第63話 ここまで順調に思えていたけど(2)


 浅間さんとの通話を終了し、物置からガーデニング用品を持ち出して庭の植木の前で見上げると、青々と葉を茂らせた枝が四方八方に伸びている。開花まで1ヶ月近く早い金木犀きんもくせいと、隣には若い実をつけたミカンの木だ。どちらも枝は細く、切るのにさしたる手間は掛からない。しかし頭の中では電話の内容が渦巻いて、自然と作業が遅くなってしまう。

 木々の周りをウロウロしながら、パチンパチンとハサミの音色を聞き流してると、逃しようのない愛しの声が背後から届けられた。

 


「蒼葉くん、お洗濯とか全部終わったんだけど、他にも何か頼まれてたりする?」


「いえ、俺もこれ終わったら休憩するところでした」


「あれ? なにかあった?」


「鋭いっすね。えっと……」

 


 伝えた方がいいとは思いつつ、喉が素直に開かれてくれない。未だにストーキングが続いてると知れば、愛華さんは必ず責任を感じてしまう。

 うじうじ悩みながらも高所の枝葉を捌いてたら、無意識に真上に被る部分まで切断してしまった。しかも硬い果実のオマケ付きで、落下したのは俺の頭上の

 


「あっ、危ないよ!!」


「えっ? ……痛っ! ったぁ〜〜。よそ見してミカンを頭に落とすとか、なに器用なことしてんだよ俺……」


「大丈夫!? になってない!?」


「えぇ、物が軽かったんで平気っす」


「ん〜、一回休憩して、あとで一緒にやろ?」


「でも中途半端だから——」


「せっかく二人きりだし、ちょっとだけでもイチャイチャしたいんだけど……」


「よーし、一息入れましょっか!」

 


 彼女の上目遣いには到底逆らえなかった。もちろん、俺の様子を心配した提案なのは分かってる。だがイチャつきたい衝動に駆られてるのも本心であり、恐らく愛華さんもそう思ってるはず。

 リビングに戻ってお茶を準備した後、隣同士でソファに腰を掛けた。

 


「ぶつけたとこ、痛くない?」


「多少はズキズキしますが、なんかニュートンになった気分っすね」


「なにそれー? どーゆー意味??」


「頭に落ちたミカンを見て、俺とミカンには物体を引き寄せ合う力がある。これが万有引力なのかと」


「あっはは♪ 切ったら落ちるのは当然だから、ニュートンもひらめかないよ〜!」


「いえいえ、ここで重要なのは、ピンポイントに頭頂部へと直撃したことです。これはつまり、万物は少なからず引っ張る力に影響されてるのでは? という疑問に結び付きます」


「なるほど〜? じゃーあたしも、キミの引力に引っ張られちゃうなぁ♡」


 

 小悪魔的に微笑んだ愛華さんは、グイッと姿勢を傾けて、俺の手を握りながら唇を重ねた。

 下唇に吸い付くような柔らかさで挟まれ、たまらずに軽く口を開くと、彼女の舌が俺の中まで潜り込んでくる。絡まり合うねっとりとした感触がこそばゆく、思わず突っ張った左腕に力が籠るも、包んでくれる手のひらのぬくもりが心地好い。脳内は瞬く間に彼女の媚薬効果で酔っていき、仰け反った背中から力が蒸発していった。

 気付けば押し倒された体勢になっており、舌なめずりして見下ろす彼女を、閉じかけた視界にボーッと映している。

 


「べろちゅーは初めてだったね♡」


「……やっぱり欲求不満にさせちゃってました?」


「ううん、こっちに来てからは添い寝だけで満足だったよ。でも、二人だけって思ったら急にね。ごめんね、えっちな彼女で」


「いえ、俺はずっと悶々としてますから」


「この先はもーちょっと我慢する。それで、何があったのかな?」


「あぁ〜、そっちが本命なのか」

 


 上体を持ち上げつつ、自分の髪をわしゃわしゃ掻いて呼吸を整える。上手く思考回路が連動しなかったから、浅間さんからの発言を復唱するみたいに、ありのままの言葉を声に乗せた。

 難しい顔をした愛華さんはグラスを取り、渇きを潤しても尚、眉をひそめたままだ。

 


「ん〜〜、浮気の証拠が本当にあるなら、わざわざ危険を冒して見張りを続けるかな? それも美里ちゃん達に対して」


「最も可能性が高いのは、あなたの居場所を探ってる線でしょうね。旅行以降掴めてないんで、証拠とか関係なく躍起になってるかもしれません」


「そんなにあたしを支配して、何が楽しいんだろう?」


「俺が奴の立場なら、これまでの犯罪行為は絶対に伏せたいんで、口封じは行うでしょう。それから訴えを取り消させて証拠を隠滅し、不倫相手がいるなら普通に離婚。財産分与さえ最低限で済まそうと考えます」


「す、すごいね……なんか蒼葉くんに悪い心が乗り移ったみたい」


「和春と対面した後、腹のうちを読めなければあなたを守れないって確信しました。だから奴の目線になって、あなたをおとしめるならどう動くか夢想するようにしたんです」


「……そんなことして、イヤな気分になったりしない?」


はらわたが煮えくり返る思いですが、背に腹は代えられません」


 

 少し俯いた彼女は複雑そうに自分の髪を触り、視線が低いガラステーブルから離れない。旦那の出方を危惧してるのか、或いは俺のストレスでも気にしてるのか。

 3分程度にも1時間以上にも感じる沈黙だったが、横目を向けた彼女とバッチリ目が合い、その綺麗な瞳の輝きに溶かされていった。

 ゆっくり顔を寄せたかと思えば、優しい笑顔を贈られる。

 


「蒼葉くんも笑って♪」


「え、今笑うんすか?」


「うん、笑えば明るい気持ちになれるよ。ちゃんとリセットしないと、次はキミの中に悪いものが溜まっていっちゃうから、あたしと一緒に笑って♡」


「もう、可愛くて自然に口角が上がっちゃいます」


「えへへ♡ そんなに見つめたまま言われると、なんか照れる///」


「おっし、リセット完了! ニュートン力学の続きを学びに行きますか!」


「んー? もっといっぱいキスして、その先まで色々やっちゃうってことー?♡」


「それは力学じゃなくて、性教育か何かの間違いでは……?」


「うーん、なんかロマンチックじゃないなぁ〜。引き寄せの法則とかなら夢があるね☆」


「そもそもなんの議論すかこれ? 庭の植木の手入れするだけなんすけど」


「わっかんないけど、キミといるのが楽しいんだもん♡ 大好き♡♡」


「お、おう……稀に見るデレデレモードっすね」


「きっと美里ちゃん達は上手くやるよ。あたしよりもずっと強くて賢い二人だから」


 

 不安を誤魔化す為に甘えた彼女は、若干子供っぽさが表面化してるけど、それでも落ち込まない姿が健気で清々しい。

 ところが夕方には、また状況が一転してしまうのであった。

 

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