第14話 幻にも似た儚くも蒼い華
全身がブルっと震え、薄く目を開いた。
これは……貴船さんの匂い。ということは、ご馳走になったまま眠ってしまったのか。よく見れば正面に華奢な背中がある。俺はソファに横になってて、同じくらいの高さのテーブルに、うつ伏せになってるのが彼女。慌ててポケットからスマホを取り出すと、まだ深夜0時にもなっていない。寝てたのは3時間ちょいかな。
上体を起こして部屋の中を見回すと、食卓がまっさらに片付いている。一緒に飲んでたのに、全部済ませた後で疲れ果ててしまったらしい。どこまで素敵な奥さんなんだこの人は。
ゆっくりと床に降りて彼女の真横に座り込むと、思わず心の声が漏れた。
「寝顔までこんなに綺麗な人、初めて見た。普通はもっとだらしなく崩れるよなぁ……」
仕事帰りに直接来たし、メイクはだいぶ落ちてるのだろう。なのにまつ毛や鼻筋、唇まで形が整っていて、目が離せなくなる。
ほんの出来心から伸ばした指先は、彼女の頬にそっと触れた。吸い付くような感触が気持ちいい。だが次の瞬間、彼女の口角がニヤッと持ち上がる。
「ほっぺだったかぁ〜。石切くんなら髪の毛か背中を触ると思ったのに、意外と大胆だったね♡」
「寝たフリだったんすかっ!? 油断も隙もないなぁ」
「少しは楽になった? ペースが早くて酔っちゃったでしょ?」
「はい、もう問題ないっす。俺がソファから落ちないか心配して、ここにいてくれたんすよね?」
こちらからの問いかけに対し、口を半開きにして固まる貴船さん。すぐに穏やかな笑みを零し、柔らかくも純粋な声色で語り始める。
「もし逆だったら、キミはあたしをベッドに運んでくれてたでしょ。あたしは支えるくらいしかできないからさ」
「ありがとう貴船さん。そういう気遣いできるとこ、いつも尊敬してます」
「それはこっちのセリフだよ〜。あとあたしのことは、愛華って呼んでほしいかな♡」
「ぐくっ………ま、愛華さん」
「ありがとう♪ あたしも蒼葉くんって呼ぶね♡」
本当は拒否したいけど、俺も学習したのだ。彼女のイタズラに逆らうと、後々もっと苦労するのだと。ぶっちゃけ名前で呼べるのは嬉しいし。
それにしてもどういう心境の変化だろう。何か企んでるにしては、要求が少し弱いような。考えていた矢先、体中の血の気が引いた。
寝る前にとんでもないことを口走ってた気がする。というか確実に口走ったぞ。人妻にガチ告白してしまった。困るどころか距離感縮めてきたってことは、不倫街道まっしぐらなのかこれ?
おどおどしながら彼女の方に目線を向けると、眉を上げて首を傾げていた。
「どしたの? 顔が真っ青だよ?」
「あの……俺、膝枕してもらいましたよね?」
「うん、したしたー。太もも触りたくなっちゃったの?♡」
「酔っ払った勢いで変なこと言いませんでした?」
「別に〜? 夢でも見てたー?」
「あれ? ガチで言ってません?」
「うん、変なことなんて何も」
「そ、そうですか……。すみません、忘れてください……」
好きだって叫んでたの、あれは本当に夢だったのだろうか。彼女が聞いてないのなら、そうとしか考えられないけど。
ほっとした途端に冷静さが戻り、自分のバッグを手に取って帰り支度を始める。日付が変わるまで入り浸れば、何をどう疑われても言い逃れできない。
ところが俺の懸念とは裏腹に、ケロッとした顔の愛華さんが服の袖を引っ張った。
「蒼葉くん、明日休みだよね? あたしの買い物に付き合ってくんない?」
「あれだけ買ったのに、まだ足りないんすか?」
「食材じゃなくて、洋服とか本とか色々欲しいの。電車で行くから、また荷物持ち手伝ってくれると助かるなぁって」
「……分かりました。何時に駅で落ち合います?」
「ありがとー♪ お礼に今夜は泊まってっていいよ♡」
「はいぃ!? いやガチで言い訳できなくなりますよ!」
「どうせ明日の夜まであたし一人だし、何も問題ないよー?」
「問題にしてください。旦那以外の男と一晩過ごすって、完全にアウトじゃないっすか!」
「キミ以外の人にはこんなこと言わないよ。キミは特別だから……」
急に悲しい目になったかと思えば、そのまま冷蔵庫に向かう愛華さん。缶チューハイをチラつかせると、苦笑しながら軽く尋ねてきた。
「もうちょっと酔いたい気分。蒼葉くんも一緒に飲む?」
「じゃぁ……一本だけ」
座った彼女は眠いのか、飲む前からトロンとした表情になっている。話したいことがあるのだろうと付き合ったけど、すぐに潰れてしまいそうだ。
蓋を開けてぐびぐび喉を鳴らす姿が、ヤケクソのようで痛々しい。俺もひと口飲んだ後、心当たりを切り出してみた。
「やることさえやってれば文句ない——でしたっけ? 夫婦関係が良くないんですか?」
「……たぶん、最初からあたしが間違えてたの。分かってくれるって思い込んじゃったからさ」
「ご主人は愛華さんのことを分かってくれなかったんですか?」
「そーだねぇ。あたしもあの人のことを理解できてなかったし、どっちもどっちなんだろうね〜」
「離婚は考えてないんですか?」
「もぉ〜イヤっ!! あたしは蒼葉くんがいいっ!!」
「はっ、はいっ!? 何事?」
「不倫でもセフレでもどっちでもいいよ! 蒼葉くんがいいっ!!」
「ちょっ、話飛んでますし、めちゃくちゃ身勝手になってますけど!?」
「なーんて言ったら、キミはどうする?」
「酔ってねぇんかいっ! ……力になれる方法を探しますよ」
立ち上がった愛華さんはこちらに寄ってくると、挑発的な態度を取っていた。だけどそれは無理してるようにしか見えず、心の奥では本気で助けを求めている。勘違いだとしても直感的にそう思った以上、手を差し伸べる以外の選択肢は無い。
彼女は更に距離を詰め、両方の手のひらで俺の頬を挟み込んだ。
「にゃ、にゃにひてるんでふふぁ?」
「可愛い年下くんの顔をじっくり観察中だよ〜♡」
「ブレまひぇんねまにゃはふぁんば」
「あっははははっ! 何言ってんのか全然分かんなーい!」
「あにゃひゃにょひぇいれひゅよにぇ?」
「うん、あたしのせいなのに、キミはちゃんと向き合ってくれるんだね。ありがとう。ごめんね……」
「じぇんじぇんれひゅよ」
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