22
身障者用のトイレは学校の各階にあるわけではない。奇数の1階と3階だけ。
用を足して真っ暗な夜の学校の廊下を、車椅子を押して進んだ。
普段の喧騒と人混みが消えた夜の学校にいると不思議な気分になる。自分以外の全てが消えてしまっただとか、ちょっと悪いことをしているとか、ソワソワする。
文化祭実行委員の準備室にはまだ明かりが灯っていた。ふだんなら駄弁っているだけのうざい連中が見えるので目を伏せてしまうのだが、今日は誰の姿も見えない。それどころかそこにいる人影を自然と目で追っていた。
「もう8時よ。そろそろ終わりにしない?」
車椅子に座ったまま器用に引き戸を開けて、床にぺたんと座り込んでいるアイカに声をかけた。
「エヘヘッ、だいぶ進んだんですけど、今日はもう少し進めておきたいんです」
お互いに絵の才能も経験もあるわけもなく、慣れない作業をそれでも丁寧にこなしてきた。
いつだったか。
ふと思い出した。陰鬱とした世界が焼き払われたらいいのに、と願った。だがそれはアイカに出会う前のこと。その願いがボヤ騒ぎと言う形でかなってしまうなんて。
21世紀が半分も過ぎたこのご時世に神の存在を考えるのは馬鹿げているけれど、そんな大きい存在が私を見ているのなら知っているだけの罵詈雑言を天に向かって吐いてやる。
ケイコはなれた手つきで車椅子から降りると、床にぺたんと座って筆を取った。筆先をアクリル絵の具に浸して巨大な塗り絵を完成させる。
右隣にアイカが座っている。鼻先に絵の具が付いているのに気づかずにもくもくと塗り進めている。時折設計図と見比べ目をしばたたかせ、大きく背伸びをする。あれだけ長い乳だと肩も凝るのだろう。ちょっとうらやましい。
「あ、ケイコ先輩。そっちの赤色を取ってください」
「これね。はいどうぞ。作業が長引くと思って坂田先生には許可を取っておいたわ。宿直、だか当直だかで職員室で寝ているから、帰るときに声をかけてくれだって。あと帰りはタクシーでって念を押されたわ」
「タクシー代……payアプリの残高、大丈夫かなぁ」
「私がいつも使ってる介護タクシーの助手席に乗ればいいわよ」
「エヘヘッありがとうございます。安心して作業ができます」
意地でも完成させる気なのね、この子。
美術部は絵の下描きを無理を言って描いてもらった手前、色塗りまで手伝わせることはできないし、文化祭実行委員会の
文化祭のオープニングイベントなんて、ボヤ騒ぎが合ったのだから中止でもいいのだけれど、ドローンと凧を使った派手な演出はアイカがずっと期待していたことだから協力してあげたい。
筆先を青いアクリル塗料に浸して細々とした枠を塗る。これは校章の部分。
完成図を見る限り、今年の文化祭のテーマの「愛・緑」をモチーフにした図案だった。木の葉とバラと、この街のシンボルの姫路城もある。ごった煮のデザイン。
次は緑色を取る。散りばめられた木の葉を塗っていく。
地道な作業が続くせいですっかり無言になってしまった。右隣にいるアイカと、ときどき肩がぶつかる。視界に入っていないアイカの存在をそれで確かめている。
「物品部の地味な資料を作って、さらに凧の色塗りまでするなんて、まじめね、あなた」
ちょっと皮肉っぽかっただろうか。
「エヘヘッ、文化祭が楽しみだったんで」
なんてかわいい素直さなんだ。
ぎゅっと抱きしめてやりたい。足が動かなくとも腕を回せば届く距離だ。
今なら頭だって同じ高さにある。筆を持ったままだと制服が汚れてしまうから、まずは筆を置いて、水バケツは当たるとまずいので少し遠くに置いて。
いけない。何を考えているんだ私は。きっと寝不足のせいだ。女同士でそんな事するはずがないじゃないか。しかしアップルのふわふわスマイルがふと脳裏をよぎった。
理性的に考えて、あるはずがない。
「先輩、私、文化祭が終わったらしたいことがあるんです」
突然話しかけられて、それとまとまりのない思考のせいで一瞬 息が止まった。
「何よその死亡フラグみたいな言い方」
「エヘヘッ、でも言っていですか」
「別に私の許可はいらないでしょ」
「文化祭が無事成功したら、また先輩とお出かけしたいんです。神戸の喫茶店、すごくよかったので」
「ずっと私の車椅子を押して疲れたでしょ」
「えー楽しかったですよ」
そんなことを言ってくれるのはアイカだけだ。もしかしてこれは、脈アリというやつなのでは。
クソ。またアップルのニタニタ笑いがよぎった。「してやったり」と覚えたての日本語でドヤ顔をしている。
「ええ、じゃあ、行きましょう。一緒に」
きっとこの世界は陰鬱な世界なんかじゃないんだ。焼き払わなくてよかった。
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