2 運命のひとの憂鬱

 被疑者を蹴飛ばしたマスターは、ダグ・デービスと名乗った。ややエラが張っているものの整った顔立ちに、引き締まった身体つき。さきほどの睥睨へいげいするような態度はなりをひそめ、制服巡査にむかって平身低頭している。

「どんなに腹が立っていても暴力はさけるべきでした。感情にまかせて蹴り飛ばしたのは、悪かったと思っています」

「反省してるのはわかったけど、それを言う相手はおれでいいの?」

 カルロスは、呆れを抑え込んで訊いた。自分に言ってきた理由はわかっていた。

 ルイが場を外しているからではない。そもそも、女のルイが押さえていたから蹴飛ばしにいったのだ。

 ヒスパニックは不法移民という偏見で固まっているやつらと同じ胸クソ悪さだった。

「はい、自分の落ち度はわかっています。申し訳ないです」

 言葉が通じていない。面倒なうえに不愉快。カルロスは本音で応えた。

「あー、もういいよ。おれの前から消えてくれ」

 注意だけですんだマスターが、あからさまに安堵をうかべた。そうしてカルロスに背をむけるや一転、店員に声を荒げた。

「もっと、さっさと動け! フェリス、店の入り口にゴミが残ってるぞ!」

 小柄な店員が、びくりと肩をすくめる。

 もう一人の店員は、感情を口元に出した。舌打ちをしたのか、唇が小さく歪んだ。


「あのマスター、ギブソン巡査部長を見てるみたいだ」

「ボスはギチギチ階級社会の中間管理職。立場を引いてあげないと」

 独りごちたカルロスのセリフを、戻ってきたルイが拾った。

「上下関係に弱いやつは、上下関係つくるのも好きだよね」

 話している内容にそぐわない声色だ。

「もしかして、ご機嫌?」

「ま、気分の悪いことばかりでもなかったから」

 先ほどからルイの視線が追う先をカルロスもたどってみる。

 小柄な女性店員が、こちらにも向かって目で挨拶してきた。店内に消える後ろ姿を見送ったルイが、ぽそりとつぶやく。

「ミズ・ライト(Mrs.Right)──運命の人──を見つけたかもしれない」

 いきなりポエミーな言葉を投げつけてきた相棒に、カルロスは悪寒を走らせた。

 ポエムを否定するのではない。ライオンがピンクのバラを咥えているようなアンバランスが気持ち悪い。

「疲れてるのか? カウンセリング、申し込んどくか?」

「いい。ありがと。カウンセリングより、行動するほうがいいと思うから」

 行動? 背中にイヤな汗がにじむ。自分の直感が外れていることをカルロスは願った。


 倒れたイスを隅に集めながら、フェリスはため息をついた。

 割れたグラスとこぼれたビールが床一面に広がっている。元に戻すのに、どれだけ時間がかかるだろう。

「かったるいよねぇ」

 同僚のベサニーが同意するとともに、硬質な音を響かせた。

 仕事中でもよく口にしている、ハードキャンディーを噛み砕いたのだ。かすかに甘い匂いが漂う。

 やる気なさげに持ってきたモップを片手であやつり、グラスの破片を集めようとする。フェリスは慌ててとめた。

「待って。先に大きな破片を集めるから」

「わかった……っていうか、任せちゃっていい? 醸造タンクを見ておきたいの」

「いいよ。こっちはやっておく」

 ベサニーが醸造スペースのほうにいくと、ダグと二人だけでの作業になる。気が進まないものの、応じないわけにはいかなかった。

 もともとベサニーは、醸造所のほうがメインだ。その合間にホールにも入るが、客の反応をじかに確かめるためだった。立場的には、パブを切り回しているダグと同等らしい。

 もっとも、接客は好きではないのか、ホールの手伝いとしては頼りなかった。接客中でもハードキャンディーを口にしているし、客が立て込んでいても、不意に姿を消してしまうことがあった。

 エイダが捕まって、新しいスタッフを補充するにしても、いつになることやら。明日からのホールは、しばらくは実質一人でやることになるだろう。

 そんな重い気持ちを振り払い、床掃除にかかった。


 ブルーパブから救急車やパトカーが去ると、集まっていた野次馬も散りはじめる。

 警官に報せたあと、そのまま残っていたサリー・ラミレスも、野次馬の流れにのって店の前から離れた。

 プラチナブロンドの小柄な店員をしばらく探していたが、もう外に出てくる気配はなさそうだ。

 もともと彼女が目的ではなかった。怪我もなかったようだし、今日はこれでいいかと、あきらめた。日を改めればいい。

 恩を仇で返されたとは思っていないが、フェリス自身はどう思っているか。おそらく──いや、あの子の性格からして、間違いなく気にしている。

 クイーン売春婦だったときから変わっていない気がした。

 当初の目的が果たせないままになったが、思わぬトラブルをさばくことができたことで納得する。

 たまたま近くにいた、女とヒスパニックのパトロール・コンビが、使える警官でよかった。やつらでも、たまには役に立つのがいる。


     **


 醸造所を併設したブルーパブという形態は、表向きとは別の、もうひとつの商売に都合がよかった。

 オーナーからここを任されたとき、雇われマスターとしてダグを採ったことも成功した。

 ただし、どうしようもない難点もあった。

 誰にでもあるものだから、ダグも例外ではないのは承知している。とはいえ、軽率なままでは商売の命取りになる。今日のことを見過ごすわけにはいかなかった。

 主原料を粉砕する麦芽粉砕機、発酵や熟成のためのタンク、洗浄機といった設備が並ぶ工場スペース。ほかの醸造スタッフが引き上げた深夜に、ダグを呼びつけた。

 自分より高い位置にあるダグの顔を冷淡に見やる。

 ──警官の前で強盗を蹴り飛ばす考えなし。

 ──主導権をもつというのは、コントロールしてやることだ。

 改めて指摘されると腹立たしいのだろう。表情に怒りの火が入ったものの、すぐに消えた。

 こちらのに反応したからだ。

 肩のあたりが強張ったところを見ると、抵抗する気力まではないらしかった。

 戦いは、腕力だけで決まるものではない。身体の力を使うために必要なのは精神の力だ。精神で負けていれば、萎縮するか逃げるかしかなくなる。

 こいつはイニシアチブをとっているつもりなだけの小物だ。

 とはいえ、潰れる寸前だったパブが持ち直したのは、調理場を切り盛りするダグの腕があればこそといえた。うまく使ってやれば、まだまだ役に立つ。

 この商売、これからだ。

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