第67話 黒々と染まった悍ましき愛憎の声(2)


 本気で怒り狂ってるのか、それとも追い詰められて錯乱状態なのか。両方が重なり、完全に我を忘れてるのかもしれない。とにかく吠え続けるだけの狂人と成り果てた和春を見て、俺はむしろ冷静さを取り戻していた。何しろこの状況は好都合。異変を察知した近隣住民が通報してくれれば、奴は一発で縄を掛けられるのだから。

 しかし聞くに耐えない罵声が、愛華さんを蝕まないか心配である。

 


「てめぇも知ってんだろうけどなぁ、その女は化け物なんだよ! 男心を引きずり出し、取り返しがつかないとこまで魅了しちまう! 前の男もその前の男も、どいつもバカばっかりだから最後は壊れやがった!」


「なに意味分かんないこと言ってんだ?」


「おいおいマジかよ、愛華からなんも聞いてねぇのかー!? お前今までで一番のピエロじゃねぇか!」


 

 奴が俺を指差して爆笑してる理由に、なんの心当たりもない。強いて言えば、「確かにあんたは壊れてるかもな」と思う程度だった。

 だが唐突に出た過去の内容が気にならないわけではなく、ゆっくり後ろに視線を向けると、そこには気まずそうに俯く愛華さんの姿が。つまり彼女にとって後ろめたい話だったのは間違いないのだろう。

 俺は持ち上げたままの右腕を動かさずに、ヘラヘラして不愉快な男を、ありったけの憎悪を込めて睨みつけた。

 


「ピエロでもなんでもいい。あんたみたいに目も当てられない人間に堕ちるくらいなら、全力で踊って愛華さんを笑わせてやるよ」


「くっせぇ〜なぁ、臭過ぎて笑えねぇよ。お前みたいに一途なバカほど愛華を苦しめ、そのうち互いに満たされなくなんだよなぁ。どーせ必要とされる為の芝居なんだからよー!!」


「違うから!! 蒼葉くんだけは、あたしから好きになった人だから!!」


「………は?」

 


 和春の発言に全く理解が追いつかない中、突如愛華さんが力強く叫んだ。とかだとか、こちらにプレッシャーをかけるにしては不明点が多い。ただし愛華さんの反感を買うには充分だったらしく、彼女は真っ向からそれを否定し、バカ笑いしてた男は唖然としている。

 立て続けにぶつけられた彼女からの反論で、少しだけやり取りの骨格部分が見え始めた。

 


「今まではあたしが受け身で、付き合った人をおかしくさせちゃってたのは認める。人が変わったように束縛されたり、交友関係を壊されたりしたから、愛想尽かして別れたよ。でも蒼葉くんはあたしから——」


「ふざけんじゃねぇぞ!! 今度はお前がそのクソガキ相手に狂っちまったっつぅのかよ!!」


「く、狂っちゃったのは和くんだし、蒼葉くんはクソガキなんかじゃないから!」


「もういい、黙れ。年明けから妙に明るくなったんでおかしいと思ってたが、やっぱ何もかもてめぇの仕業だってこった」

 


 俺を挟んでいがみ合ってた二人だが、急に正面の血走った目玉は、こちらにギョロっと焦点を合わせる。

 まだ誰も警察に連絡してないみたいで、公園内から見渡せる範囲は静かなまま。こうなったら自分で通報するしかないけど、電話してる間は愛華さんが危険だし、警官が到着するまでに実家が襲撃されても困る。相手の方が家に繋がる出口に近く、スマホを取り出したと同時に方向転換されたら間に合わない。

 見回しつつ別の手段を探していると、和春の手が先に動いた。

 


「不気味な面して、ジーパンから何を披露するつもりだ?」


「もういい。お前が消えない限り、俺の愛華は永遠に戻ってこないんだろうよ」

 


 ポケットに手を突っ込み、ブツブツ言いながら奴が取り出した得物は、折り畳み式のキャンプナイフだろうか。カッターくらいの手のひらサイズでは、大した脅しにもならない。握り方もだし、本気でまともな思考を放棄した状態だと分かり、バカバカしくなってきた。

 


「やめとけよ。あんたがそれを扱っても致命傷は与えられない。過剰防衛にならない程度に痛めつけることになるが?」


「ちっこいクセに威勢はいいなぁ。耳の下にある頸動脈けいどうみゃくなんざこれで切れる。そしたら一発でお陀仏なんだよ」


「間抜け。リーチの差があっても易々と届かせねぇわ。愛華さん、もっと奥に下がって」


「あ、相手にしちゃダメだよ。すぐに通報するから、蒼葉くんも逃げなきゃ」


「それはできません。あなたや家族が狙われるよりは、俺に意識が向いてた方がどうにかなる。通報だけお願いします」


「怪我しちゃうって!」


「いいから!! 早く離れろ!!」


「なんだよ石切、ヒーロー気取りかぁ? お前が死ぬなら他は知ったこっちゃねぇ。こっちは何ヶ月も我慢してきたんだからよォ!!」


「とんだ濡れ衣だな」

 


 威圧的に怒鳴った和春は、長い脚を活かして一気に距離を詰めてくる。逆手に持ったナイフを高々と掲げてる時点で、とても頸動脈を狙ってるとは思えない。もっと言えば、突こうとしてる位置が分かってるから、避けるのは容易いのだ。

 右足を軸にして左半身を後方に反らし、初撃を外した奴は、予想通りナイフを右腕だけで横に振り抜く。体重を乗せた一撃目に比べ、腰も入ってない腕力任せの攻撃なら、深手にはならないだろう。首付近を左腕で庇い、前腕部に刃先が突き刺さる瞬間、力を逃がす為に二歩後退りした。

 電話中の愛華さんが裏返った悲鳴を上げ、目の前の男は歯を剥き出してゲラゲラ笑っている。

 


「ひゃはははっ! おーい石切ぃ、激痛だろー? 痩せ我慢してんじゃねぇよ!」


「……バカが。犬に噛まれた方がよっぽど痛ぇっつーの」


「あぁん?? イカれてんのかてめぇ??」


「あとその持ち方はやめるべきだぞ?」


 

 左に振る際に順手に持ち替えてたナイフは、殺意が前面に現れており、血のついた先端が俺の顔に向けられている。即座につかをつま先で蹴り上げると、簡単に拳の中からすっぽ抜けて、俺の後方へと飛んでいった。

 慌てた和春は拾いに行きたい衝動に囚われ、横を素通りしようとするも、もちろん逃すはずがない。回り込んでシャツの襟と右手首を掴み、足を払って重心を崩せば、あっさり地面に転がってしまう。

 武道のたぐいを知らない奴でホッとしながら、うつ伏せ状態にして右腕を固めた。

 


「クソォっ!! 腕折れんだろこらァ!! 離せてめぇ、過剰防衛だぞ!!」


「アホか、こっちは刺されてんだよ。寝技の痛みくらいで喚くな」


「愛華ぁ、こいつやり過ぎだ!! なんとかしてくれ!!」


「蒼葉くん、すぐにお巡りさんと救急車来るって! でもこの体勢じゃ応急処置すらできない……」


「平気っす。今は押さえる為に筋肉が締まって、出血量も多くないんで」

 

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