第16話 近くにあってなんとなく遠い距離(2)


 こんなにくっつかれて、本気になるな——か。確かにソフレという関係は成り立つケースも多いらしいが、それはあくまで恋愛上級者達の話だろう。俺みたいな童貞は女子と寄り添うだけでドギマギだし、現在隣にいるのは好意を寄せる相手。たぶんりっちゃんと揉めた辺りから、この人を女性として意識してしまった。例え既婚者だとしても、見た目も中身もタイプなんだから仕方なかろう。

 許されない恋だなんて理解してる。なのに愛華さんの言葉が胸に刺さり、自然と涙が滲んできた。目を擦って堪えていると、胸元の服を掴む力が強まってくる。しかも腕は震えてるらしい。様子を見ようと仰向けになった瞬間、全身で覆い被さるようにしがみつかれた。

 俺の右胸に顔をうずめる彼女は泣いている。なんとか声を殺しつつ、きっと俺より大粒の涙を零し続けてる。右手をそっと彼女の背中に添えて、なるべく穏やかな声で尋ねた。

 


「愛華さん、どうしてあなたが悲しむんですか?」


「……ごめんね。すごく自分勝手だって、分かってるんだ」


「そんなことないっすよ。だってあなたは最初、純粋な善意で俺を励まそうとしてくれたじゃないですか」


「でも、離れられないのはあたしなんだよ。こんなにすがっておいて、キミの想いには応えられないなんて、都合いいこと言ってる自分が本当に嫌になる」


「離婚できない理由があるんでしょ? 珍しく誤魔化し方が雑でしたよ」


「……キミには敵わないね。去年の12月からずっと……」


「12月……?」

 


 8ヶ月ほど記憶を遡り、愛華さんとのキッカケを探る。するとひとつだけ濃い線で結ばれた、明確な繋がりが浮かび上がってきた。


 あれは12月上旬の平日の夜。いつも通り22時までの勤務を終えて店を出ると、ポツポツと降り始めたばかりの空を見上げた。

 元々雨の予報だった為、その日は傘を片手に徒歩通勤。予定に従うように傘を差して歩き始めたら、正面の暗い道で立ち止まる人影に気付いた。傘どころか荷物さえ持たず、サンダルと部屋着っぽい服装の女性らしい。

 目を凝らすと見覚えがあり、これといった理由も無いまま声をかけに行った。

 


「こんばんは。降ってきちゃいましたね」


「………はい」


「あの、この傘を差して少しだけ待ってていただけますか?」


「……え?」


 

 間近で見た女性の肌には、涙か雨粒か判別できない雫が伝っていて、なんとなく放っておけない気がした。

 自分の傘を手渡してバックルームに駆け込み、忘れ物の傘の束を漁る。お客さんが外の傘立てに置きっぱなしにした物で、溜まると回収業者に引き取られていく運命。

 一番綺麗なビニール傘を引っこ抜くと、それを持って外で待たせた人の下に戻った。

 


「よければこれ使ってください。今日寒いんで、濡れると風邪引いちゃいますから」


「え、でも私、今お財布持ってなくて……」


「大丈夫ですよ。近いうちに処分されちゃう傘なので、ぜひ救ってやってください」


「……分かりました。ありがとうございます」


「あ、ついでに使い捨てカイロもどうぞ」


「えっ、それはさすがに……」


「俺の私物で予備に持ってただけなんで、問題ありませんよ」


「……ありがとうございます。使わせていただきます」


「あのチョコはもう無くなっちゃいましたが、たまにはお顔を見せてくださいね。ジュースやアイスにもお勧めがありますので、ぜひ」


「私のこと、覚えててくださったんですか?」


「えぇ、もちろん覚えてますよ。お客様とお話しするのは楽しかったので、最近は物足りなかったんです。新製品を見に来るだけでも、美味しいお菓子談義の為でも構いませんので、暇な時間にいらしてください」


「……はい。必ずまたお邪魔しますね♪」

 


 外で常連さんと出会でくわした際は、似たようなやり取りが日常的。だからこの一件も特別だなんて意識はない。しかし愛華さんがみるみる明るくなって、店に来る頻度が増えたのもあの後からだった。彼女にとっては決して小さなことではなかったのだろう。

 物思いにふけってると、すぐそばからの涙声に首が傾いた。

 


「思い出した?」


「はい。愛華さんは元気いっぱいな印象が強くて、いつの間にか別の存在みたいに感じてました」


「あたし、一度沈むととことんダメになるの。だけど蒼葉くんは誰にでも気遣いができる人だったから、通りすがりでもすごく助けられた」


「通りすがりどころか、しっかり入り浸ってたじゃないですか」


「あの日は本当に通りすがりだったよ。行くあてもなく家を飛び出して、コンビニの前に来たら店員さんの顔が浮かんだだけ」


 

 徐々に声が安らいでいき、強く抱き締めたい衝動に駆られた。けれど行動に移してしまえば、もう感情を止められなくなってしまう。引っ掛かった一言が非常に重く、正直な気持ちを押し潰そうとする。

 それならばと、今の俺にできる最大限の決意を伝えた。

 


「愛華さん、俺にとってもあなたは大切な友達です。何があっても支え続けますから、これまでと同じように接してください。遠慮とかいらないんで、楽しそうに笑っててほしいんです」


「……ずっとその関係が続いたらどうするの?」


「どうもしないっす。あなたが幸せなら、俺も一緒に喜ぶだけですよ」


「……はぁ〜〜。やっぱりキミっておバカだよねー」


「なぁっ!? なんなんすかいきなり悪口言って!」


「だーってそーでしょ〜? キミは今自分から、都合のいい男になりますよーって宣言したんだよ?」


「そんな言い方しなくてもいいじゃないっすかぁ。ついさっきまでメソメソしてたクセにー」


「蒼葉くんだって半べそかいてたの知ってんだからね〜? なーんで泣いてたのかは知らないけどぉー?♪」

 


 唐突に開き直ったかと思えば、ずいぶん挑発的ではないか。遠慮するなと言ったのが余計だったかな。とりあえず今回の悪ふざけは普通にイラッとくるぞ。こちらの意思をガン無視して悪態に変換してる。

 対抗策を練っていると、ソフレからヒントを得られた。引っ付いてる彼女を両腕で軽く包み込み、あえて優しく振る舞って反省させよう。


 

「くだらないいさかいは水に流して、そろそろ寝ましょうね。ソフレならこのくらい平気でしょ?」


「……うん。蒼葉くんとあたしの匂いが混ざってて、なんかそそる♡」


「ちょっ、卑猥ぃ! 表現が卑猥っ!」


「もっとギューッてして♡ あたしもするから♡」


「ひぇっ! むっ、胸が押し付けられてますって!」


「添い寝なんだから当たり前じゃん♪」


「もう許してェ……」


「だ〜め。キミのせいって前にも言ったよね?♡」

 

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