殺したのは、あたし

栗岡志百

序章 終わらせたい、終わらせたくない

 臆病で温厚、危険になるとすぐに逃げ出す羊でも、ツノを持っているものがいる。

 そのことに、フェリスが気付く以前のこと──。


 男が倒れても、フェリスは身構えたままでいた。

 自分より頭ひとつ分は大きな相手だ。簡単に安心はできない。手に届くところにあったフライパンをとって盾にしていた。

 両手で持ちなおしても、鉄製フライパンの重さが華奢な腕を侵食してくる。疲労に耐える。警戒はゆるめない。

 倒れた男──ダグは、床に伏せったまま、ぴくりとも動かない。

 おかしい……。

 暴力の恐怖にかわって、不安が膨れあがってきた。思い浮かんだ可能性を否定する確証がほしいが、怖くてダグに近付けない。

 どうすればいい?

 このところ毎日のように会っている、濃いブルーの制服姿の女性が脳裏にうかんだ。

 ルイ・コスギ。パトロール警官の彼女なら、こんな場面でも冷静に……

 すぐに駄目だと思い直した。

 警官だからこそ、人のいいルイを困らせてしまうだけになる。

 それに、仕事を失わせてしまうかもしれない。

 彼女が警官になったのは、経済的な安定を得て、自分のセクシャリティーで生きるためでもあっただろうから──。

 次いで、もうひとり、サリーの姿が浮かんだ。

 すらりとした見目にそぐわない、したたかさと強さ。彼女なら、とるべき行動を示してくれるだろう。が、こちらもあきらめた。頼るわけにいかなかった。

 彼女を裏切ってきたのだから。

 なすすべがない——。

 身体から力が抜けていく。フライパンが手から抜け出し、派手な音をたてて床を打ちつけた。

 膝の力が抜けて、床に座り込んだのは、動かないダグに安心してのことだけではなかった。

 不甲斐ない自分への絶望感だ。

 これまでの生活から抜け出ようとして足掻いた。でも、結局は同じところにいる。窮地に立って、また頼る人を探している。

 やはり、ひとりでやっていく力はなかったのか。どうしようもないのか……。

 生まれたときの環境からは逃れられない。まっとうな生き方など無理だったのだ。

 うなだれていたフェリスの肩が、不意にびくりと上がった。慌ててて背後を見回す。

 何か、聞こえた気がした。

 誰か来たのかと思ったが、周囲に人影などない。

 当然だった。閉店時刻を過ぎれば、訪れてくる人などいるはずがなかった。

 幻聴が聞こえるのは、何もかもに疲れているせいだ。

 もう、これ以上は頑張れない。全部、終わらせたくなった。

 視線が、いま立っている調理場をさまよった。

 グラウラーと呼ばれる、ビールをテイクアウトするための容器が並んでいる。その隣、業務用の大きな流し台を通り過ぎ、調理台へ。

 サンドイッチナイフでとまった。

 さして大きくはないが、鋼の鋭い刃が、柔らかいパンでもすっぱり切り落とす。そちらに向かってフェリスの手がのびた。

「何してるの?」

 身体がびくりとはねた。今度は本当に聞こえた。この場の空気にまったくふさわしくない、明日の天気を訊くような軽い口ぶり。

 この声は──。

 久しぶりに聞いた声は、あのときの再現だった。

 体温を雨に奪われ、軒下で身を縮こまらせながら、眠れる場所の思案に暮れていたときに聞いたのと、同じ。

 振り向いた先に、懐かしい人がいた。

 その姿を見て、気持ちが揺らいだ。

 ここで終わらせるのか、それとも——

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