第3話 世界一欲張りなあなたと

──」


 目の前で、ルピスが息をのむ。

 ほんの少し前までまっすぐにわたしのことを映していた瞳が、だんだんと地面へ降りていくのを、わたしはただ黙って見つめていた。


 驚いたような、悲しむような、もしくは怒ったような。

 そんな種類の異なる様々な感情を、ひとまとめにしたかのようなルピスの表情を見つめ、わたしは返答を待った。


 どれくらいの時間が経っただろうか。なるほど、精神的にストレスのかかる時間は長く感じると言うが、確かに、ルピスの反応を待っている時間は永遠にも感じられるほど長かった。


 陽が落ちかけているのに気づいたわたしが、ルピスに声を掛けようと口を開きかけた、ちょうどその時。


「──やよ」


「え?」


「いやって言ってるの! カノンのわからず屋ーッ!!!」


「え、えぇ……? る、ルピス……?」


 ルピスの蚊の鳴くような声を聞き返したわたしに、ルピスが叫んだ。


 ルピスは普段はお淑やかで、大きな声で騒ぐ事は滅多にしない。常に凛と姿勢を正し、強者の矜持を持てと躾けられてきたからだとわたしは知っている。


 だからこそ、ルピスが声を荒らげたことがわたしを驚かせたのと同時に、嫌だと言われても困るな、とわたしは思った。


 ここからさき、わたしがしようとしているのは、要は世間──ひいては国や人間すべてを敵に回すことだ。

 それが本当に大変なことなくらい、赤点常習犯だったほどバカなわたしでもわかる。


 この世界は元の世界とは違い、剣や魔法、魔術といった、わたしの元いた世界では漫画やラノベ、アニメなどでしかお目にかかれなかった技術が当たり前のように生活の一部として浸透している。


 冒険者ギルドや魔導士ギルドが大きな街だけでなく、地方に存在する小さな村にも支店を出していることからも、それはよく見て取れる。


 つまりは、そこらへんにいる一般人が他人に危害を加えることのできる技術が、日本よりも遥かに広がっている、ということ。


 言い換えれば、「死に職」の陰陽師かつ、不健康、不摂生を長く続けてきたうえに、万年文化部で運動不足と貧弱極めるわたし程度であれば、ただの一般人でも余裕で倒してしまえる、ということなのだ。


 そんな殺伐とした世界でも、ここまではパーティの人たちがいてくれて、わたし以外の全員がそれはそれは強かったからここまでなんとか生き延びてこられたものの、これからはそうはいかない。


 ただでさえ、これまでもルピスにおんぶにだっこの状態だったのだ。

 これからの旅路を思えば、わたしがルピスと一緒に行ったところで足手まといになるどころか、危険にさらすことになるのは日の目を見るより明らか。


 わたしの自己満足の旅でしかないのにも関わらず、ルピスを巻き込むのはわたしのプライドが許さなかった。


 なにより──この世界で出会って、成り行きの、文字通り子どもお遊びみたいなものとはいえ、婚約者になって。


 気が付けば、数ヶ月をパーティで最も長く一緒に過ごしてきて、ルピスのことが、大好きで、大切で──とにかく、わたしの中で、ルピスの存在があまりに大きなものになりすぎてしまった。


 そしてそれは、わたしの思い違いでなければ……ルピスもそう、なのだと思う。


「ルピス、お願いだから、パーティのみんなのところに戻ろう? 婚約のことだって、わたしと一緒にいたら、ルピスの将来に傷が付くし……。それに、信じられる情報かどうかも正直怪しいんだよ?」


「だーかーら、カノンは全然分かってない! 他でもない私本人が! カノンに着いていくって言ってるの! 情報が本当わからないって言ったって、カノンは信じるんでしょう? なら、私はカノンが信じたものを信じるだけよ!」


「そ、そんなこと言われたって……」


「それとも何? カノンは私のこと、嫌いになっちゃった……?わ、私、ワガママ言って、カノンのこと困らせてる?」


「それは絶対にない! ないけど……、」


「ないけど?」


 ルピスが真ん丸で澄んだ蒼色の目を潤ませて、上目遣いにわたしを見上げる。そのあまりのいじらしさと可愛さにより罪悪感が刺激され、わたしはたじろいだ。


 う、うう……。わたしがその顔で見つめられると弱いのを分かってやっている……。


 というかルピス、幼い少女ながらにして、あまりにも魔性が完成されすぎなのでは?

 たったの8つにしてこれなんだから、大人になったときのルピスの周りの男の子たちに、同情を禁じ得ない……。


「あのね、ルピス。わたしね、ルピスには笑っててほしいんだ。せっかく自由になって、パーティのみんなと肩を並べて戦えるだけの実力があるんだよ? トリーの近くにもいられるし、わたしじゃなくて、トリーたちに着いていったほうがいいって、絶対!」


「それが違うって言ってるの! ──あのね、カノン。さっきも言ったけど、私はカノンが私を助けてくれて、手を取って、そばにいてくれたことが、本当に、本当に嬉しかったのよ? ──今も、思い出したら泣いちゃうかもしれないくらい、私にとっては大切な思い出なの。……カノンからしてみれば、知らない人にでも簡単にできちゃうくらい、なんでもない行動なんだろうけれど」


「……」


 ルピスがわたしの目を覗き込む。汚れを知らない無垢な瞳が、わたしの中にある弱さを暴き立てるのが怖くなって、わたしはつい目を逸らした。

 そんなわたしの視線を追いかけるように、ルピスがまた一歩、わたしとの間にあった距離を詰める。自然と、後ろの切り株に阻まれ、退路を塞がれる形となった。


 ──逃げられない。

 わたしは思わず息を呑んだ。すかさずルピスが言葉を続ける。


「カノンがわたしの力になってくれたみたいに、私もカノンの力になりたいの。……それとも、私じゃカノンのしたいことのためには、力不足かしら?」


「──っううん、そんなことない! ルピスがいてくれたらすっごく心強いよ。でも、わたしのワガママに、ルピスを巻き込めないし……。っていうか、さっきルピス、わたしのお願いならなんでも聞くって言ってたじゃん! 話違くない!?」


「そ、それは! ──だって、お願いっていうから、てっきり『一緒に来て』って言ってくれるものかと思うじゃない! せっかく私がどうやって格好良く『勿論、いいわ』って言うか考えてたっていうのに、無駄にして! カノンのおばか! わからずや!」


「いやいやいや、格好良くって……! そんなこと考えなくたって、ルピスはいつだってかっこよくて、可愛くて、強くてマジでモノホンの天使みたいだけど……」


「も、もう! カノンったら、はぐらかそうとしてるでしょ! その手には乗らないんだから! 褒めて照れさせようったって、嬉しくないわ! ……ううぅ、カノンのばかぁ」


 そう言って、顔を真っ赤にしたルピスが恥ずかしそうに俯く。

 やばーい、恥ずかしそうにしてるルピス、あまりにも国宝級の尊さすぎない?全世界の総力を上げて保護して甘やかしておくべきじゃない?というか大丈夫なの、こんな傾国級の美少女を放置しておいて?ルピスの可愛さで大戦争とか起こったりしない?


 まあそんなこと本人に言ったらキモがられるか、怒られるかのどっちかだから口にするわけではないんだけどね!

 わたしは賢いので、空気を読んで喋ることの取捨選択ができるのですよ!……そこ、オタクだからそもそも喋るのが下手とか言わなーい。


「うへへ、照れてるルピスも可愛いねぇ」


「もうっ! カノンがそうやって人を褒め倒すときは誤魔化そうとしてるときだって、私、ちゃんとわかってるんだからね! ──ゴホン、話を戻すわよ」


 咳払いをして、たるんだ空気をリセットするルピスに、いやぁ、ルピスのことマジガチ激ヤバ美少女だと思ってるのは本当なんだけどなー……、と思いはしたけど、それを言ったらまた怒られそうなので、言わずに曖昧な笑みで返す。


「あのね、カノンは勘違いしてるかもしれないけど、私がカノンに着いていきたいのは、私のためでもあるのよ?」


「──と、言いますと? 正直、わたしにルピスが着いてくることに、さほどメリットがあるとは思えないんだけど……」


「ふふん、それはね──」


「そ、それは……!?」


「この計画が成功すれば、アユム様にも感謝されて、他のアユム様を狙ってる女の子たちの優位にたてるってことよ! カノンもそうだけど、アユム様ってば人たらしなんだもの。きっとこのまま何も行動を起こさないままだと、どんどん周りの女の子が増えていって、不利になっていくだけだわ」


「えぇーっ!? い、いやまあ、たしかにトリーは人たらしだし、1番に選ばれるのは大変かもしれないけどさぁ!? そもそも、トリーを助けるのだって、上手くいくかどうかあやしいんだよ!? そんな分の悪い賭けみたいな……っ!」


「賭けなんかじゃないわ」


 ルピスが鋭くわたしの言葉を遮った。有無を言わさないその瞳がわたしを見据える。


 ──その蒼の奥底に、燃えさかる炎のような輝きが見えた気がして、その美しさに思わず息を呑む。目をそらして逃げたくなるほど熱く、眩しいのに、なぜだか心を、視線を奪われる。


 それだけの、いっそ蠱惑的とも言えるほどの輝きに、わたしは──


「私は、カノンならきっとやり遂げられるって──、アユム様を助けられるって、信じてるもの」


「──っ」


 まっすぐな、あまりにも曇りのないその言葉に、わたしは思わず喉を詰まらせる。

 目頭が熱くなって、鼻の奥がつんと痛くなってきた。今にも目蓋の奥から溢れてきそうな熱を堪えるため、わたしはぐっと下唇を噛む力を強めた。


 どうしてルピスは、そんなにもわたしのことを信じてくれるのだろう。


 ──こんな、気を抜けば今にでも逃げ出して、投げ出して、泣きじゃくってしまいたいと思っているほどに、心も、力も弱くて仕方のない、わたしのことを。


「わたし、ルピスが思ってるほど、強い人じゃないんだよ?」


「知ってるわ。だからこそ、私はカノンのことが好きなのよ。自分のほうが弱いってわかってても、自分よりも強い人を助けようとしちゃうところが大好きよ」


「きっと、すっごく大変だよ? 後悔するかもしれないよ?」


「それは絶対にないわね。 それに、どれだけ大変だったとしても、──ううん、大変なことだからこそ! 私は、苦しんだり、悲しんだり──、同じくらい笑うのも、カノンと一緒がいい」


「ルピス……」


 ヤバい。本格的に泣きそうだ。……この子の前では強いわたしでいたいのに、こんなにも、背中のぬくもりを感じていたいと、そう思ってしまうのは、どうしてなんだろう。


 ──いや、答えはちゃんとわかっているんだ。ただ、それを、この世界に存在する言葉で言い表せないだけで。

 わたしが、言葉にしたくないと──、そしてきっと、ルピスが言葉にしてほしくないと、そう思っているだけなんだ。


 それならば、わたしが今、ルピスに言うべきはたったひとつ。


 それは──


「ルピス……、わたしと、結婚してもらえない?」


「いいけど、アユム様も一緒じゃないと嫌よ。──私ってば、世界で一番欲張りなんだから! ほしいものは、ぜーんぶ我慢なんかしないの! だから、まだ婚約の段階ってところね。そうでしょ、カノン?」


 そう言って、わたし達は顔を見合わせて笑った。


 いつの日か、おままごとのようなその約束を破るために──今はただ、誤魔化すように、楽しく笑い飛ばすだけだ。

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