖には一歩もひかない。そのサリーが、あろうことかフェリスを待つ緊張で味がわからなかった。
昔の仕事仲間と会うだけだと、ことさら仲間であることを意識して、自分に言い聞かせる。サラダを機械的に咀嚼し、かつてないスローペースで食べ終えた。
時間を無為にすごしたくない。スケジュールを確認しておこうとしたが、やはり頭にはいってこない。ほかにやることもなくて、コーヒーを頼んだ。どうせ今夜は眠れないだろう。
深夜の店内ではサリーのほかに、三人ばかりの客がくつろいでいた。店主もカウンターのなかで小休止をとっている。
まったりとした時間が流れるなか、サリーだけがうわつき、何度も時計を見ていた。
フェリスに待ち合わせ場所を選ばせたのは、このほうが来る確率が高くなることに賭けて。
こちらから強制することはできなかった。仕事仲間でいた頃なら、サリーの顔をたてて、必ず来てくれただろうけれど、今夜はどうなるか。
とにかく会いたい。話がしたかった。
訊くべきことはあったが、ほかにも訊いてみたいことはいろいろある。どれから話すべきか……。
無性にタバコが欲しくなった。取り出そうとバックに手を入れてから気づく。
とっくにやめたのだった。禁煙に励んだわけではなく、不思議と欲しくなくなった。ナワバリだのショバ代だの、いまでも面倒なやりとりがあるのは変わらないのに。
それだけストリートに立つのは、大きなストレスがあったということだ。煙で覆い隠しながら、
それがいまや、ストリートに立っていた同じ時刻、こうして店の中に座っている。感慨深くもあり、妙な感じがした。
マネジメント稼業でも絶対にやっていける──。
自分に言い聞かせつつ、どうにか続けている。ちょっとした奇跡かもしれなかった。
時間を稼ぐため、少しずつ飲んでいたコーヒーもなくなろうとしている。別のメニューを頼むべきか思案を始めたところで、
来た——!
待ち人の登場に、カップを持ったまま立ち上がりそうになった。あきらめる用意もしていただけに、気持ちが一気にあがる。いつもの動作でカップを置いたつもりが、陶器がぶつかる音をたててしまった。
その音でフェリスが気づいた。
視線があうと、いったん立ち止まったものの、意を決するようにしてサリーのテーブルまできた。
座るように勧める。年甲斐もなく昂揚感が高まり、声が上擦りそうになった。
そんなサリーの気持ちに対して、ダイナーの照明のもとで見るフェリスの顔色は悪かった。気になるものの、ひとまずおいておく。
「きてくれて、ありがとう。オーダー何にする? あたしがもつから、好きなものなんでも頼んで」
「……じゃあ、ノンカフェのコーヒーで」
「食べたいものがない? 別の店にいこうか」
立ち上がりかけたサリーを、フェリスがとめた。
「店があがったあとは、疲れで食欲がでないだけ。いつものことだから」
心配されることを見越してか付け加えた。「朝はちゃんと食べてるから」
顔色がすぐれないのは、会うことに気分が重いだけではなかったようだ。もっとも、これはこれで心配になる。
「一緒に仕事してたときより痩せた気がするよ? コーヒーより、フルーツジュースかスープにしない?」
「サリー、かわってないね」
「なにが?」
「優しいとこ」
「誰にでも優しいってわけじゃない」
「ストリートの軒下でうずくまっていた、薄汚れたあたしに声をかけてくれた」
「それは……磨けば光ると思ったから」
ビジネスを言い訳にした。
「新しく仕事をしようとする駆け出しのところにきてくれる女なんて、なかなかいなかったし」
「自分で仕事を立ち上げてみて、よかった?」
「うん。愛おしいカノジョにまた会えるきっかけになったから」
照れ隠しなのか、フェリスが肩を小さくすくめて見せた。
「真面目に答えて」
本心だったのだが。
ストリートに立つことは、暴力と隣り合わせだった。
売春する女が相手となると、幼児的万能感を発揮してきたり、パートナーや恋人には決してやらないだろうプレイを要求し、強引に従わせようとしたり。
ヒエラルキーの低い娼婦が、そんな暴力から逃れるための手段は、同業の誰かと一緒に立ったり、ヒモやポン引きの男に護衛役を頼るぐらいしかなかった。
ひとりでやっていたサリーは、ときに横暴な客から殴られもした。
殴られて黙ったままでいるサリーではない。殴り、蹴り返して、難を逃れることもあった。
安い報酬で、客の好き勝手やらせてたまるか、だ。
管理する側になったのは、自衛の延長といえた。そこから広げて、自分たちで安全に、効率よく稼ぎたいと思った。
そのためには、まずは知識だ。売春婦なんかに無理だとバカにされながらも、独学で財務管理を覚えた。
それから、ひと。
ヒモの言いなりになっていることを良しとしない女たちを集め、マネージメントを始めた。容姿がいい、ユーモアのセンスがある、言葉で楽しませることができる。付加価値をアピールし、楽しみたい客とのマッチングをはかった。
そして、ストリートではなく、必ず屋内で。相手の車の中や、路地裏の暗がりで、安く早くやるのではなく、部屋を用意した。
売る側の女たちには、食事とシャワーを必須にした。不健康を隠すためのような過度な化粧も控えさせた。清潔感をまとわせ、売春婦のイメージをぬぐって客単価を上げ、利益をとれるようにはかる。
そして、自制を求めた。時間に遅れない、シラフでいること、客に合わせた服をといった簡単なこと。
それでも、いままで自由にやってきたことを束縛されると、面倒がる女はいる。サリーから求める基準もある。安全と適切なギャラが手に入るとはいえ、誰しもがやりたがるとは限らなかった。
簡単に集まらないから、声を掛ける相手はいつも探していた。
フェリスは、そんななかで見つけた一人だった。少し暗い印象があるのが難だが、それを上回る容姿があった。よく気がつき、察しがいいのも合格点。
打ち解けるうちに、控えめな笑顔をみせるようになった。こちらが本当の顔なのだろう。
仕事を忘れ、ずっと見ていたいと思うようになっていた。
「あたしにできる仕事なんて限られてるのはわかってる」
両手で包んだスープカップに目を落としたまま、ぽつぽつとフェリスは言葉をつないだ。
「でも、あのままサリーのところで仕事を続けていくのも、なんていうか怖くなっていて……」
サリーは急かさず、じっと聞き入る。
「サリーを見て、焦ったのかもしれない。周りに流されてるだけの自分と比べて……」
フェリスのうつむく角度が、さらに深くなった。
「ずっと謝りたかった。……勝手な理由で黙って出ていって、ごめんなさい」
サリーは、息を吐き出した。背もたれに体重をあずける。
「フェリスがいなくなった原因をずっと考えてた。仕事が厭になったのなら、しょうがない。でも同時に、あたしのやり方のどこが不味かったのかなって」
ほっとしているような表情に、フェリスのほうがもどかしくなる。
「飼い犬に手を噛まれるようなことされたんだよ? サリー、怒って。あたしを甘えさせないで」
サリーは、首を横に振った。
「例えでも、自分を犬なんて言っちゃダメ」
通りかかったエプロンの男——たぶん店長を呼び止めた。インターバルをとろうと、おかわりをもらう。カップに満たされたコーヒーを口に含んだ。
おいしい。安い店にありがちな作り置きの酸味はなく、ほどよいコクがあった。
「フェリスのめんどくさい性格はわかってる──わかってるつもりだった。なのに言い出せない空気をあたしがまとってたんだ。それだけのことだよ」
フェリスは、相手の気持ちを汲みすぎる傾向がある。
気が利くからだけではないところに問題があった。
少し我が儘になるぐらいで、ちょうどいい。ずっと気がかりだったことを聞けて、少し落ち着いた。
サリーは、パブを訪れた本来の目的にとりかかる。
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