碧、蒼、青

時雨 柚

1

 視界いっぱいに大きく映る水槽を、私はアクアマリンのよう、と形容した。隣に立っていた由紀は、そんな綺麗なものじゃないと思うけどな、と呟いた。

 住んでいるアパートから車を二時間ほど走らせたところにある水族館。館内展示は数年前に一度訪れたときからあまり変わっていない。休日でも人で溢れかえっているというほどではなく、かといってガラガラというわけでもないくらいの人気も、当時と同じ。

 水槽の前で目を輝かせているのはやはり子どもが多く、館内には家族連れが目立つ。ざっと見回した限り、一人なのは私しかいない。あまりそういうのを気にする人でもないけれど、ふと水族館に行こうと思ったときに由紀を誘うかどうか一瞬だけ迷ってしまったせいで、どこか物足りなさを覚えている。らしくない。

 由紀とは長らく会っていない。毎日のように顔を合わせていた頃を懐かしく思うたびに、自分も年を食ったなと呆れてしまう。お互いに忙しくなってしまった。明日や明後日に会う約束を取り付けようとしても、きっと予定は噛み合わないだろう。

 私は小説を書いていた。由紀も同じだった。私も由紀も同じ趣味を持つ人に出会うのは初めてで、互いの小説を読み読まれしているうちに、学生生活に悪影響が出るほど執筆活動にのめり込んでいた。高校でも大学でも、いくつもぎりぎりの単位があった。

 取材のために二人でいろいろな場所へ行った。この水族館もその一つ。大学を卒業する数ヶ月前のことだった。趣味を仕事に昇華させたくて、二人してもがいていた時期だった。

「アクアマリンのような大水槽に目を奪われた。宝石の中を青魚の群れが横切っていく。それをより大きな影がゆったりと追う。まるで海の底に立っているかのようだった」

 ストーリーの大筋さえ忘れてしまったけれど、水族館のシーンだけやけに鮮明に覚えている。二人の主要人物が大水槽の前で足を止めるところに力を入れて描写したシーン。小説の中の二人と、かつての私と由紀の二人組が頭の中でリンクした。

「そんな綺麗なものじゃないと思うけどな」

 隣に立つ由紀が言った。否定されているようには感じなかった。こちらに話しかけているはずなのにまるで自身と対話しているようで、疎外感から「どうして?」という言葉が出てこなかった。問いかけなくても、由紀はそのまま続きを語り出した。

「ここの魚たちにとっては、水槽は檻みたいなものなんじゃないかな。水は空気と同じで、澱んでいるよりは澄んでいる方がいいだろうけど、きらきらしすぎててもちょっと眩しい。魚たちはそんなこと、考えてもないかもしれないけどね」

 この水族館で一番大きな水槽だけれど、派手さのない魚ばかりが泳いでいる大水槽の前には人だかりはできていない。むしろ遠くから眺めている人の方が多かった。私はそんな大水槽の前に、記憶の中で由紀が立っている場所に立った。

 今ならなんとなく、由紀の言っていたことがわかる。青魚の群れがあの時とあまり変わらないように見えるルートを通っている。ここが海ならもっと自由に泳げただろうに、大きな魚の近くで窮屈に群れを成して泳いでいる。

 由紀を誘わないで良かった。由紀の隣でこんなことを感じたくなかった。当時の由紀の目に映っていたものを、今の由紀と一緒に眺めたくはなかった。

 就職してからしばらく経った私の元に、最後に出した公募の二次選考で落選した旨の通知が届いた。さほど悔しいとも思わなかった。その後書店で由紀のペンネームを見かけて、そういえば由紀は何か重大なことがあっても連絡をよこさない人だったな、と思いながらその本を手に取った。ほとんどなくなっていた創作意欲は、そこで完全に消えた。

 今や由紀は生活のほとんどを執筆や取材に充てているらしい。メールが一日や二日では返ってこないこともザラにある。何ヶ月か前に久々に声を聞いたけれど、相変わらず抑揚のない口調で、しかし楽しそうな雰囲気が声色から漂っていた。羨ましいな、とほんの少しだけ思って、すぐにその思いを揉み消した。

 私は大水槽の前を離れて、まっすぐに出口へと向かった。車の鍵を取り出すためにカバンを探ると、アイデアをまとめるために使っていた手帳に指が触れた。私はなんでまだこんなものを持っているんだろう、と訝しみながら鍵を引っ張り出して、この手帳は次のごみの日にでも捨ててしまおうと、頭の片隅に予定を書き付けた。

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碧、蒼、青 時雨 柚 @Shigu_Yuzu

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