第50話 静かに流れる虚々実々

 寒川さんは浅間さんの家から割かし近く、徒歩10分程度だとか。夕食を食べ終えた後、さすがに4人目が寝る場所は無いとのことで、玄関に向かうアラサー先輩の背中が異様に切なかった。だが美里お嬢さんが自発的に見送りに行き、戻った後もやけに上機嫌だった為、二人の距離感に変化でも起きたのだろう。訊くだけ野暮なので、詳細は本人達しか知らない。

 その晩も愛華さんの抱き枕として寝床に転がったが、ほとんど寝付けないまま夜が明けた。


 爛々らんらんと眼が冴えてしまい、あくびも出ないのにぼさっとした頭で、運命の3日間が火蓋を切る。初日の予定は俺が9〜17時の日勤、愛華さんが9時半から病院の午後に弁護士事務所。最も危険度が高い日である反面、一日中浅間・寒川コンビが付き添ってくれる安心感もあった。

 バイト中は従業員のみならず、顔馴染みの常連からも心配の声が多いと思えば、どうやら昨日の時点で噂の真相が伝えられてたらしい。様子の違うお客さんには俺の口からやんわりと説明し、ついでに口八丁でカゴを埋めてもらって、まさに一石二鳥である。この調子で馴染み深い人物から拡散していけば、先走った情報はある程度抑えられるだろう。

 退勤直前には寒川さんが迎えに来てくれて、この日の報告を交えながら帰路を下った。

 


「よかったー、そっちは何もなかったんすね」


「逆に不気味でもあるよ。まぁ、診断書は即日でもらえたし、慰謝料追加と調停になる場合の準備もお願いできたから、かなり順調だろうね」


「弁護士さんどんな人でした?」


「説明が上手で物腰柔らかだったから、印象は良かったよ。他と比較したことないけど」


「それだけでも安心です。たぶん愛華さんは、高圧的な男性が苦手なんで」


「それはあるかもしれないね。あ、この次の角を右に曲がるよ」

 


 当然のように迂回路を使い、俺にとっては見知らぬ景色ばかりが広がる。新鮮な気分で周囲を眺め、何気なく振り返った瞬間、通行人の中にハッキリとした違和感を覚えた。

 


「寒川さん、人通りの多い道にしましょう」


「えっ、いたの?」


「本人じゃないんすけど、たぶん尾行されてます」


「分かった、こっちついてきて」


 

 ほんの少し早歩きになった先輩を追い、振り返らずに大通りへと差し掛かった。その辺りは店が立ち並んでいて賑わいがあり、さっきよりは人に紛れて追跡も困難なはず。

 信号を渡って対面側から確認しても、それらしき気配はもう無い。更に数分歩いた先のカフェに入り、道を変更させた経緯を伝えた。

 


「スーツ姿の男なんすけど、バイト中にも見たんすよ。今日2回以上見た人の特徴は覚えておきました」


「それって店に2回来たってこと?」


「いえ、道路挟んだ向こう側を彷徨うろついてただけっすけど、確か昼前と15時過ぎでした」


「向こう側かぁ……そういや石切くんって視力いいもんね」


「はい。記憶力より視力頼りで、目撃した時と同じ背格好と髪型だから気付いたんです」


「うーん、距離を取ってても店内からバレてるって、ずいぶんおざなりな監視だなー。向こうは素人かもね」


「興信所ではなく、知人に依頼したってことっすか」


「聞いた話じゃ、旦那はお役所勤めの地方公務員でしょ? こう言うのもなんだけど、4年目だと収入もたかが知れてるから、車やバイクを購入済みでランニングコストも考えると、余分なお金はそんなに無いと思うんだよね」


「そういうもんすか。じゃあ探偵を雇うよりも、友人とか使って調べたりしそうっすね」


「ただそうなると何人いるか読めないし、翌日には別の人間が見張ってるかもしれない。警戒しようにも際限がなくなってくるよ」


 

 こちらの行動が離婚を揺るがす根拠にならない以上、怖いのは居場所を把握されることだけ。単独のプロに調べられるよりも、素人複数人で包囲網を張られた方が対処に困る。

 状況を飲み込んだはいいが、ここでくすぶっていてはらちが明かない。会話を程々にして切り上げ、寒川さんの提案に乗って席を立った。

 レジ係を務めたのは、制服であるエプロンを着けた30歳前後の女性店員。二人で手早く会計を済ませた後、チャラ男先輩は腰に提げたポーチからパンフレットと名刺らしき紙を取り出し、目の前の女性に白い歯を輝かせた。

 


「劇団ほんでん……ここってコメディからミュージカルまでやってて、最近話題になってますよね!」


「わぁ〜、ご存じいただけて感激です♪ 僕そこに所属してるんですが、実は過激なファンに追われて困ってるんです。もし可能でしたら、裏口からこっそり逃がしていただけませんか?」


「あっ、そういうことでしたら! 主人に許可を取ってすぐご案内しますね!」


 

 対応してくれたのはマスターの奥様だったらしい。それはよしとして、愛想振り撒く身内の演技には寒気を禁じ得ない。素を知ってる前提なのは言わずもがな、必要とあらば人はこれだけ猫を被れるのだと、元カノ以来の再認識である。

 自然な愛想を纏った店員さんに連れられ、キッチンの奥にある扉を潜った。

 


「本当にありがとうございました。名刺が招待券になりますので、ご都合よければいらしてください♪ 上演期間はパンフレットに書かれた通りです」


「あら〜、却って申し訳ないくらいですが、ありがたく頂きますね♪ お稽古頑張ってください!」


「はい♪ お楽しみいただけるよう準備を整え、会場でお待ちしてます♪ ほら、君もお礼して」


「あ……ありがとうございました。コーヒーとても美味しかったです。また改めて飲みに来ますね」


「うふふ、そう言ってもらえるとすごく嬉しいです♪ ぜひ、今度はごゆっくりいらしてください♪」


 

 偽りの通行許可証を利用した罪悪感が、モヤモヤと感情を濁らせる。しかも先輩はチケットを無料配布したも同然であり、その善意の源に思い至れていない為、ひたすら頭を上げにくい。

 玄関に比べて静かな裏側の風景は、入り組んだ住宅街が複雑な迷路へと誘い、踏破した暁には隣の駅が現れた。たった一駅分をタクシーで舞い戻るなど本人も想定外であり、追っ手からすれば検討すら及ばないだろう。

 移動中の車内で少し不満げに呟いたのは寒川さんだ。

 


「接客中も見てて思うけどさ、君の素直さって相手の懐に入り込むよね」


「ん? どしたんすか急に?」


「いや、あの場合は石切くんが正解なんだろうなぁと思ったら、自分が惨めになってきてさ」


「なんの話か分かりませんが、俺は寒川さんに助けられっぱなしなんで、次は力になりたいって思ってますよ」


「まぁ、2、3年もすれば変化してるでしょ」

 

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