第56話 それは秘めた後悔と走り方を今に繋ぐ
「こんな素敵なお部屋をお借りしていいんですか!?」
「えぇ、むしろここしかないわよ〜。10畳の和室でも、二人だから平気よね」
「充分すぎます! 本当にありがとうございます」
「俺はとりあえず冷房つけたい……」
客間は玄関を入った右側に位置しており、部屋の正面と側面の大きな窓を開ければ、騒がしいセミの声と共に生ぬるい風が吹き抜ける。
畳の上で大の字になり目を瞑ってると、忍び寄る気配を感じた。恐らく愛華さんが覗き込んでるのだろう。
「そろそろ窓閉めませんかー?」
「うわっ、いきなり手伸ばさないでよ! 勝手に閉めればいいじゃん」
「へ? なんだ陽葵か。帰って来てたんだ」
「今帰ってきたの。明月さんなら庭でフウと遊んでるし」
「いつの間に……」
まさか真上の影が妹のものだなんて思わなかった。帰宅後そのまま外で遊ぶ子供も逞しいけど、すでに順応してるあの人も逞しい。子供好きなのも相俟って、嬉しさで気分が高揚してるのかもしれない。
寝転がって動こうとしない俺の代わりに、陽葵が窓を閉めてエアコンをつけ、スカートを抑えながら隣に腰を下ろした。
「サンキュな。やっと呼吸ができる」
「なにそれ? 死んでたんかぃっての」
「見ての通り、瀕死の重傷だな」
「そんなんじゃ彼女に見限られるよ〜? あんな美人、競争率ヤバいでしょ」
「関係ないさ。愛華さんのことは死んでも守るって約束した」
「……変わんないね兄貴は。でもいい加減、無茶すんのはやめてよ? 次こそホントに死にかねないんだから」
枯れそうなハスキーボイスでそう告げられ、思うところが無くはない。陽葵には二度もトラウマを植え付け、その時の恐怖は俺以上に忘れられないだろう。
怠い上半身をムクリと起こし、カチューシャを付けた黒髪にぽんぽんと触れた。
「お前が気にすることじゃないって、何回も言ってるだろ?」
「はぁー……学習能力無さすぎて、気休めにもならんわ。兄貴のそれって、またやるって言ってんのと同じだから」
「そりゃあ、やむを得ないケースも——」
「あのさぁ、妹助ける為に車に撥ねられたり、自分
「んなこと言ったって、陽葵もメイも俺も、最終的にはこうして元気にしてんじゃん」
「あーはいはい。なら今度腕の肉ベロンって抉れて骨見えたら、明月さんに応急処置してもらいなねぇ〜」
スっと立ち上がって手を振り、トラウマの一つを吐き捨てて部屋を出た妹に、消せない罪悪感が溢れてくる。3年しか経ってないから痛みも光景も鮮明に覚えてるけど、血が流れる自分の左腕以上に、血相変えて止血しようとしてた陽葵が見るに堪えなかった。
自分が悪行を働いたわけではないのに、誰かを傷付けてしまったように思う自責感は、愛華さんと似てるのだろうか。いや、彼女の場合は本気で自分を責めてるから、また別物になるか。
ふとガラスの向こうに目を向けるも芝や植木しか無く、遊んでたはずの二人がいない。裏庭に回ってるのかと思い、景色をボケーっと眺めてたら、部屋のドアが静かに開いた。
「蒼葉くん、黒いワンちゃんいた!」
「婆ちゃんの相棒のメイっすよ。犬飼ってるって言いませんでしたっけ?」
「言ってたけどー、思ったより大きいし懐っこくて可愛いの♡ 手をペロペロされちゃった!」
「もう8歳超えた老犬なんで、おっとりしてますよ。手は洗ってきました?」
「うん! 蒼葉くん犬アレルギーもあるもんね」
「軽いんで洗えば平気っすよ」
はしゃぎ出しそうに我が家の忠犬の話をする彼女を見て、目線が自然と左腕に向く。肘の下にくっきりと残る傷痕は、皮膚の色が薄くて毛穴も無い為、高確率で火傷と誤認される。裏側も含めて何針縫ったかは記憶から抜けてしまった。
俺にもたれて寄り添った愛華さんは、一緒になって古傷を覗き込んだ。
「この怪我の痕、ずっと訊いていいのか分かんなかったんだけど、もしかしてメイちゃんと関係あるの?」
「あの子の散歩中に俺と大差無いデカさの犬が走ってきて、メイを狙ったんすよ。咄嗟に間に入って止めようとしたら、ガブッといかれました」
「うぅっ、すごく痛そう……それでも二人は無事だったんだ」
「上下の牙がくい込んで骨にヒビ入りましたが、メイが吠えて怯ませた隙に顔面に蹴り入れて、なんとか追い払えましたね」
「うわぁ、壮絶じゃん。すぐに病院行ったの?」
「一旦帰宅して陽葵に手当てされながら、母ちゃんの運転で救急科に運ばれました。結局逃げ出した犬は後日殺処分されて、やり切れない思いっすけどね」
「……可哀想だけど人に危害を加えちゃったら、飼い主さんに責任を追及しただけじゃ安心できないもんね」
「それは分かるんすけど、じゃあ人間は? って疑問が湧きます。犬は本能のままに襲いますが、和春みたいに理性があって人を傷付ける行為は、もっとタチ悪いっすよね」
動物と人間を同じ天秤で測ることはできなくとも、この傷のせいで未だに心を痛め、心配する陽葵の気持ちはどうなるのか。あの狂犬より遥かに害悪で裁かれるべき男に対し、愛華さんの意思だからと協議に賛成した俺は、妹に比べて不誠実ではないだろうか。
自分でも話の流れが
「あたしも蒼葉くんと同じだよ。あの人に前科が付くとしても、それは結果であって目的じゃない。相談できなかった向こうの家族に申し訳ないし、可能なら夫婦だけで終わらせたい。それだけなんだよね」
「人間は周りへの影響が大きい割に、罰が軽いなぁ。奴の関係者は同罪としか思えないし……」
「んー、ちょっと横になろっか♡」
愛華さんにそっと胸板を押され、再び和室の古風な天井が視界に広がった。腕枕に乗って横向きに身を寄せる彼女は、俺の心臓付近に手のひらをかざし、心地好さそうに微笑んでいる。
「今はあたしの為に悩まなくていいよ。もしキミの意見が違ったら、そのときは教えて。こんなに環境を整えてくれたんだし、もう冷静に向き合えるから」
「ほとんど母ちゃんのおかげっすけどね。あとはやっぱ、あなたが今まで頑張ってきた結果です」
「もー、蒼葉くんそればっかりだねぇ」
「それだけ尊敬してるんすよ。ずっと悪意に屈しなかったあなたのことを」
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