第32話 切なる願いを追う限り(1)

「愛華さん、海を見に行きませんか?」


「海……? 蒼葉くん、海が好きなの?」


「泳ぐのは得意じゃないけど、眺めるのは好きっす! ここからなら湘南の海岸沿いを通って、小田原とか越えて白浜海岸も目指せますよ!」


「白浜海岸って、静岡の? だいぶ遠いよ?」


「免許取ってすぐの頃、友達と日帰りで行ったんすよ。往復400キロくらいでしたが、空いてれば案外ラクなもんですよ! それとも海は好きじゃないですか?」


「ううん、あたしも好きだよ。白浜海岸も前から行ってみたいと思ってた」


「じゃあ行きましょう! 宿泊準備も万全だから、なんも問題ないっすよ」


「……うん、そうだね♪」


 

 悲しみを忘れさせることなんてできない。だけどたくさんの喜びを積み重ねていけば、泣かないで済むくらいには立ち直れるかもしれない。俺にできるとしたらまずはそこからだ。

 明月家の皆様に別れを告げ、手を繋いで駐車場へと戻った。ナビで目的地を白浜海岸に設定すると、検索結果に海に沿う国道のルートが表示される。走行予定時間が3時間強で、途中に昼食を挟むと考えれば、到着は19時近くになってしまうか。名物の真っ白な砂浜を観賞するには、少々暗い時間である。

 助手席に座る愛華さんはぼんやりと足元を眺め、今にも涙腺が決壊しそうな様子。肩にそっと手を乗せて、できるだけ自然な感じで尋ねてみた。

 


「愛華さん、熱海辺りで1泊しませんか? そうすれば明日、綺麗な景色をのんびり見れますよ」


「熱海でお泊まり………温泉っ!?」


 

 瞳をキラキラと輝かせ、元気な声で彼女が身を乗り出す。想像以上に効果覿面こうかてきめんの提案だったらしい。

 


「午前中に調べたんですが、素泊まりなら結構安くて、ギリギリでも予約OKなホテルが多かったんですよ。もちろん温泉もあります」


「行きたい! 蒼葉くんと温泉入りたい!♪」


「いや、混浴はちょっと……。あと腕と首の怪我もありますから、長湯はあまり良くないかと……」


「それで出掛けるプランを内緒にしてたの?」


「前半でどこに行くのかも分からなかったんで、いくつか候補を考えといただけっすよ」


 

 その瞬間、勢いよく頭を抱き寄せられて、左の方に体勢が崩れる。愛華さんの匂いと線香の残り香が混ざり合い、これはこれで落ち着く。そう思っていた矢先に熱烈な頬ずりをお見舞いされ、顔面が摩擦と恥じらいによって火照ってきた。


 

「ちょっ、ちょ、愛華さん! メイク落ちちゃいますよ!?」


「もうそんなことどーだっていいのー! 蒼葉くんへのが止まらないんだよ〜♡ キミに愛されてすんごい幸せ♡♡」


「泣いたり笑ったり忙しい人だなぁ。そんなあなただから、好きになったんすけどね」


「あたしもキミだけを愛してる。怪我の悪化には気をつけるから、温泉行こ? 宿の予約は運転中にしておくよー☆」


「分かりました。出発しますねー!」


 

 車を走らせてひたすら南下していくと、山道を抜けて広い通りに合流する。そこから海沿いまでは程近く、南西方向に進みながら、サーフボードが積まれた車を何台も目撃した。

 スマホを片手にテンションを上げていく隣の人は、いつにも増して可愛らしく、同時に安堵感が湧き溢れてくる。彼女の苦痛に対し、俺はどこまで寄り添えてるのだろうか。もしかしたら、理解した気になってるだけかもしれない。だったら周りができることなんて、喜びを分かち合うくらいのはず。どうして追い討ちをかけられ、どん底に突き落とされるような目に合わされたのか、そっちの方が理解に苦しむ。もっと早くに出逢えていれば、傷は浅く済んだかもしれない。

 気付けば海の真横を走っており、愛華さんは窓に外を眺めている。子供みたいにはしゃぐ姿に、胸が熱くなった。

 


「ちょーキレイ。お日様も出てきたから、海が白く光ってるよ〜。ねぇ蒼葉くん、もう少ししたら休憩——って、どしたの!?」


「いっ、いえ、なんでもないっすよ!」


「なんでもないって、目にいっぱい涙溜まってるよ? ……心配させちゃった?」


「違いますよ、ホッとしたんです。愛華さんの無邪気な心が、ちゃんと残ってたから」


「……キミの前ではいっぱい見せてきたでしょ? 全部ホントのあたしだよ?」


「でもDVの証拠を手に入れる為に、一昨日は酷い仕打ちを受けてますんで」


「あぁ、こういうのはね……慣れてるから」


「えっ、そんな頻繁に暴力を!?」


「うーん、まぁ………バイトする前は首を締められたり、胸やお腹を強くされて吐いちゃったりとか、色々あったね……」


「一旦コンビニでも寄りましょうか」


 

 せっかく楽しい雰囲気だったのに、余計な詮索で台無しにしちゃってどうするんだよ。

 通り沿いに見慣れた看板を発見し、そこに駐車した後、腕で目を拭った。愛華さんはと言えば、割と穏やかな面持ちでこっちを見つめている。


 

「それだけのことをされても、自分を責めちゃってたんですか?」


「そう……だね。元々は真面目な人だったし、あたしが子供を産めてたら、良い父親にしてあげられたのかなぁって思ったりはしたよ」


「俺にはそうは思えません。内に狂気を宿した人間じゃ、いずれ家庭を崩壊させますよ」


「うん、今ならあたしにも分かる。根っこから優しい人に裏表なんかないし、誰が相手でも真摯に向き合うもん。キミはそんな人だから」


「ま、まぁ俺がどうかは分かりませんが、目を覚ましてくれたのなら良かったです。飲み物でも買って一息入れましょう」


「うん♪ あたしアイスも買うー!」


 

 車から降りた途端、嬉しそうに腕にしがみついてきたけど、無理をしてないか少々心配になる。貴船和春という男は相当危険だし、これ以上愛華さんと接触させたくない。

 緑茶とアイスを2つずつ購入してコンビニを後にすると、俺は温めていた打開策の準備を始めることにした。


 

「愛華さん、車内で少し待っててもらえます?」


「えっ、どこか行っちゃうの?」


「寂しい顔しないでください、すぐに戻るんで」


 

 彼女を残して車から離れ、目の届かない場所に移動してメッセを送った。相手はバイトが終わった後で、相変わらず返信が早い。ついでに時間があると言うので、こちらから電話をかけた。

 


「もしもーし、どったの蒼ちゃん?」


「突然ごめんね。どうしても浅間さんに頼みたいことがあってさ」


「えー、ソフレはもうやめにしなきゃ、愛華さんに悪いよー?」


「いや、添い寝してくれって要求じゃないんだけど」

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