第10話  全てを忘れてしまう人





「あなたは8395日前に家を出たわね。」


目の前の女性は私に言った。


「えーと、20年ほど前でしょうか。」

「時間まで言えるわよ、あなたが玄関から右足を出した時間まで。」


私の腕に軽く触れている彼女は誇らし気に言った。


「私と貴女は今日初めてお会いしましたよね、

それでなぜ私の事が分かるのですか?」

「貴方が私と会ったのは55分前よ。

貴方が聞いてくれれば貴方の事はすべて分かるわ。」


私は聞く。


「ならば貴女が私と会ったのはいつですか?」


彼女は一瞬固まる。


「えーっと、いつお会いしました?」

「56分前です。」

「そうだったかしら。」

「私が貴女と会ったのは?」

「56分、いえ今57分になったわ。」


彼女は屈指のサイコメトラーだ。


物に触れると対象の過去を手に取るように知る事が出来る。

私のように知性を持つ生き物の場合はかなり詳細に分かるのだ。


だが、


「貴女は今朝何時に起きられましたか?」

「……、いつだったかしら。」


自分に関しての事は全く覚えられないのだ。


彼女のそばに看護人が来て腰かけている椅子のクッションを直した。

彼は彼女の姿勢も軽く直す。

すると、


「分かったわ、7時半ね、この人が起こしてくれたのよ。」


多分看護人の記憶を読んだのだろう。


「貴方は私に用があって来たのでしょ?何かしら。」


彼女は私を覗き込む。

私は一つの結晶を差し出した。


「これです。」


半透明の結晶だ。

原始の宇宙で作られたものと言われている。

彼女は私に触れたまま石を受け取った。


彼女はそれを見る。


「これは153年前かしら、

実験室ね、おじいさんが作ったものよ。

子どもにあげているわ。誕生プレゼントだって。

お孫さんみたい。」


私はため息をついた。


「やはり偽物ですか、そうでないかと思っていましたが。」

「え、待って、待って、

何かしらこれ、物凄く小さくて微かだけど、

遠い所……、」


彼女が目を閉じる。


「闇と光、音……。一緒にある。

奥の奥にあるもの、光って広がっているわ。」


私の腕に触れている彼女の手に少しだけ力が入った。


「すべてのものにこの記憶はある。

何度も繰り返し、すべては消えてまた生まれる。」


うっすらと伏せた瞼がゆっくりと開き、

私を見た。


深い色の無機質な瞳が私を見た。


彼女はかつて違法な遺伝子操作やゲノム編集で生まれた。


様々な人や生物の遺伝子を切り離しつなぎ合わせて、

まるでブロックのように組み立てられた遺伝子の一つが彼女だ。


その実験が行われたのは個人所有の小惑星だ。

法の目が届かず罰される事も無い場所で行われた神の領域を犯す実験。


その末に残ったのは彼女一人だ。

恐ろしい数の異形の者は全て誕生前に死に、

生まれてもすぐに死んだ。

数体生き残っていたようだが今ではその先は分からない。


唯一人としての姿を保っていた彼女は保護され今に至る。

だが成長につれてその能力があらわになった。


幼子が近くの人の記憶を読みたどたどしく語り出した時は、

回りの人間はどう思っただろうか。


彼女は隔離され、ごくわずかな人としか接触は出来ない。

そして歳を経るにつれてその能力は人に限らず

物の記憶すら読むようになった。


自分に触れるものの全てが彼女に語りかけるのだ。

彼女の気持ちなどお構いなしだ。


彼女自身が記憶を留められないのはそれ故なのか、

元々の素質なのかは分からない。


そのおかげで彼女は何も覚えられず清らかに生きている。

助けてくれる人がいるからこそだが。


「光ですか?」

「そう、光と闇は全てのものが持っている。

あなたにも。」

「私もですか?」


彼女の手は結晶と私の腕に触れている。


「この結晶はそれが凝縮されているから分かったわ。

偶然あのおじいさんが作ったみたい。

原始の宇宙と言うのもあながち嘘ではないわ。」


彼女がふと目を閉じる。

疲れたのかもしれない。


そして、彼女の手が私の腕から離れた。


「あら、初めまして、イゴルさん、

イゴル・クユールエさん、学者さんね。」


私の胸元の名札を見て彼女が言う。


「はい、そうです。初めまして。」


彼女は手を差し出した。

私はその小さなほっそりとした手を軽く握り返した。

早老症の彼女の体はもろい。


彼女は首を傾げた。


「いえ、初めてではないわね。

1時間15分前に会っていたわ。

ごめんなさい、覚えられなくて。」

「いいえ構いません、お会い出来て光栄でした。」

「こちらこそ、お話し楽しかったです。

お元気で。」


私は彼女の部屋から出た。


「お疲れさまでした、先生。」


先程の看護人が私に話しかけた。

扉越しに彼女を見ると椅子に座ったまま動いていなかった。


「彼女の体調はどうかね。」

「あまり芳しくありません。老化が止まりません。」

「そうか、使われた遺伝子のテロメアが極端に短かったらしいな。」

「そうです。もう無茶苦茶な実験だったそうですから、

そんなことまで考えてなかったのでしょうね。

たった六歳であの姿だ。」


彼女は六歳だ。


様々なものの記憶を知ったおかげか異常に知性が発達した。

話し方はすっかり大人だが、彼女の人生はたった六年だ。

私は扉越しに小さな彼女の背中を見つめる。


本来なら元気に走り回り生命の塊のような年頃のはずだ。


なのに部屋に閉じ込められて静かに過ごし、

知的な大人びた話し方をする。

それは無理やり自分の頭に入って来た様々な思念のせいなのだ。


それがどういうことなのか彼女自身も分かってはいない。

何しろ彼女自身には記憶が無いのだ。

記憶は全て人から借りたものなのだ。


私はかつて世界の果てで出会った存在を思い出す。

暴力的な経験に何か月か悩まされた。


怒涛のように一瞬にして世界中の出来事が私を通り抜ける。

大波に無理やり立たされている感覚は苦しかった。


あのような経験を彼女もしているのかもしれない。

あの歳で。

記憶が保てなくても仕方あるまい。


私は先ほどまで彼女が触れていた結晶を見た。


彼女のおかげで出所は分かった。

だが、光と闇と音は何であろうか。

そして彼女は言った。

それは全てのものが持っていると。


私は考える。


原始の宇宙で作られたものと言われた結晶は、

153年前にどこかの実験室で孫の誕生プレゼントとして作られたものだった。

何かしら物質を固めたものだ。

その最中に彼女が感じたものが偶然にも凝縮して、

彼女には濃厚に感じられたのだろう。


原始の宇宙でと言うのは真実ではなかったが、

この中にたまたまそれを感じさせるものが生まれていたのだ。


また彼女は光と闇と音は全てのものが持っていると言った。


この宇宙にあるもの全てが持っている記憶とは。


恐ろしく遠い彼方のそれは

宇宙の始まりなのではないか、と私は思った。

この宇宙の全てが共通して経験した事はそれしかない。


そして

『何度も繰り返し、すべては消えてまた生まれる。』

と言う彼女の言葉。


いずれはこの宇宙も滅び、再生すると言う事なのだろう。

それを宇宙は何度も繰り返しているのだ。

宇宙は永遠ではないのだ


だが全てが推測だ。


宇宙にいずれは果てが来る事は何となく感じてはいた。

だがそれは遠く遙か彼方で、

自分はその頃には存在していない事は分かっている。


だが宇宙がいずれ滅びるのなら、

現在私が探し求めているものも全て消えてしまうのだ。


何もかも無くなってしまうのなら、私の今に何の意味があるのだろうか。


急に自分の足元が無くなった気がした。


私は今まで何も考えず自分がやりたい事ばかり見ていた。


だが今、私は私の中の情熱に疑問を感じてしまった。

自分が持つ不思議を知る能力すら無駄なものではないかと感じる。


なぜ私の家系にはこのような不思議を知る力を持つ者が生まれるのだろう。

それが無ければこの不気味な思いもせずに済んだのに。


この疑問は自分自身で私の首を絞めそうな、

嫌な予感が心に広がった。


永遠と言うものが存在しない事に

私は気が付いてしまったのだ。






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