一章 警官と元クイーン
1 弱そうで、強い
この国の独立記念日が十四日後に控えている以外、さして変わりのない勤務だった。
酒をめぐる悶着も落ち着いてくる時刻が、ナイトシフトが終了する時刻でもある。あと十三分で解放される、午後十時四十七分。
湾が近いこのあたりは、かつては倉庫街が広がっていた。使われなくなった倉庫が改装され、ギャラリーやショップがすっかり増えてきた一画。
分署に引き上げるパトロールカーの運転席で、エンジンをかけようとしたカルロスをバディがとめた。
助手席のルイ・コスギが、サイドウィンドーの外を指している。若い女性がこちらを目指してやってくるところだった。
このタイミングで面倒なと思いつつ、腰の位置が高いスタイルの良さに目を惹かれる。
なるほど。カルロスは、相棒の仕事熱心を理解した。
性的な嗜好は知らないが、性的指向なら承知していた。
「中年のオヤジだったら絶対、見なかったことにしてただろ?」
ルイは指摘を聞き流し、パトカーを降りた。小さく肩をすくめ、カルロスも続く。
女性は警官コンビの側まで来ておきながら、すぐに用件を切り出そうとしなかった。降りてきたルイを見上げ、カルロスにも目をやって黙る。
時折、浴びる視線だった。まだ若い女性巡査と、男にしては少し小柄なヒスパニック系の巡査に任せて大丈夫か? といったところ。
「入った店に妙な感じの男がきてさ。あたしは、すぐに出てきたんだけど、確かめてくれない?」
合格点をもらったらしい。
「危険なものを持っていた、とか?」とルイ。
「不安を感じただけじゃダメ?」
「そこは問題ないです。状況を聞いておきたたかったから」
「パーカー着て、フードまでかぶってるから、風邪でもひいてるのかと思った。でも、そんなので呑みにくるのもヘンだし、この時間にサングラスっていう、わかりやすい格好だったし」
「店にいた人数、わかります?」
「客は十人ちょいぐらい。店員は、女三人と男一人だったと思う。黒シャツが制服みたいだから、見分けはつく」
不審な物音。不審な人物。
不審という通報は厭なものだ。通報者の思い過ごしで何事もないことが多いが、確かめるまでは気が抜けない。
シフトあがりに連れ立って行くはずだったバーを、ふたりして意識から追い出した。問題の店を教えてもらい、ルイとカルロスは駆け出す。
どうせなら、シフトが終わったあとで入りたい店だった。
醸造所を併設したブルーパブで、地ビールに迎えられるも、呑むことはかなわない。香りを堪能するヒマもなく、すぐに異状を察知した。
入り口すぐのフードカウンターに、フードの男がいた。
制服警官が潤いの場に入ると、注目を浴びやすい。「何かあったのか?」の野次馬的興味から、「さっさと出てけ」まで。
そんななかで、顔を背けたフード男は目立った。
右手は、死角にあって確かめられない。向かい合っているブルネットの女性の手は、開かれたレジの上で止まったまま。
それらを同時に見てとったルイは、もうひとつのことに気付いた。
フードカウンターそばのテーブルにいた、小柄な女性店員が、ルイにアイコンタクトを送ってきている。
彼女の視線がさしたのは、同僚のブルネット女性の手元だった。
手の中には、複数枚の紙幣。釣り銭ではない。札を伸ばしたままにせず、二つ折りにしているのは──
ブルネットが、フード男の顔を一瞬だけうかがう。その顔に怯えがないことを見てとると同時に、ルイはハンドガンを抜いた。
「そのまま動くな! カルロス、レジの女もだ!」
フード男の右手が警告を無視して動く。が、グラスが割れた唐突な音へ、反射的に振り向いた。
その隙で、ルイは一気に距離を詰めた。
左手で、男が抜いたリボルバーのシリンダーを掴む。発砲を防いでから、ハンドガンのグリップ底で、右フックを入れた。
パンチの衝撃で、フード男が意識レベルを落とした。身体が揺らぐ。フードとサングラスが外れ、まだ若い容貌があらわになった。
ダメージで緩んだ右手から、ルイはリボルバーを奪いとった──つもりが勢いがつきすぎたのか、弾け飛ばしてしまう。
ブルネットの女が動いた。
押さえようとするカルロスの腕をすり抜ける。床を滑るリボルバーへと走り寄る。つまずいた体勢でリボルバーを拾いあげる。半歩遅れた追いついたカルロスの眼前に、尻餅をついたまま銃口を向けた。
ブルネットが、警官に向けて迷いなくトリガーを絞った。
銃口を覗かされたカルロスの身体が、考える前に反応する。
とっさに身体を倒し、射線から外れる。
床に倒れこみながら、ガンベルトからマグライトを引き抜く。ブルネットに向けて投げつける。顎にヒットさせた。
客たちの悲鳴と喚声がわきおこる。そのなかに、うめき声がまじった。
ルイは、フード男をうつ伏せに押さえ込み、手錠をかけながら店内をみわたす。うめき声の主を探した。
初老の男性が、脚をおさえて、うずくまっていた。ブルネットが撃った弾丸が、流れ弾か跳弾となって、無関係な人間を巻き込んでいた。
ルイは主犯らしきフード男、カルロスも暴れるブルネットを押さえている最中だ。男を強制的に眠らせて措置にあたろうかと考えたところで、黒シャツの店員が、足音荒く近づいてきた。
「グルになって俺の店を狙ったんだな⁉︎ ふざけやがって!」
止める間もなかった。
黒シャツが、被疑者の腹を蹴り上げた。床から身体が浮き上がるほどのパワーを受け、フード男が床をのたうって悶絶した。
「さがれっ‼︎」ルイが一喝する。
「被疑者だから何をしてもいいってわけじゃない! 俺の店ってことはマスター? マスターなら客の安全確保が最優先でしょ⁉︎」
ルイの剣幕に、口の中で何やらもごもご言いつつ引き下がった。
熱くなるバディに、カルロスがすかさず間に割って入る。
「被疑者は二人とも、おれが押さえとく。ルイは怪我人を頼む」
ルイの頭が一瞬で冷えた。
バディのそばまで男を引きずってから、怪我人に駆け寄った。
小柄な女性店員が、すでにタオルで止血にかかっていた。傷口より上、
「ありがとう、代わるよ」
ラテックス手袋をはめ、場所をゆずってもらった。
「救急車は呼びました」
「早くて、完璧。グラスを落として注意を引いてくれたのも、あなただよね? 名前は?」
「こっそり落としたつもりだったんですけど。ウォーレスです。フェリシア・ウォーレス」
「やっぱり、そうだったんだ。音がした方向のテーブルのそばに立っていたのは、あなただけだった。他の皆は、壁の間際までさがっていたから」
被疑者だけでなく、周囲の状況も視野に入れているのは習い性だ。
いあわせた誰もが、恐怖とパニックでかたまっていたなかで見せた機転。フェリシア嬢はこの強さをどこで身につけたのかと思う。
止血タオルを結んだのと同時に、初老男性が大きく呻いた。
「痛いですよね、つらいですよね」
フェリスが初老男性の手を両手で握った。
銃創は大きな血管からは外れていたが、弾丸で肉体をえぐられる精神的ショックは大きい。うろたえて過呼吸をおこしている男性に、フェリスは声をかけ続けた。
「息をゆっくり吐いて。救急車がくるまで、もう少し頑張ってください」
この献身的な姿勢は、単なる性格なのか、共依存的なものなのか——。
いささか気になったものの、すぐにうやむやになる。
ルイは、しばし仕事を忘れた。
すぐそばで見るフェリスは、ルイより五つばかり年下。ユニフォームの黒シャツに、白い肌が映えている。薄い色のブロンドは、シンプルな髪留めでまとめられ、バーで働いている派手さもない。
流血の現場とは場違いな組み合わせに、思考が囚われそうになる。
そんなルイを怒鳴り声が警官に引き戻した。
「フェリス! この偽善者がっ!」
カルロスに引っ張り起こされたブルネットが喚いた。
「保釈金のアテはあるんだ! すぐに出てきて、その善人ヅラに──」
「はいはい、その元気は保釈金を待ってる間のためにとっとけな。どんな先客が留置所にいるか、わかったもんじゃないぞ」
よく聞く台詞をカルロスがいなしながら、パトカーへと引きずっていく。
ルイが慰めの言葉をかけるより先に、フェリスが応えた。
「いいんです。エイダが──さっきの彼女が言っていた『偽善者』っていうのは、本当です」
困ったような笑みに、ルイはレスポンスを変える。
「偽善的でいいんじゃない? 自分の得になるように動くのは、当たり前のことだよ。だいたい偽善の意味なんて、ひとによって変わるものだし」
「……そんなこと言われたの、初めてです」
「気遣いが過ぎる人なら、それぐらいでちょうどよくなる。あなたは私のこと、どういうふうに見てる?」
質問を返され、少しばかり慌てながら、
「危ないところを助けてくれた人……当たり前の答えしか言えなくて、すいません」
「当然の仕事をした警官──ってとこだよね」
「当然とか思ってません!」
「当然なのに、しないやつがいるもんね」
「え? いえ、そういう意味じゃなくて、確かに全部が全部いい人ばかり……じゃなくて!」
「ごめん。からかった」
「もう……」
フェリスの硬い表情がほどけた。
「そのいい人そうに見えた警官も、つまるところ自分本位だよ。職務上で知り合った人のもとに、これから私欲で通うから」
フェリスの目が、点になる。
どういうことか訊き返される前に、ルイは仕事に戻った。語らいを終わらせるのは名残惜しいが、仕事終わりを長引かせては、相棒の不興を買う。
これからのためのお願いごとがあるのだし。
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