23

「ヒャウッ!」

 内蔵がひっくり返りそうな感覚だった。突然体が浮かび上がった。シートベルトを締めていなかったら天井にしこたま頭をぶつけるところだった。

「すごい揺れますね、ケイコさん。わたし、びっくりしちゃいました」

「ううん、今のは、揺れじゃない。高度が、100フィート分落ちたの」

 ざっくり計算して約30メートル落下したということか。しかし周囲は朝日に照らされた低い雲と、眼下には山脈が続いている。

 戦後数十年も経ったせいかどこもかしこも森に覆われ、古い町並みもその中に飲み込まれていた。

 ケイコは高度計と燃料計を交互に見比べて、

「デトマールさんの言った通り、スペック通りには飛べてない。もうあまり長く飛べないかもしれない」

 いつも冷静なケイコが、瞬きもせず遠くを凝視している。これは本当にまずい状況だ。

「速度の計算が正しければ、もうすぐ、ええとこの漢字は……きん?」

「カナザワ。半島の付け根にある大きな街。まあ、子供のときはあまり行ったことがなかったけど。奇械マシンがいるから」

 方位磁針と定規を地図に当てて位置をざっくりと割り出した。

「20°左に回ってください。そうしたら海が見えてくるはずです」

「そうしたいのだけれど、エンジンの出力が上がらないの。ガス欠か、故障か。だんだん高度が下がっている」

 それじゃ墜落してしまう。いやでもまだ何かできるはずだ。だいぶ見慣れてきた計器の数字を頭に入れて暗算をする。

「今の速度が70ノットで、うーんと毎秒10フィートずつ降下してるから……」膝の上の地図を指でなぞる。「ここに大きい空港があります。ここに着陸しましょう。しょう、まつ。なんて読むんだろう」

 今はそんなことどうでもいい。

 ケイコはラダーペダルを左に踏み込んで進路を北へ向けた。高度が下がり次第に地表の細かい凹凸が見えてきた。

「あったわ! 飛行場。このまま降下する。チャンスは一度だけ」

 この街も廃墟だったが飛行場だけは、まるで箒でゴミを払った後みたいにぽっかりと平らな地面が広がっていた。

 ケイコの細い指がレバーに置かれた。

「75ノット。ちょっと速すぎる。これが、フラップ?」

「ケイコ、さん?」

「心配しないで。操縦マニュアルは10回も読み返したしデトマールさんに翻訳もしてもらったから」

「じゃあ、わたしは何をしたら?」

「そうね。耐ショック姿勢」

 教練で習ったことがある。砲弾が近くに落ちた時、いの一番に地面に伏せるか穴に飛び込んで、

「口を開けておくんですっけ」

「頭を下げて背中を丸めるの。着地の瞬間は私が言うから踏ん張って。この飛行機、車輪が付いていないの。かなり揺れると思う」

「わかりました」

 手先がじんじんするくらい怖い。でもケイコさんならうまくやってのけるはず。

 風のせいだろうか。機体が小刻みに左右に揺れる。もうエンジンの音が聞こえない。

「100フィート、80、60フィート!」

 もうすぐだ。

「着地する!」

 足元からがりがりとけたたましい擦過音が響いた。



「────カ。アイ────、────して」

 誰かが遠くで叫んでる。緩慢な思考が次第に回転を始めた。

 真っ暗だった視界に光が差し込んできた。目の前にあるのは割れたガラスとヒビの入ったアスファルトの地面。ヒビの隙間から雑草が力強く顔を出している。

「アイカ! 大丈夫?」

 ケイコさんの声だ。もうすでに機体の外にいる。ドアを開けて頬に手を当ててくれた。

「はい。大丈夫です。怪我もしてないみたいです、たぶん」

 状況が状況だ。アドレナリンのせいで痛みを感じていないはず。

「シートベルトが締まって息が止まったのよ。ほら早く出て」

 足に力が入らないがふらつく上体をなんとか支えた。

「でもケイコさん、燃料がないなら火災も起きないはずです」

「ううん、そっちじゃない。誰かが近づいてきてる。しかも大勢で」

 敵、とも思ったがケイコさんは奇械マシンとは言わなかった。

 デトマールさんにもらったダッフルバックを機体の後席から引っ張り出すと、

「とりあえず森の中に逃げるわよ」

 2人が立っているのは滑走路の端の方だった。背の低い若い木の林が鬱蒼うっそうと茂っている。

 突然、その林の中から2台のピックアップトラックが飛び出してきた。真っ黒な排気ガスを軌跡のように残して2人の進路を塞ぐようにして止まった。

 よかった、奇械マシンじゃなかった。このあたりの棄民───日本人だろうか。

 しかしアイカは緊張した面持ちのままだった。バッグに手を伸ばそうとして固まっている。

「アイカ、動かないで。やつら銃を持っている」

 でもわたしたちだって銃を持っているし、銃は奇械マシンと戦うためのものじゃ?

 ピックアップトラックから男ばかりが8人、降りてきた。いずれも屈強で強面こわもてだった。まるで威嚇し続けなければ誰かに食われてしまうといった野犬のようだ。

しかし彼らは奇械マシンとの戦いで必須な赤外線遮断機能がいっさい無いばらばらな服装で、それぞれの手にライフルや拳銃が握られていた。

 そのうちの1人が前へ出てきた。他の男達と同じくくたびれた服装に戦前の自動拳銃を右手に持っている。が、短く刈り上げられた髪の真ん中だけがピンク色だった。

「ほう、珍しい珍しい空飛ぶ乗り物が落ちてきたかと思ったら、中から出てきたのはかわいいお嬢ちゃん、2人か」

 この状況でかわいと言われても嬉しくない。敵意は感じないが、男たちの下品な笑みは本能が危険を知らせていた。

「ちょっと、あなたたちは自己紹介もないのね。組、でよかったわよね。組の名称とリーダーの名前は?」

「おーっ、おっかねーお嬢さんだ。おい、ノリユキ、お前、こういうのがタイプだったよな?」

 一体何の話をしているんだ? 取り巻いて見ている男たちがゲラゲラと笑った。

 ピンク髪の男が、地面に座り込んでいるアイカに視線を合わせた。

「俺ぁ、こっちのほうが好みだなあ。よし決めた」

 何を決めたと言うんだ。ピンク髪の男がニタニタ笑いながら手を伸ばした、

 しかしカエルを踏み潰したような音とともに、ピンク髪が視界から一瞬で消えた。

 ケイコが華麗な回し蹴りを決め、下卑げびたピンク髪の男は数メートル吹っ飛んでもだえている。

 それまでげらげらと笑っていた男たちは一斉に銃を構えた。それよりも早くケイコもダッフルバッグからグーテンベルグ・ベゾンダレーを構えた。

 まだ弾倉が入っていないはずだが、ケースレス弾仕様ライフルの一見すると真四角の楽器ケースのような武器は彼らにとっては十分警戒する武器だった。

 奇械マシンとの戦いの前にまさか人間と戦うことになるなんて。

「アイカ、私が合図したら、飛行機の反対側から走って逃げて。古い空港施設があるから、そこに逃げこめば追ってはかからないはず」

「でもケイコさんは」

「そうね。覚悟はできていたけれど。でもあなたが生き残これるなら私はなんだってやるわよ」

「嫌ですそういうの。もう誰にも死んでほしくないんです」

「ほんと、こういうときは融通がきかないのね」

「わたしの夢はみんなを助けることですから」

 でもどちらかが、この人達の足止めをしなきゃいけないのはわかっている。

 この先、奇械マシンを止める操作ができるのはわたしだけ。

 わかっているけど。認めたくない。

 キキィーと不快な擦過音とともにまた1台、ピックアップトラックが増えた。そして荷台に他のヤンキー男たちよりもさらに体格が一回り大きい男が乗っていた。

 その男は荷台から飛び降りるとつかつかとアイカとケイコのそばへ来た。傷だらけの横顔に不敵な笑みを浮かべている。

「ほほん、いいキックだ。空手か?」

 強面の割に若い声だった。

「私流の格闘術」

「そいつはいいや! そんなキックができるのは、うちの組じゃ俺とペレスぐらいなものだ。いい女だ・・・・、お前は」

 ケイコは銃を構えているのに、新手あらての大男は全く動じていない。弾が入っていないことを知っている?

「で、どうしてまた無様な恰好なんだ、おめぇはよ」

 大男がピンク髪に向き直る。側頭部にケイコの銃口が突きつけられたままだ。

「あ、いえ、おかしら、別になんともねぇですから」

「ずべこべ言ってねぇで喋りやがれ! でないと俺からも一発、おみまいするぞ」

 大男が拳を握りしめた。人の太ももくらいある上腕が隆起する。

「いやあの、ちょっと、まあ、冗談ですよ。ハハハ。きれいなお嬢さんがいたのでみんなで遊───ブフゥワッ!」

 ほんの瞬きした間に、大男がピンク髪に肉薄すると鋭い左ストレートが顔面に命中した。

 何が起きているの?

「てめーらの考えがわからねぇとでも思ったか! おめーの班は普段からコソコソしてたがもう我慢ならねぇ。1ヶ月下水管掃除だ。わかったな!」

 敵同士で罵り合っている。いやたぶんこの男はリーダー格だ。

「喋ったのに殴った」

 思わず言葉が口からこぼれ出た。アイカはっとして口をつぐんだが、大男がニヤリと睥睨へいげいした。

「アーハッハ、だが喋ったら殴らないとは言ってないぜ。ちなみにうちの組でゴーカンザイの罰は、ああ、なんつーか、さっさとくたばったほうがマシだ、と思えるようなアレコレをするわけだから、俺の鉄拳制裁なんざヌルいヌルい」

 屁理屈へりくつじゃないか。

「おじさんは、いい人なんですか?」

「おじっ、ああ、そんな歳に見えるのか。まあいいや。で、お前らもいつまで銃を構えてるんだ。こいつらは敵じゃない。味方でもないが少なくとも人間だ。何か訳ありなんだろう」

 男たちが渋々銃を下げた。安全装置を指で触るのも見えた。これで一安心だ。

 ずっと押し黙ったままのケイコも銃口を下げて、

「あんた、もしかして弾が入ってないのを知ってた?」

「ん? そうなのか。みょうちくりんなライフルだと思っていたが、ああ、そうなのか」

 まるで意に介さず。

 突然、大男の巨体が風に舞う葉のようにしなやかに動いた。ライフルの銃身をいなし、銃身を掴んで引っ張ると、体勢が崩れたケイコの右手首をがっしりと掴んだ。

「ちなみに、だ。近距離でライフルを向ける場合は、間合いを広くとっておくべきだ。肉薄されるとあっという間に形成が逆転してしまう。お嬢さんは、あー見たところ唯一都市ザ・シティの兵士か? 奇械マシンをぶっ壊すのは得意でも対人戦は苦手みたいだな」

 大男は“降参”のポーズでケイコから離れた。油断ならない男だ。

「楽しい楽しいおしゃべりはこのくらいにしておこう」大男は仲間たちにハンドサインで素早く指示を出した。「俺たちでも飛行機が飛んでいるのが見えたんだ。数は少ないが奇械マシンどもがすぐにやってくる。それに他の組もだ。連中は俺達ほど寛容じゃない。ここを離れよう」

 自称・寛容な男たちは蜘蛛の子を散らすように各々のピックアップトラックに乗り込んだ。大男がこちらに向けて手招きしている。

「ケイコさん、どうしましょう」

「悪い奴らじゃないけれど。アイカ、銃に弾を込めておいて。油断しないように」

「はい、わかりました」

 これが外の世界で生き抜いてきた人々なんだ。仲間で結束し外の人間には強く当たる。合理的に言えば当然だ。ケイコさんが言っていた通り唯一都市ザ・シティの外の暮らしは厳しい。

 あの大男はグループの頭領とうりょうなのだろうか。少し変わった人だがおかげで話が通じそうだ。

 ピックアップトラックは荷台のやや狭い5人乗りで、助手席にあの大男が座り、後席にアイカとケイコが乗り込んだ。

 かなり年季の入った車両だった。座席はヘタれてスプリングが尻に当たるしシートベルトは根本からちぎれて壊れていた。何よりも、エンジンの振動と舞い上がる黒煙は、今にも車体が分解してしまいそうだった。

「ところで、俺はトシイエだ。加賀組の総長をやらせてもらってる。よろしくな」突然のぶっきらぼうな挨拶だった。半分割れたバックミラーでアイカとケイコを見た。「お互い、文明人らしく自己紹介といこうや」

「私はケイコ、こっちがアイカ。私は坂井の村の出身だ」

「ああ、坂井。だがとっくの昔に誰もいなくなったはずだ」

「ええ。8歳の冬に食べ物が尽きて。だから家族と親戚で唯一都市ザ・シティへ移ったの」

「冬にねぇ。ああ、9年前のあの冬か。あのときはうちの組も一番厳しいときだった」

唯一都市ザ・シティに行ってからはずっと兵士をやってる」

「なんでまた、安全な街に行けたのに危険なことやってんだ?」

「働かなきゃ食べていけないからよ」

「ハァーハッハ、どこも同じななぁ、人間ってのは」

 よく笑う男だ。言葉より力を尊ぶかと思ったが、人心掌握術というやつか。スラムのマフィアたちもそれで仲間を増やしている。

「トシイエさんは唯一都市ザ・シティのことを知ってるんですね。私たちのことを軍属だってすぐ分かったし」

 アイカはがたがた揺れる車内で酔わないために言葉を投げかけてみた。

「そりゃあたりまえだろう。というかお前たちが俺たちを知らないのか? 年に数回、唯一都市ザ・シティの商人がここいらの組に会いに来るんだ。武器や医薬品と引き換えにこちらは干し魚とか宝石の原石なんかを交換する。だから唯一都市ザ・シティの内情は少しずつだが聞いている。意外だったか?」

「はい。その、唯一都市ザ・シティの外にはほとんど人が住んでいないと思ってたので」

「大人たちはそう教えるのか」

「うーん、あまり意識しないというか」

 唯一都市ザ・シティの他に人はいないし、街も国もない。だからこその唯一都市ザ・シティなんだ。それが常識だった。そして奇械マシンの危険がある。

 でも実際は、まだ日本人が住んでいるし、奇械マシンだって唯一都市ザ・シティから離れたらそこまで危険じゃない。デトマールさんの言う通り、唯一都市ザ・シティを支配する統制局や財閥が権力を握るためにそう信じさせられていたのか。

「あーところで」

 トシイエが口を開いた。ピックアップトラックはすでに山中の古びたでこぼこ道を進んでいる。

「そろそろ銃から手をどけてくれねぇかな。さすがに後席でそれだと俺も居心地が悪りぃ。ほら暴発、とかあんだろ」

 しかしケイコの返事はなく、喉の奥で唸るだけだった。

「もしかしてお嬢……ケイコは加賀組っていうんで警戒してんのか」

「……人を食った」

 えっ! ケイコさんの言葉を聞き間違えたかと思った。トシイエの顔色を伺ってみたがやや気まずそうだった。

「そりゃ、一部の話だ。一部のしかも冬の時期だ」

「だからうちの一家は村を出て、加賀組ではなく唯一都市ザ・シティに向かったの」

 そういうことだったのか。ケイコさんの家族が危険を犯した理由がわかった。

「あーっと、どう言えば信じてもらえるか。そうだ、これだ」

 トシイエはおもむろに服をたくし上げた。すると脇腹の生々しい傷跡があらわになった。浅く日に焼けた肌に白いケロイド状の傷跡と糸で縫合された跡も残っている。

「うわぁ、痛そう」

「あははは。これは先代の頭領をっころしたとき刺し違えたときのだ。脾臓ひぞうだか膵臓すいぞうだったか医者が言うには半分機能してないんだと」

「どうしてそんな」

 さすがにケイコも眉をしかめた。

「どうしてって、そりゃ先代の頭領がクソ野郎ってだけだろう。ヤツはたしかに強かったが、強いものは弱いものをどー扱ってもいい。そういう雰囲気だった。奴隷みたいにな。暮らしはヒデェし統率が取れねぇから人だって食っちまう。だから俺はヤツをっころした。んでぜーんぶ変えた。強いものは弱いものを守る。んで、弱いものは自分のできることをする。掃除や洗濯だってそうだし、合成燃料をかき混ぜたり壁に絵を描いたり、なにかしら小さくても役に立つ仕事をさせてる。それでまあ、だいぶ生活はマシになったか」

「意外といいやつなのね、あんた」

「あちゃーいまさら気づいたのか。俺の魅力もまだまだだな」

 トシイエはけらけらと笑いながらぺしぺしと額を叩いた。その額にも完治した向かい傷が見て取れた。頼れるリーダー、ということか。唯一都市ザ・シティにこういうリーダーはいなかった。形だけの選挙で町長が選ばれていたが住民からの要望が叶えられることはほとんどなかった。どれだけ働いても戦ってもその利益は統制局と財閥に吸い上げられてしまう。その構図はやはり間違っていた。

「ところで、ねーねーアイカちゃんっていうんだっけ。オレはケンジ、よろしく。トシイエさんの舎弟しゃていっす。ところでアイカちゃんはカレシとかいる?」

 運転席に収まっていた、同い年くらいの少年が振り返って意気揚々と自己紹介した。あっけにとられていると、その頭をトシイエに叩かれた。

「こら、ケンジ。よけーなこと言ってないで、前向いて運転しろ! 左側は崖なんだぞ」

「さ、さーせん」

 アイカがどう返事をしたらいいか迷っていると、ケイコがぎらぎらとした目つきでケンジを睨んだ。

「ところでおふたりさん」トシイエがバックミラー越しに言った。「そろそろマジで銃から弾を抜いてくれねぇか。もうすぐ集落だ。子供やら年寄り連中が怖がるからよ」

 これには承諾せざるを得なかった。ダッフルバッグの中で弾倉を引き抜くと、コックを引っ張った。体にしみついた所作しょさで薬室を目視で確認する。

 ピックアップトラックは山道で一旦停止し、錆びた鉄製のゲートが開くのを待った。よく目を凝らすと林の中に偽装されたトーチカや監視塔があった。集落を守る兵士達はそれぞれの手に戦前の見たことのない銃をたずさえて、招かれざる客を待っている。

 ゲートの向こうは集落だった。戦前の家々が補修されながら立ち並び、その背後の山の斜面に切り開かれた畑があった。こちらにむけて手を振る人々や好奇心の強い子どもたちのきらきらした視線を感じた。

 ピックアップトラックの列は集落を抜け更に進んだ。

「うわっダムだ!」

 アイカは窓に顔を近づけていった。

「おう、戦前のダムだ。どーやら軍事転用も考えてるらしくて中は要塞になってる。それにダムのお陰でここいらの組じゃ唯一、電気が安定して使えるんだ。どーだ。すげーだろ」

 トシイエは水の流れ落ちるダムを自慢気に指さした。きっと彼はこの地を愛しているしそこに住む人達は彼を愛している。

 車を降りると、ダムの頂上の入り口から数フロア下まで階段で降りた。室内は薄暗かったが蛍光灯の白い明かりで照らされていた。鉄製のドアが付いた部屋が狭い廊下に並び、そのひとつに案内された。小さい明かりが質素な木製のテーブルと椅子を照らしている。あながち尋問室だった。

「ここでゆーくり話を聞くから、ちょいと待っててくれや」

 トシイエは入口のドアを開けたままどこかへ歩き去ってしまった。

「捕虜、というわけではなさそうね。武器も取り上げられなかったしドアも開けたまま。この部屋も血痕がないあたり、拷問室というより小さな会議室ね」

 ケイコが怖い言葉を並べながら冷静に分析した。

「トシイエさん、いい人そうですね」

「ええそうね。私の知ってる加賀組とは大きく違うみたい。組織化されているし秩序もある」

 開け放たれたドアの前を人がゆっくりと過ぎ去っていく。みな珍しい来訪者に興味があるようで、アイカとケイコをちらちらと視線の端で盗み見ている。

 そんな観衆にまぎれて腰が曲がり足を引きずっている老人が箒を持ち、ゆっくりと廊下を掃除していた。

 そういえば、古い施設のわりには小綺麗だった。道を塞ぐガラクタはないし、床や壁の穴は丁寧な補修が施されていた。

「自分のできることを、誰かのためにする、か。私は何ができるのかしらね」

「ケイコさんはすごい人ですよ。わたしを何度も助けてくれましたし」

「戦いは、ね。それだけよ、私のできることは。もし平和になったらと考えるとずいぶんと自分が空っぽに思えるわ」

「うーんと、じゃあ、勉強します?」

「うぇ、義体のリハビリ中に学校っぽいところは行ったけど読み書きだけで十分よ」

「でも弾道落下の計算はできるじゃないですか。あれも高度な数学なんですよ」

奇械マシンと至近距離で戦いたくないもの。勉強というより必要だから肌で覚えたの」

「じゃあコンピューターサイエンスなんでどうです! 未来を切り開くのに必要な学問です」

「未来か。ふふ、そうね。あなたと一緒なら、きっと楽しいわね」

 一緒、という言葉にどきりとした。落ち着いてきた拍動がちょっぴり速くなった気がした。この戦いが終わってもずっといっしょにいられる。それだけでも十分、戦いを終わらせる目標になる。

「うぃ、おまたせ」

 トシイエが帰ってきた。その隣の巨大すぎる人影に目を奪われた。黒人で服装から判断するに女性なのだが、天井に届きそうな身長とトシイエを更に上回る体格だった。しかしトシイエはさも自然とふたりの前にガラスのコップと水差しぴっちゃーをドカッと置いた。

 バシャバシャと水が注がれて2人の前に置かれた。

「へへへ、毒なんて入れてねぇ」

 トシイエは豪快に水差しからラッパ飲み・・・・・で喉を潤した。

 そう、もう信用していいんだ。

 アイカは一口だけ水を口に含んでみた。

「あっ、おいしい! すごい、すごいです。こんなにきれいな水を飲んだのはいつぶりだろう。お金は全部コンピューターに使ってたからなぁ」

「おいおい、ただの水だぞ。というか唯一都市ザ・シティできれいな水が手に入らないって話は本当まじだったみだいだな」

 トシイエはゴシゴシと袖で口元の水滴を拭った。終始、背後にいる巨大な黒人女性がぎらぎらと見ているので不用意には動けない。

「さて、俺から紹介しよう。こっちは俺の最愛の妻であり最高のいい女・・・、ペレスだ。ってなんだお前ら。目が点になってるぞ。もしかして黒人を見るのは初めてか」

「いえ、黒人は唯一都市ザ・シティの難民の中にもいましたので、何度か」

 ぎらり、としたペレスの眼光に捉えられた。身長は2m以上ある。奇械マシンよりも大きいんじゃないか

「ペレスはいいおんなダ。よろしく」

 抑揚のない日本語だった。

「あいにくペレスは日本語がわからん。が、俺は最高にいい女のペレスを愛してる。あい らぶ ゆー だぜ」

 そしてトシイエはペレスと熱い接吻を交わした。人の目も気にすることなく舌を絡めあっている。

 これが愛の形、か。見ていて面映ゆい上に体の芯が熱くなった。もしわたしに愛する人がいるなら、こうして熱い愛の形を交わすのだろうか。

「で、大きすぎるでしょ、ペレスさん。どうなってんのよ」

 ケイコはさも不快というように目を細めた。

 やっと口をペレスから離したトシイエがけらけらと笑った。

「10年ほど前だ。紀伊半島……ここからずっと南のところなんだが、そこへ遠征した時に外国の船が座礁しているのを見つけた。おおかた機雷にでもやられたんだろう。生存者を何人か救出したんだが、その時のひとりがペレスだ。医者いわく、遺伝子っつーもんがいじくられているらしくて、普通の人間以上に強えぇ。ただその分、内蔵に負担がかかるらしくペレス以外の連中はみんな死んじまった。だがペレスは生き残った。いい女だからな」

いい女・・・!」

 ペレスも呼応して吠えた。胸筋で更に盛り上がった胸がブルブルと震えた。戦士像のような鍛え上げられた肉体だった。

「ここは男ばかりのむさ苦しい基地だ。だから女もいたほうがお前らが話しやすいと思って連れてきたんだ」

 連れてきても話せないんじゃ意味ないだろう。それに威圧感はトシイエひとりのときよりも増している。さっき運転していたケンジのほうが100倍マシに思えた。

 しかし、やはり事情聴取だった。トシイエもたぶん、敵か味方か決めあぐねている。

 アイカはケイコと視線を交わした。彼らを味方につけるには言葉を選ばなくてはいけない。

「私たちは奇械マシンを止めるために日本の第二首都にある戦前の松本司令部へ行きたいの。だから協力してほしい」

 ケイコは冷静に、短く結論から述べた。

「ほう、そいつは、そうか」

 トシイエは目を閉じて上を向いた。

「興味、ないの?」

「ん、いや無くは無い。奇械マシンは俺たちにとっても脅威だからな。だが唯一の脅威ってわけでもない。もう半分の脅威は自然だ。わかるか? このあたりは冬が厳しいし薬だって十分にあるわけじゃない。風邪をひいただけでコロっと逝っちまう。第一、奇械マシンは俺たちを襲ってくることはない。連中が目指すのは唯一都市ザ・シティだ。一様に西を目指して進軍しているからな」

「協力は、しれくれない?」

「するさ。もちろん。多少の食料なら分けてやらんでもない。水は好きなだけ持っていけばいい。だが、あんたたち唯一都市ザ・シティの兵士だろ。どうしてまた急にそんな」

 妙に奥歯に物が挟まった言い方だった。こちらの知らない何かをトシイエは知っているせいか妙に話が噛み合わない。

「俺が商人に聞いた話だ」そうトシイエは切り出した。「商人、とは言うが中身は軍人かそういう身のこなしのやつらなんだが、唯一都市ザ・シティ奇械マシンの消耗を待っているんだろ? 俺もそう思ってたから、わざわざ飛行機でふたりがやってきたことに、まあ、少々驚いてる」

「消耗? 全然聞いたことがないわ」

奇械マシンの消耗に関しては俺たちの中でも合点がいっている。例えば、武器は奇械マシンどもを倒して奪うんだが、ここ数年は顕著に武器の精度が落ちている。銃身は曲がっているし機関部は100発も打てば撃針がイカれちまう。奇械マシンどもは壊れた仲間の部品を回収して東日本の地下の自動工廠こうしょうで部品を再利用し作っている、ってのが軍人だったの爺さま連中の話だ。だから、だ。わざわざ戦わなくてもあと10年もすれば、武器どころかクローンの素体すら作れなくなるだろうさ。そうすりゃあとは、秘密の自動工廠を探し出して壊せばいい」

 全く知らない事実だった。しかし統制局や軍部の戦略に合致していた。神戸方面の偵察と遠距離からの砲撃だけでこちらから打って出ることはない。それは軍備が足りないからではなく戦略のひとつだった。

「でもそういう訳にはいかないの。奇械マシンが核砲弾をどこからか持ち出してきた」

 ケイコはトシイエをまっすぐ見据えて言った。

「何、核? 大阪をふっとばしたっていうでっけぇ爆弾だろ」

「ええ。まあ、そこまで威力は大きくないでしょうけど」

「うーむ、だが爺さま連中の話じゃ日本に核はなかったはずなんだが」

「そんなこと知らないわ。だけど、私たちは奇械マシンが核砲弾と榴弾砲を運んでいるのを見たの。それに、奇械マシンの戦術が、陽動やら自爆ドローンやら変わってきているの」

 ピクリ、とトシイエの眉が動いた。

「その点は、たしかになぁ。ここ1年ほど南の街と連絡が取れていない。南の山を越えた先に愛知って街があるんだが、まだ戦前の工場が残っててそこと機械部品を取引をしていた。だがルート上に奇械マシンが居座っているせいで行き来できない。そのせいで、見ただろ。車はどれも壊れかけている。発電機も正直なところ予備の部品がない」

「もしかして、ルート上に排泄物を放置したんじゃないの?」

「はい……何だって?」

「うんち!」

「いや、そりゃ隠れてするものだろうが、モノは隠さなくてもいいだろう」

「はあ、やっぱり。ここ数ヶ月で、排泄物を目標に人間狩りをする奇械マシンの遊撃部隊が報告されているの。きっと北陸地域の日本人もいずれの標的になるわ。考えすぎかしら」

「いや、たしかに一理ある」

唯一都市ザ・シティの防衛線はもう、数少ない機甲部隊と瓦礫の街の砲撃陣地だけ。そんなもの核砲弾なら1発で消し飛んでしまう。そうなったら次はあなたたちの番よ。10年も持ちこたえられるかしら」

 ケイコは淡々と話し続けていたが、その横顔は震えていた。テーブルの下、トシイエから見えない膝の上でぐっと拳を握って堪えている。

「わぁーかった、分かった。ケイコのお嬢。言いたいことはよーぉく分かった。だが、松本の司令部は耐核爆発クラスの防爆ドアでロックダウンされている。こじ開けるとなると、超硬質ドリルと高性能爆薬が100kgほど必要になるが、持ってきたわけねぇよな、その荷物じゃ」

「何よそれ?」

 ケイコが口をとがらせた。

「爺さま連中の中には戦前からの兵士だったのがわんさかいて、松本の軍令部の警備兵だった爺さまもいた。奇械マシンが人間に反旗を翻したその日まで、軍令部の入口を守ってた───」

 反旗を翻した、ってその言い方だともともとは人間の兵器だったということになる。

「───なんだっけか、こーか防衛こーさー、あれ、こかーぼーえい。まあいいや。第4次大戦で世界中からの侵略を守ったのが奇械マシンだったってわけだ。ところがどっこい侵略軍がいなくなると反転して日本人を襲い始めたんだ。兵士民間人問わず、な。そりゃ首都の松本の大混乱だったらしく、爺さま連中はありったけの武器と生き残りをトラックに乗せて山の中に隠れたってわけだ」

奇械マシンの攻撃プログラムね。アイカが解析してくれた。攻撃対象は生きている人間だった。そのせいで大惨事が起きるなんて。唯一都市ザ・シティを襲っているのもそのせい」

「おそらく、な。確かに、松本司令部に行けば奇械マシンを止められるかもしれねぇ。だが爺さま連中だってもうとっくに試したさ。だが入り口の防爆ドアは電子ロックで閉ざされてだめだった。このダムにもいくつかあるんだが、無理に開けようとするとさらに扉が降りてくる。だから高性能爆薬がたんまり必要なんだ」

「あっ! はい! わたし、できます」

 アイカは反射的に立ち上がった。ぎらり、とペレスの視線に絡め取られたが臆することなく言葉を続けた。

「わたしなら、電子ロックを解除するプログラムを組むことができるかもしれません。ほら見てください。わたしのラップトップです。こうして奇械マシンのマイクロチップも解析してみせました。このダムと松本司令部の防爆ドアは同じ構造ですか?」

「同じ、ってことはないが同じ時期に作られたのは確かだな」

「だったらきっと大丈夫です! JIS規格の配線もあれば借りたいです」

「ああ、よくわからんが、6階の倉庫に戦前のガラクタや機械がしまってあるから後で案内してやるよ。ということは、本気でやれるのか?」

 するとケイコが無言でまっすぐうなずいた。

 やれる。わたしたちなら。

「だが、もうちょい待ってくれ」トシイエも乗り気だった。「人を集めなきゃならん。松本はまだ奇械マシンがうろついているんだ。2人だけじゃ力不足だろ。俺の一存でどーこーできるわけじゃない。皆に訊いてみないとわからない。少しだけ待っててくれ」

 話し合いは終了、とばかりにトシイエは膝を叩いた。

「私たちを信じてくれて、ありがとう」

「まあ、そうかしこまるなって、ケイコのお嬢。俺は常にいい女・・・の味方だからよ。ま、とりあえず今日は休んでくれ。この部屋をそのまま使ってくれていい。後で簡易ベットと食事をケンジに運ばせっからよ」

 肩で風を切りながらトシイエとペレスは部屋を後にした。来客に興味津々なダムの住人が覗き込んできたが、トシイエに蹴散らされ鉄のドアがばたんと閉まった。

 最初の懸案が解決して、つい頬がほころぶ。今更だが立ったままだったことに気がついた。

「ケイコさん、よかったですね」

「ええ。でもあなたのおかげよ」

 わたし? 何かしただろうか。でもケイコさんが笑ってくれてるならそれで良かった。

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