ある小説家志望と焼肉

コーチャー

ある小説家志望と焼肉

 牛タンは、じゅうじゅうと焼ける。

 丸い金網の下では炭がパチパチと音を立てている。


 網の上においた時は朱色だった牛タンが、香ばしい匂いとともにその色を変えていく。そこへ鮮やかな緑色をした刻みネギが振りかけられる。途端に、箸の素早い男が牛タンを挟む。彼は一度、肉を小皿に置くと片手でぎゅっとレモンを絞った。一瞬にして柑橘類かんきつるい特有の爽やかな香りが広がる。彼はそれを満足そうに確認すると、牛タンを旨そうに口の中に放り込んだ。


 白く丈夫な歯で咀嚼そしゃくしたのち、彼は一気に生ビールを煽ると、

「たまらんな」

 と、緩みきった表情で述べた。


そんな男をかっした眼で見ているもう一人の男がいる。手にはトングを構え、先程から甲斐甲斐しく肉の世話をしているのが彼である。絶妙なタイミングでネギを振りかけたのも彼の行いであった。


「それは僕の肉だ。阿部。お前は自分で肉の世話をするべきだとは思わないのか?」


 渇した目の男の名は森久保と言う。彼は眼前で満たされた顔をする友人に非難の声をあげたのち、ようやく牛タンを挟んだ。そして、彼も阿部と同じようにレモンを絞ると一気に牛タンを口に入れた。香ばしい匂いとしっかりとした肉の食感が口腔こうくうを満たす。


「男子厨房に入らず、と言うではないか。男子まして二十の男である俺が、料理をするわけにはいかないだろう」

「それは孟子の『君子は庖厨ほうちゅうを遠ざく』からの変型だ。本来は君子のような徳の高い人間が、厨房のように鳥や牛、羊と言った生き物を調理するところに近づくものではない、と諭したものだ。だが、阿部は君子ではないだろ。自分の分は自分で焼け」

「いやいや、俺はまだ君子ではないが、お前よりは徳は高いぞ」


 網のうえからもう一枚の牛タンを攫いながらいう阿部に森久保は冷ややかな視線を送った。森久保は、君子というよりは偸盗ちゅうとうの主ではないか、と言おうかとしたが今日の支払いが阿部の懐から出ることを思い出して口を閉じた。


 学園祭まであと三週間を切った十月中旬。森久保は予期もしない窮地に陥っていた。それは食糧不足である。彼の所属する文芸サークル『あすなろ』では学園祭で文芸集を販売するのが恒例になっている。文芸集は季刊誌と違って学園祭を訪れる一回きりのお客さんに販売するものである。そのため、目に留まるような凝った内容のものになるのである。彼はこれを書き上げるために九月中旬から筆を起こし始めたのだが、執筆は遅々として進まず。


 書けないからバイト時間を減らす。バイトを減らすから金がなくなる。金がなくなるからろくに飯が食えなくなる。食えなくなるから頭が動かず、書けない。という負のスパイラルに落ちていったのである。そして、ついに今日になって唯一の食料であった米が尽きた。


 窮乏に至って彼は高校から腐れ縁である阿部に助けを求めた。


「阿部、何か食うものはないか?」


 友人が飢えていることを知った阿部は「ならば、肉だ。どんなときでも肉さえあればなんとかなる」、と言って大学から徒歩五分の場所にある焼肉『肉自慢』に彼を連れ出したのである。焼肉『肉自慢』は彼らが通う大学生なら卒業までに十回は訪れる、と言われる良心的な価格によって人気を博している。


なかでも二千二百円食べ放題飲み放題コースは、


「本当に牛肉があるのか?」

「どこかとんでもない国の牛肉なのではないか?」


 などという疑問を孕んだまま「肉で腹が満たされれば良い」と考える学生で満席である。


「では、百歩譲ってお前の徳が高いとしよう。だが、将来の旦那が家事を一切手伝ってくれない、と泉さんが知ったらどう思うだろうか。ああ、なんて時代錯誤な男性! もう、阿部君とは付き合ってられないわ。なんてことになるかもしれない」 


 森久保の言う泉さんとは、阿部の恋人である。彼女は大学がある神辺市に古くから続く名家のご息女である。阿部がこのご息女と付き合うことができたのは、天の奇跡『七夕マジック』として有名である。そのため、彼は非常に彼女を大切にしている。


「それはマズイ。今からでも料理学校に通うべきか?」


 彼女のことになると妙に真面目になる阿部を尻目に、森久保はさらなる肉を網の上に広げる。牛タンの次はハラミである。


 本来ならば、ここでカルビと行きたいところだが『肉自慢』ではカルビは味付きしか存在しない。味付きカルビは特製ダレにカルビを漬け込んだものであり、どうしても味が濃くなる。焼肉のセオリーである、味の薄いものから濃いものという順番を考えると牛タンのあとに味付きカルビは少し味が濃い。そのため味付きカルビを少し後半に回し、次は準赤身というべきハラミがくるのである。


「そうだな。通うべきだろう。男寡おとこやもめに蛆がわく、と言うくらいだ。手料理一つも作れないとなれば、泉さんとの交際継続は絶望的だ。善は急げ、いまからでも遅くはない。アウトドアで作るのとは違う凝った料理を作れるようにならねばならない。」

「なるほど。だが、それは一体どんな料理だ?」

「そうだな……」


 森久保はカルビを反しながら、考え込むと「ローストビーフだな」、と言った。


「ローストビーフだと、そんなもの家庭で作るのか? 実家でも出てきたことはないぞ」

「阿部、ローストビーフはすべての料理の基本だ。料理を極めた主婦がローストビーフを今更つくるわけがないだろ。付け合せの野菜で様々な切り方を学び。ソース作りでさしすせそを学ぶ。そして、ビーフによって焼き加減を学ぶのだ。そして、ビーフを焼くための基礎中の基礎が焼肉だ。さぁ、肉を焼くのだ」

「そうだったのか……。知らなかった。まさかローストビーフが基本とは」

「では、阿部。網の上半分が阿部の陣地。下半分が僕の陣地だ。相手の陣地の肉は食べないで自分で焼き食べる。それでいいな」


 森久保はトングで網を半分に切り裂くように空を切った。そして、森久保はすでに置かれていた肉は網の上下に均等に分けた。森久保はここで初めて生ビールに口をつけた。黄金色の泡が口の中を広がり、喉の奥へと消えていく。


「しかし、前から謎なのだがハラミとはどこの部位だ?」


 阿部は、じわじわと焼けていくハラミを指差して尋ねる。


「ハラミは横隔膜おうかくまくだ。中学の生物で習ったり、肺で呼吸するときに下に引っ張られるとかっていう内臓だ。内臓と言ってもほぼ筋肉だから赤身と言っていい。カレーに入れるなら僕はハラミがいいと思う」

「これが横隔膜か。何とも言えない味わいがあるな。完全な赤身と違って適度に歯ごたえもあり、適度に旨味もある」


 阿部は彼の陣地から次々にハラミを捕らえると次々に口の中に放り込んでいった。肉に次ぐ肉。口の中が渇いてきたらビールを注ぎ込む。そして時々の白ご飯。タレと肉汁が混ざり合い、白飯がいくらでも食べられそうな気分になる。しかし、ここでガツガツご飯を食べてはいけない。なんといっても焼肉のメインは肉なのである。


「そういえば、阿部の方は大体準備は終わったのか?」

「ああ、うちはもう編集だけだ。俺みたいな力仕事屋は今月のうちにお役御免だ。今頃は技術屋がぶつくさ言いながら夜なべで編集をしているだろうさ」


 中高と野球部であった彼が、映画製作サークル『眼の壁』に入った理由を森久保は知らない。だが、いままでの自分と全く違う世界へ進んだことに関しては、驚きとともに関心の気持ちを抱いている。森久保にとって小説を書く事はずっと昔からやってきたことであり、新しい変化ではない。自分は変化を好まない。それは安定的とも言える反面、自身の臆病さを表している、と彼は考えている。


 ふと、網に目を移すとハラミの量が妙に減っている。丸い網の四分の三の肉が消えている。二分の一でなければならないというのに。


「阿部、陣地以外の肉を食べるな。それは僕のものだ」

「いやいや、森久保。俺は俺の領地の肉しか食べていない。それにもし俺の箸がお前の陣地に入ればいくら考え事をしていたとしても気づくのではないか?」


 確かに、脳の活動のほとんどを思索に振り向けていたとしても、目の前が見えないわけではない。阿部の手と箸が陣地を越えた場所に伸びていたら気づいただろう。では、一体どうして肉が減ったのか? 


 空腹のあまり、夢遊病者のように無意識に食べてしまったのか。それではヨハンナ・シュピリのアルプスの少女ハイジではないか、と森久保は思いながら自らの取り皿とタレを確認する。取り皿には先ほどの牛タンを食べた跡しかない。ハラミを置いた形跡もタレに肉をくぐらせた様子もない。綺麗なものである。ハラミはタレをつけてこそ美味しいものである。いくら無意識といえどもタレもつけずに食べることはない。


「確かに陣地は越えなかった。だが、僕の肉を食べたのは阿部。お前しかありえない」

「ちょっと待て、森久保。どうやればお前の陣地に入らずに肉を取れるというのか? お前自身、俺が手を伸ばして侵犯していれば気づいたはずだ」


 阿部は手を伸ばして彼の陣地へ手を差し入れる。明らかに手が森久保の前を通り過ぎている。これではいくら考え込んでいたとしても気づかないわけがなかった。


「確かに、そうやって領空を侵犯していれば気づいただろう。だが、お前は審判することもなく僕から肉を掠め取ったのだ」

「一体どうやって?」

「それはこうするのだ!」


 森久保は箸を使って網を百八十度回転させる。すると森久保の陣地は阿部の陣地に変わり、阿部の陣地は森久保のものへ変わった。森久保の前にあった残り四分の一のハラミは阿部の目の前に移動したのだ。


「お前は肉を取るふりをしてこっそりと網を九十度回転させたのだ。そして、肉の半分を手中、いや。口中に収めたのだ!」


 森久保が名探偵のごとく人差し指で阿部を指さすと、彼はがっくりと肩を落とし言った。

「そうだ。俺がやったのだ。どうにもハラミが美味くて、美味くて……。森久保、こんなことをして言うのもなんだが、俺もまたハラミに翻弄させられた被害者の一人なんだ。すまない」

「阿部……。そんな顔をしても許さん。とりあえずは……」


 ふてくされた表情で森久保は阿部を睨みつけると言った。


「ハラミをもう二人前頼むのだ。どうせ、食べ放題なのだろう」

「それもそうだな。食い放題だもんな」


 卓上のベルを鳴らすと黒い前掛けをつけたアルバイトがやって来る。


「あ、ハラミ二人前」

「あと、生ビールも二つ」


 よろこんで! と言う威勢のいい掛け声が店内に響く。彼らはまだ知らない。世の中にはもっと美味しい焼肉があることを。噛む必要さえないくらい柔らかい肉があり、それがひと皿で食べ放題の焼肉一回分に相当する金額であることを。


 のちに彼らは叫ぶ。


「俺たちが食べてきた焼肉とはなんだったのか!」


 だが、それはまだ先の話であり。彼らが社会という荒波に漕ぎ出したあとの話である。いまはまだ、大学という最後の箱庭で、彼らだけの日々を過ごすのである。まだ、時間はあるのだから。

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