第28話 もう後戻りする気はありません(3)
「今日から旦那は4泊の旅行に行ってる。動くなら今しかないと思って、昨日のうちに証拠も掴んだの。でもいざとなったら、やっぱり怖くなって……」
「もしかして、証拠を手に入れる為にその怪我を?」
「うん。古いスマホで会話を録音してたんだけど、途中で怒って押し倒されちゃってね」
「怪我の具合いを確認してもいいですか?」
「うん、いいよ」
包帯を外した華奢な手首には、握り締められた痕が、指の形までくっきり残されていた。こうした内出血は柔道で度々経験してきたけど、負傷者側も必死に抵抗しないと起こらない。これに至った経緯なんて想像したくもなかった。
愛華さんは表情を曇らせつつ、淡々と話を続ける。
「去年流産して以降、人が変わったように乱暴になったの。新しい生命を救えなくてしんどかった時期に、罵られたり無理やり犯されたりして、いつも死ぬことばかり考えてた」
「その頃にうちの店に来てたんですね」
「そうだよ。キミが傘をくれた夜は、欠陥品って言われて家を飛び出した後だったけど、生きる希望をもらったの。こんなにあったかい人のことなら、もっと知りたいって思えたから」
頬を伝う涙が切ないのに、精一杯の作り笑いを浮かべていた。
彼女が俺に拘った理由をようやく理解し、直後に耐え続けた苦しみが胸を燃やして突き動かす。意志とは無関係に手がざわめいて、冷静さを維持するのも困難だったが、彼女の努力を無駄にするわけにはいかない。深呼吸してなんとか気持ちを抑え、目の前の人だけに集中した。
「証拠の中身って聞かせてもらえますか?」
「……うん。そばに行ってもいい?」
「えぇ、もちろんです。くっついてたって構いませんよ」
見覚えのないスマホを取り出した彼女は、それをテーブルに置いた後、無言のまま一目散にしがみついてくる。再生と共に恐怖が蘇りそうで、
指示を仰いでパスコードを入力し、恐る恐る画面の中心部に触れると、音声が流れ始めた。中のやり取りはあまりに
『ねぇ、いつまでこの関係続けるの? もう充分尽くしたでしょ?』
『またその話すんの〜? 明日から楽しい旅行なのにさぁ、気分壊されたくないんだけど』
『あれから10ヶ月も経つんだよ? 結構前からいい人も見つけてるよね?』
『あのさぁ、俺が愛華の為にどれだけ金と時間を
『不妊治療は感謝してる。だから今まで
『なに開き直ってんの? 足りなかったのは愛華の努力だろー? 不健康な生活のせいで赤ん坊が死んだんじゃねぇか!!』
『あ、あの時はつわりが酷かったから——』
『はぁー? 今度は言い訳かよ。自己管理もまともにできねぇ、養われるだけの出来損ないは、貰い手がいただけでもありがてぇだろうが!!』
『ちょっと、やめてよ!! 痛いから手を離して!!』
『顔しか価値ねぇんだから黙ってろよ!!』
ここまで聞いて停止ボタンをタップした。この先は耳に入れる必要がない。すでに胸糞悪いなんてもんじゃないし、ガタガタ怯える愛華さんが可哀想だ。
最後の方でイスが倒れる音がしたから、暴力を振るわれていたのだろう。手首と首の軽傷で済んだのは不幸中の幸い。反射的にそう感じた自分が、悔しくてやり切れなかった。
淀みゆく心を誤魔化すように彼女を抱き返せば、漂う香りと伝うぬくもりが癒しになる。だがこの身体に背負うものは、身の毛がよだつほど残酷で重たい。和くんと呼ばれていた夫のやり方は洗脳と同じだ。圧力をかけて相手を支配し、責任の所在まで
ならば救う方法はこれしかない。
「愛華さん、俺の声は届いてますか?」
「うん。ちゃんと届いてるよ……」
「よかった。さっきも言いましたけど、あなたがそばにいてくれれば俺は満足です。不幸にしてしまうとか、そういう心配は必要ありません」
「……でも、他の人を選べば、普通の幸せが手に入るんだよ?」
「それこそ俺の望みじゃない。あなたじゃなきゃ意味がないんだよ」
「そんなの、キミが知らないだけかも——」
「そこまで言うならもう決めた。俺、就活してフリーター脱却する。たくさん稼いで良い治療を受ければ、可能性はあるはずでしょ? だから……結婚を前提に俺と付き合ってください!」
瞼をギュッと閉じながら、吠えるように言い放ってしまった。愛華さんの声が自信なさげで、ぬるい慰めなんて通用しないと思い、大きな衝撃で上塗りするしかなかったのだ。
全てを
彼女は左手で俺の頬に触れると、愛くるしい微笑みを浮かべた。
「……そういう大事なことは、しっかり目を見て伝えてほしいな」
「は、はい……愛華さん、俺の恋人になってください。ゆくゆくは、その………結婚も考えてもらえればと……」
あまりの照れくささに
誰にも渡したくない。俺の手でこの人を守っていきたい。改めて決意が固まった頃、口を離した彼女が笑顔で返事をくれる。
「はい。あたしが蒼葉くんを絶対幸せにする♡」
「ちょっ、えぇー!? 今のセリフは俺に言わせてくださいよ〜」
「だってあたしの方が5つも年上だもーん。就活は焦らず、本当にやりたいことを見つければいいよ。離婚しちゃえば扶養も外れて、あたしもいっぱい働けるからさ♪ 助け合っていこ!」
「愛華さん……やっぱめっちゃ好きです」
「キミがあたしを好きになる前から、あたしはずっとキミのことが大好きだったよ♡」
人生の絶頂期って、こんな場面で使うのだろうか。やっとスタートラインに立てたばかりなのに、言い様のない幸福感が湧き溢れて、後ろを振り返る気にもならない。
思い立ってスマホを掴むと、バイトのグループチャットにメッセを送信した。見ていた愛華さんは、慌てた様子で尋ねてくる。
「えっ、なんで!? 明日と
「明後日が元々公休なんで、これで三連休にします。せっかくですから、俺達も遊びに行きましょうよ!」
「……別に対抗しなくていいのに〜」
「違いますよ。俺が浮かれ過ぎて、仕事する気分にならないだけっす」
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