第49話 臨みは抱えて理想さえ越えていく(2)


 容認し難い事実からは目を背けがちになり、度し難い人間の心理など理解する気も起こらない。正常な判断力を持つのであれば、自らストレスの沼に嵌ろうとはせず、避けて通れる道を模索するだろう。

 しかし必要あって踏み込んだ瞬間、ある意味その世界は一変する。

 


「和春は口調こそ大人しかったけど、発言を要約すると『お前、俺のモノ盗ってどこに隠した? 首輪付けてんの分かってるだろ、石切イシキリ? 余計なことして困るのは愛華だし、男も見付けたって本人に言っとけ』みたいになるんだよ」


「なるほど、言われた石切くんがそう受け取れたなら、それに近いんだろうね。離婚を考慮する以前に、妻とたぶらかしてる人間を釣り上げて、脅迫した後で事実を揉み消そうって魂胆かな」


「あいつ、こっちが苛立つ毎にニヤけて、終始余裕あったんすよ。訴えられる危機感ゼロな感じで……」

 


 自分の口から吐かれたセリフが、胸焼けするほど気持ち悪い。俺だからこの程度で済んでるのであり、隣で正座する愛華さんには耐え難い苦痛だろう。すぐさま思い至って左を向けば、膝に突っ張る両腕と肩がワナワナと震え、溜まった涙で瞳が揺れていた。直後に彼女はむせぶような苦しい声で、かたどった言葉をきしませる。


 

「悔しい……! あたしから全部奪って、どうせ歯向かう力も無いってバカにされて、この先もいいように扱おうだなんて……!!」

 


 その瞬間、思わず力いっぱい抱き締めた。痛ましい姿に同情したのではなく、初めて自分の為にいきどおる彼女を見て、心から感激したのだ。

 誰かを想って怒れる気持ちは献身的で素晴らしい。だけど自身を否定し続けてきた彼女が、やっとその身を守る対象に仲間入りさせ、鎖から抜けようと懸命に抗っている。刻まれた恐怖を克服してきた証であり、俺まで救われた気分になった。

 この人は病気なんかじゃないと断言してやる。

 


「愛華さん、本っ当によかった……。俺、ガチで生きてる喜びを実感してて、感無量の万感ばんかんの思いっす」


「えっと、嬉しいのは分かったけど、蒼葉くんが泣くこと言った?」


「だから感極まったんすよ。あなたの傷はちゃんと治癒してて、これからもっと幸せになれる可能性が見えたら、嬉しくないわけないでしょ」


「よく分かんないけど、キミとの約束が一番大事だもん。誰にも邪魔されたくないよ」


 

 何やら約束の比重が露呈して、頭の片隅を不安がかすめたけど、これも自分の為だよな。

 気を取り直して話し合いに入ろうとするも、反動で盛り上がった愛華さんにキスをせがまれ、左手をバリケードにしてほっぺたを押し返す。さすがに友人達の前では気まずい。特に浅間さんの前では気まず過ぎて死ねる。

 再度引き締めて明日の対策を考案中、隣の膨れっ面は置いといても、良案がまるっきり芽吹いてこない。俺は早番で寒川さんが芝居の稽古。女性二人で病院と弁護士事務所を回るには、休日の和春の存在が危惧される。更に言えば、俺が休んで同行したとしても、事態が悪化することは充分にあり得るのだ。

 三人が渋い顔で項垂うなだれてると、寒川さんが急にスマホを弄り始めた。

 


「乗り掛かった船だし、僕が都合つけるよ」


「えっ、でも寒川さん、舞台近いって言ってたじゃん! 私だけでなんとかするって!」


「身が入らない稽古行くよりいくらかマシさ。明月さんはもちろん心配だけど、僕はやっぱ、浅間さんが無茶しそうだと放っておけないんだよ」


「ちょっと、なに言ってんのさ……」


「この状況下で口説こうなんて、さっすがチャラくてイケてるメンズ先輩っすねぇ〜」


「石切くんなにその目っ!? 今のは別に口説いたんじゃなくて、理由を説明しなきゃ納得してもらえないかと——」


みつるのばか……」


 

 紅色に染まった顔を逸らし、前触れなく寒川さんをファーストネームで呼んだ浅間さん。呟きながらのさらした彼女に、不覚にも胸キュンしてしまった。俺以上にときめいてそうなのは、大きな目をキラッキラさせてる愛華さんなのだが。

 狼狽うろたえるかと思われた寒川さんは、平然と文章を打ち続けてメッセを送信。何事も無かったかのようにこちらを向いた。

 


「これで離婚の段取りはとどこおりませんが、今後も二人が危険なことには変わりありません。僕が石切くんの立場なら、しばらくバイトを休ませて、彼女だけでも遠方に避難させますね」


「バイトは仕方ないですが、遠くだとちょっと……」


「まぁ、あくまでどのくらい切羽詰まってるかの例えなので、判断はお任せしますよ」


「あのー、それについては俺に考えがありまして、あと3日間やり過ごせば安全面はどうにかします」


「今日が火曜だから……土曜か。頼れる人でもいるの?」


「蒼葉くん、まさか……?」


「こっから電車使って4、50分先にある、俺が最も信頼できる場所です。土日の休みも店長に直談判じかだんぱんしたんで平気っす」


「ちょっと待って、そこまで甘えられないよ! あたしの問題なのになんで——」


「落ち着いて愛華さん。本気であなたとの将来を望むからこそ、今の俺に足りない力を家族に借してもらうんです。不安や複雑な思いもあるでしょうけど、あなたが俺の次に頼りたい人が、家族と思える人達であってほしいから」


 

 短期間で急変していく状況を見れば、自分の行動がいかに浅はかであったかは嫌というほど解る。それと同時に過去のぬるい生き方も思い知った。どれだけ守りたくても、ちっぽけな俺一人では守りきれない。どれほど頼もしい味方であっても、友人を巻き込むには限度がある。ならばこれまでの恩に追加させてもらい、必ず全部返すからと土下座でもして、家族に助力を乞う以外に道は無い。あわよくば愛華さんが絆でも感じてくれたら、心の隙間を埋める材料にもなるだろう。

 シラケたように音が消えた部屋の中で、バイト仲間の二人は僅かに目線を外しており、なんだか居た堪れない。ゆっくりと首を回して恋人へ向き直すと、俯いて口元を抑えているようだ。ただし膝の上にはパラパラ雫を降らせている。

 


「もう……その気持ちだけで嬉しい」


「いや、気持ちだけじゃないっすよ? 俺は本気でそういう未来にしたいんです」


「そんなつもりで言ってないよ。キミのご家族に気に入ってもらえるように、あたしも全力で頑張るからさ、『いい彼女なんだ』って紹介してね♡」


「………当たり前じゃないすか。家事スキル万能、ルックスレベル最高、甘えん坊でめちゃくちゃ愛情深い、自慢の姉さん女房——って宣言しますよ!」


「えーっと……それはフツーに恥ずかしいなー」


「なんで!? ありのままを表現したのに、語彙力不足っすか!?」

 

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