第27話 もう後戻りする気はありません(2)


「あれ? 結構綺麗にしてるんだ」


「すぐに使わない物は、クローゼットかベッドの下に押し込んでるだけっすよ。それでも床に散らばってますけど」


「もっとごちゃっとしてるかと思った。広さも一人暮らしには充分だね〜」


「えぇ。ただ問題は、来客用の布団が無いことなんです」

 


 扉を開けて室内を覗くと、愛華さんの顔色には少し気力が戻っていた。

 一番右奥にベッド、対面側にはテレビや本棚が並ぶだけの質素な空間。玄関のすぐ左手側にあるキッチンと、右側のトイレや風呂場までを説明してから、二人で奥の部屋に入った。その直後に寝床の話をしたところ、彼女は無表情で目も合わせようとしない。心境が読めなくて困惑してしまう。

 


「あ、あの……もし添い寝が嫌なら、愛華さんだけでベッド使ってもらっても構わないんで、そこは安心してください」


「……やだ」


「分かりました。俺は床でも問題ないん——」


「一緒じゃないとヤダ!!」


「えっ……?」


 

 急に大きな声を出したかと思えば、懐に飛び込んでくる愛華さん。胸元に被せた両手がギュッと俺の服を握り締め、小刻みに肩を震わせている。

 驚きはしたものの、顔をうずめて子供みたいに縋る彼女は、あまりにも弱々しい。居た堪れないだけではなく、なんとしても守ってやりたくなって、華奢な身体を腕の中に抱き締めた。


 

「自分独りで抱え込まないでください。俺が独りにしないって約束したじゃないですか」


「……あたし、ハッキリ言ったの。もう解放してって、旦那に……」


「解放? つまり離婚ってことですよね?」


「うん。前々から離婚の話はしてたんだけど、聞き入れてもらえなくて……『俺に次の相手が見つかるまでやることやってたらな』って言われて……」


「ちょ、ちょっと待ってください! 一旦座りましょうか」


「お願い……あたしを離さないで」


 

 内容がイマイチ解釈できない。ただ表情は見えなくとも、途中から涙声になってたことから、必死さは充分に伝わってくる。静かにベッドへ座らせても尚、しがみついたまま離れようとせず、仕舞いには嗚咽おえつも聞こえてきた。

 俺が泊まりに行ったあの日、愛華さんが泣いてたのはよく覚えてる。普段は誰より明るく振る舞いながらも、内側にはどれほどの悲しみを秘めてるのだろう。こういう時こそ俺がしっかりしなくちゃいけない。この間までは逆の立場で、献身的に支えてもらってたんだから。

 悲痛の叫びが少しでも和らぐようにと、できるだけ優しく背中を撫でた。

 


「多少落ち着いてきましたか?」


「……全然落ち着かないよ。胸がすごく苦しくて、キミに触れてるとおかしくなりそう」


「いいですよ。どんな愛華さんでも、全部受け止めます」


「簡単に言っちゃダメだよ! あたし……あたしなんか………欠陥品なんだから」


「どういう意味ですかそれ。ご主人に言われたんですか?」


 

 途端に不快感が湧き上がってくる。自分をおとしめる言い方をしてほしくないし、他人の言葉であれば許し難い。

 感情を押し殺しつつ宥めていると、再び口を開いた彼女は意外にも冷静だった。

 


「あたしね……妊娠しにくい体質なの。一昨年の冬と去年の秋に流産も経験してる。原因不明って言われてるけど、お母さんもそうだったから、たぶん遺伝なんだ」


「それが欠陥品だなんて言った理由ですか?」


「だって、生物として基本的なこともできない体なんだよ?」


「関係ありません、俺の前では二度と口にしないでください。あなたには素敵なところがいくらでもあるのに、その一点のみで全てを否定するのは許容できません」


「でも……あたしと一緒になった人は不幸になるでしょ? 一生家族に恵まれないかもしれないんだよ?」


「愛華さんがいるじゃないか!! なんで相手まで不幸になるって決めつけるんだよ!」

 


 つい熱くなった瞬間、両目から水滴がポロポロ落ちてきた。聞いててものすごく気分が悪かったんだ。刷り込まれたような自己嫌悪が、好きな人の内側から吐き出されて、俺の声がちっとも届いていないみたいで。張り上げればいいものじゃなくても、辛過ぎて拒絶せずにはいられない。

 しかし愛華さんには伝わったのか、涙をいっぱいに溜めた目で微笑みを浮かべている。

 


「ありがとう。そんなふうに怒られたの、生まれて初めてだよ」


「……すみません。愛華さんが悪いわけじゃないって、頭では理解してたんですけど」


「それでも心が動いたんでしょ? あたしの気持ちに本気で向き合ってくれたんだよね」


「難しく考えなくていいと思います。少なくとも俺は、あなたのそばにいられることが一番の幸せですから」


「……うん。とりあえず、夜ご飯先に作っちゃうね」


 

 気持ちの切り替えが鮮やかで、不覚にも呆気に取られてしまった。持ってきた荷物から食材を取り出した彼女は、何事も無かったかのようにキッチンを使い始めている。

 それにしても腑に落ちない。婚姻関係で縛り付けてるのなら、なぜ愛華さんへの束縛が一切無いのだろう。互いに好き勝手できる状態の上、子供を望めないことが元凶なら、別れていてもおかしくない。

 首を捻って待つこと約15分。手早く料理を終えた愛華さんが、皿を持って戻ってきた。

 


「どんな調理器具があるか分かんなかったから、今日は焼きうどん。手抜きでごめんね」


「いえ、全然手抜きとか思いませんし、作ってもらえるだけで嬉しいっすよ」


 

 床に座り込み、小さなテーブルの上で麺をすすりながら、正面の彼女に視線を向けた。やはり無理をしてるのか、ふとした拍子に瞳の色が影に紛れて、物憂げな様子が窺える。


 

「愛華さん、腕の怪我やさっきの発言って、ご主人から受けたんじゃないですか?」


「あはは……やっぱ分かっちゃうよね……」


「DVですよそれ。どうして我慢しちゃったんです?」


「……子供ができただけで奇跡だったの。不妊治療にも協力してくれたし、あの人のおかげで可能性が見えたのは大きかった。でもあたしが失望させて、狂わせちゃったんだよ」


「流産のことですよね。本当に失望したなら、離婚で揉めるとは思えません」


「キミって変なとこで鋭いなぁ。今の旦那にとってあたしは家政婦と同じなの。家事を任せられて………欲求を満たす道具にもなる」


 

 思考が停止し、握ってた箸がコツンと転がり落ちた音が鳴り響く。突然の暴露に動揺すると同時に、夫婦の在り方に疑問を抱いた。恐らく異常なのは俺ではないだろう。

 

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