第66話 黒々と染まった悍ましき愛憎の声(1)
9月に入って1週目の週末が訪れた。平日の5日間に起きた大きな変化は、被害届を提出したこと。愛華さんには『夫婦として決着をつけたい』という思いがあったわけだが、俺の家族と触れ合う中で、優先順位が入れ替わったらしい。多少の難色を浮かべながらも、貴船家への罪悪感より石切家との今後を大切にしたいと語って、弁護士にもその旨を伝えていた。結果として、元いた場所が管轄である警察署で弁護士と待ち合わせとなり、そこまで車で送迎したわけだ。
それが2日前の木曜の出来事で、専門家が同席した為か、あっさり受理されたとのこと。あとは捜査が入るのがいつになるかが問題であり、現状不明である。
ちなみに今週は寒川さんが一度尾行された以外、あちらに動きはない。決して油断はできないものの、愛華さんの呪縛がまた一つ解かれたことで、気持ちの良い2週間目を迎えていた。
「愛華ねぇね、今日は雨降ってないし外で遊ぼうぜ!」
「いいよー! 楓樹くんは何して遊びたいの?」
「んー、キャッチボール!」
「おい待て待て。なんで兄を放ったらかして、愛華さんとキャッチボールしようとしてんだよ? なんか淋しいじゃないか」
「おー? じゃあ蒼にぃも一緒にやる?」
「じゃあって何よじゃあって。愛華さんのいる所には必ず俺もいるの」
「へぇー、よく分かんねーや」
こんな具合で、我が家に溶け込んでる彼女の存在感は、すでに俺を遥かに凌駕している。優しくて面倒見のいい美人なお姉さんなんだから、実の兄より好かれるのも必然だけどさ。
昨日までのどんよりした空にようやく日差しが戻り、まだ庭の芝生が湿ってたので、近所の公園を遊び場に選んだ。グローブとゴムボールを持ち出し、彼女と弟の三人で、徒歩30秒先まで来た時刻は午前9時。ここまで馴染んでると、なんだか本当に家族になった気分である。
決して運動神経が悪くない愛華さんは、活発な弟達にも問題なくついていける上に、俺みたく手加減をミスることもない。何より心から楽しんでる姿は、子供目線でも張り合いがあるのだろう。
微笑ましい時間に2、30分浸ってただろうか。取り逃したボールを楓樹が追って行った少し奥、公園の外の住宅地に目を向けたその時、身の毛がよだつ戦慄に襲われた。
「な……なんでこんな所にいるんだよあんた?」
「久しいねぇ石切くん。愛華もずいぶんと元気そうだな」
「おい、下手な動きしてみろ? 被害届も出してっから、通報すりゃすぐに捕まるぞ?」
「あっはっは! 出すなら告訴状だろうが。人を犯罪者呼ばわりして、
前髪を掻き上げながら
愛華さんは恐怖のあまり絶句し、口元を抑えて身動き取れない様子。状況が飲めていない末っ子は、別の出口から家に帰るように命じた。和春はそちらに目もくれず、ニヤけたまま俺だけを凝視している。一体何を考えてるのか、そもそもどうやってこの場所まで突き止めたのか、分からないことだらけだ。
殴りたくなる衝動をなんとか堪え、じっと睨み続けてると、向こうから小馬鹿にしたような声色で会話を促してきた。
「そんなに身構えないでくださいよ。うちの家内を
「その見た目だと丁寧口調のがお似合いじゃないか。常識があるなら、あんたこそ下手な行動は慎むべきだぞ?」
「それで煽ってるつもり? 君みたいな人妻
「おい、なんでそんなことまで知ってんだよ」
「少しは自分の脳みそ使おうな〜。あぁ、SNSで確証持てたのは君らのおかげだよ。あんな予定通りやってくれるとは思わなくてさぁ、単純すぎてマジ草生えるわ」
「それ以上愛華さんに近付いたら通報するからな。大人しく帰れ」
「知らねーよ! てめぇん家は割れてんだから、確保される前に燃やすなんざ造作もねぇぞ? それかさっきのガキでも見せしめに
急に見開いた眼球からは、狂気しか感じられない。充分理解してると思ってたけど、この男のイカレ具合は
今すぐ取り押さえて警察を呼ぶ以外に方法はない。そんな考えが過って距離を詰めようとしてる最中、さっきまで震えながら立ち尽くしてた愛華さんが、小さな掠れ声で弱音を吐いた。
「もうやめて………和くんの言う通りにするし、あたしはこのまま帰るから、他の人は傷付けないでよ……」
「愛華なら分かってくれると思ってたよ。俺はずっとお前の為に頑張ってきたんだから、もう一度夫婦としてやり直そうな」
「ん……」
「ふざけんな!! お前がやってきたのはただの暴力だろ!」
「おい、黙れよ部外者。俺がどれだけ愛華を愛して、どんな思いで歯を食いしばってきたのか、てめぇはなんにも知らねぇだろ」
「話にならねぇ! 愛した人を殴ったり侮辱したってんなら、お前は本物の異常者だよ!!」
「あのなぁ、お前こそ侮辱だぞ? 俺は深く傷付いたんだよ。必死に稼いで大事に守ってきた妻に、突然別れ話を切り出されて、そりゃもう頭がおかしくなりそうだった。だから守り方を変えたんだよ」
「ガチで何言ってんだ……」
同じ日本語を使ってるはずなのに、全く会話が成立しない。それも意思が通った真顔で言ってくるから、尚のこと意味不明だった。ほんのちょっと奴に近付いてた愛華さんも足を止め、怪訝そうに顔を歪めている。
押し問答してても埒が明かないと感じ、対面する二人の直線上に割り込んで、彼女の前で右腕を広げた。
「なんのつもりだ? 愛華を取り返す為なら、他の連中がどうなったって構わねーって言ってんだが」
「ここまで用意周到に準備してきたクセに、全部自分で台無しにすんのか? 今捕まったら何もかも失うんだぞ?」
「そうだなぁ。愛華が手に入らねぇんなら、いっそお前らもめちゃくちゃになっちまえばいいんじゃねーか?」
「どっから来んだよその発想。代理交渉までさせてんだから、結果が出るまで大人しくしてろよ」
「笑わせやがる。勝負を投げてる奴に何を期待しろってんだ? どいつもこいつも俺の愛情を理解しねぇんだから、自分の身で証明してやるよ! てめぇらバカ共になぁ!!」
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