第64話 止まない不穏は焦燥を駆り立てる(1)
「兄貴ー、今日メイの散歩頼まれてくんない?」
「おう、構わないけどどしたん?」
「お婆ちゃん、膝が痛いんだって。今晩雨かも」
「なるほど。便利なんだか不便なんだか」
綺麗な夕焼けが西の地平線を染め上げ、
「あっ、蒼葉くーん! あたしもお散歩行きたい!」
「そう言や行ったことなかったっすね。近くの河原で1時間くらい歩きますよー」
「いい運動になりそう♪ それじゃお婆さん、メイちゃんお預かりしますね!」
「ほっほっ。賑やかになって、メイも喜びそうだねぇ〜」
恐らくワンコ以上に大喜びしてるのは俺であろう。表に浮かれ気分が露わになると恥ずかしいので、必死になって抑えてるのだから。
真っ黒な毛並みを包むようにハーネスを装着し、赤いリードを繋げてると、様子を見に来た陽葵がニヤけた面でからかってきた。
「めっちゃ嬉しそうじゃん。よかったね〜、大好きな彼女がついてきてくれて」
「なぬ!? そんなに顔に出てんの??」
「鏡見てから行った方がいいレベル」
「マジかよ……」
念のため玄関に戻って姿見を確認するも、割かし通常通りとしか表現できない。そう思って安堵した途端、くにゃっとだらしない面構えに変わっており、妹の指摘に納得してしまった。鏡に映る瞬間、無意識に力が入っていたらしいが、俺が顔に出やすいのなんて今に始まったことではない。開き直って待たせてる犬の
門の手前で待機中の愛華さんはぴょこぴょこ飛び跳ねており、満面の笑みで左手を振り回している。隣でお座りする犬とリードを持つ陽葵に至っては、唖然としつつ若干引き気味ではないか。こんなに無邪気で可愛らしいお姉さんなのに。
お散歩セットのバッグを背負って駆け寄れば、右手にはシッポを振る利口な忠犬、左腕には鼻歌を歌う美人を携えて、いざ鬼ヶ島へ——なんてノリで出発した。ところが腕を組んで密着してる分、歩く度に揺れる弾力感が俺の意識を侵食し、数分歩いた時点で散歩どころではない。
「愛華さん、もしかしてわざとですか?」
「えっ? なんのこと?」
「すみません、自意識過剰だったかも。あの、ずっと胸が当たってまして……」
「あはっ、それはわざとだよーっ♪ 気にしてくれてたんだ♡」
「気にすると言うか、気を取られると言うか……」
「あんなチュウしたあとなのに、ドキドキしてるのあたしだけなのかなぁって思ったから」
「いや、それは勘違いっすよ。あなたが平然としてたんで、妙な雰囲気を出さないように
「……そっか。うん、安心したし、手繋ごっか♪」
「不安だったんですか?」
「ちょっと違うかな。あたし、自分からこんなに誰かを想うの初めてで、ちょっと戸惑ってる。いきなり距離が近くなったら、ただ嬉しいってだけじゃなかったの」
「家族みたいな関係では物足りないってことですか?」
「それはそれですごく幸せ。でも、まだ女の子でいたいと言うか………自分で思ってたよりも、キミのことが好きで仕方ないみたい」
確かに俺達は色んな過程をすっ飛ばして、親兄弟公認の仲になっている。彼女にとって家族と思える存在が拠り所になるとは言え、最初に求められたのは恋仲としての俺なのだ。いくら実家で上手くやってるとしても、突然夫婦のような落ち着いた関係になるわけじゃないし、打算的に一緒にいるわけでもない。こんな状況を当たり前だと思わず、正直な気持ちで恋心を育む段階なのだろう。
彼女の為だと盲信して見誤った自分を反省しつつ、10分ほど手を繋いで歩いて行くと、街の境にある大きな川が見えてきた。正確には川と道路を隔てる小高い土手が映っただけなのだが、幼い頃からほとんど変わらない景観は、奥の川辺までも鮮明に想像させるのだ。
「愛華さん、これも俺の一部です」
「今のキミを作った大切な思い出なんだね」
「えぇ、婆ちゃんと犬連れて来たり、友達とサッカーしたりして遊んでました」
「懐かしの場所でのお散歩デートも、なんだかグッとくるね♪ メイちゃんもいい子に歩いてるし♪」
「この子は今や俺よりここに詳しいっすよ。高校生になってからはあまり来てなかったんで」
他愛のない話にも手のひらが熱くなり、彼女と結ばれてる幸福感を再確認できる。力ではなく、想いの強さで繋がる手を引いて信号を渡れば、目の前に広がる見慣れた景色が壮大に思えた。
風にそよぐ野原の草花も、光の粒が煌めいて
丘を下って緑に囲まれた道をのんびりと進み、昔のことなんかを語り合ってると、不意にズボンのポケットがブルブルと振動した。
「蒼葉くん、スマホ鳴ってるね。美里ちゃんじゃない?」
「ですかねぇ。また新情報かな——って、まさかのりっちゃん!?」
「……橘さんとまだ連絡取ってたの?」
「いえ、断じてありません! 別れて以降、シフトの用件くらいしかやり取りしてませんよ!」
「そっか。そうなると、彼女にも何かあったのかな? 止まりそうにないし、電話出てあげた方がいいかも」
愛華さんに軽く詫びを入れてから画面をタップし、恐る恐る耳元に近付ける。久々に聞いた元カノの声は、何やら切羽詰まっていた。
「もしもし、石切です」
「あっ、急にお電話して申し訳ありません! 石切さんに
「うん、一応平気だよ」
「よかった。実は今日、お昼過ぎから勤務だったのですが、貴船さんのご主人と
「えっ!? それでりっちゃん達は何もされなかった!?」
「はい。他には主婦さん達が働いてましたが、来店後、売り場にいる私の所に真っ直ぐ来たんです。私達の関係を把握してる口振りで、石切さんの居場所を尋ねられました。もちろん知らないと答えましたが、あちらは特定してるような言い方をしてまして……」
「俺の居場所を特定してる!? それ詳しく聞かせてほしい」
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