21

 月の光のない真っ暗な夜だった。かろうじて自分の手のひらくらいなら見えるけれど隣に立っているはずのケイコの姿はその輪郭だけがかろうじて分かる程度だった。

 子供の時、こんな感じのアニメを見たのを覚えている。真っ暗な夜に怪盗が屋根伝いに大富豪の家に侵入するというストーリー立てだった気がする。

 あれ以来、新しいアニメ放送が無くなったせいでよく覚えている。

 今はまさにそんな怪盗気分。

 唯一都市ザ・シティからの脱出は明確に違法ではないけれど少なくとも軍属で奇械マシンの攻勢が迫っている今、軍規違反は明らかだった。見つかれば真っ先に前線へ送られてしまう。

 暗闇からすっと手が伸びてアイカの手首をつかんだ。ひんやりとした心地よい冷気が伝わる。

「ちょっと、あまりあうろちょろしないで。もうだれも住んでいない地区だけど万が一誰かに見られたら面倒でしょ」

「えへへ、すみません」

 デトマールさんの指示通り終電の電車や架線トロリーバスを乗り継いで706区までやってきた。暗闇の向こうに海があるらしく波の音と潮の香りが漂ってる。ジメジメする空気の中に刺激臭が混じっているのは汚染された海水のせいだろう。

「……86428。この倉庫ね」

 ケイコは入り口のドアを4回叩いた。それを合図に内側で鍵とかんぬきが外される重い音が響いた。

「よし、来たな。時間通りだ。さすが日本人だ」

 少ない明かりの中でデトマールさんの顔がぼんやりと浮かび上がった。

「もう、いつの時代のジョークよ。ほら、人に見られる前に入るわよ」

 デトマールさんの倉庫は半分が海に突き出た、船を収納できる建物だった。そして海に浮かぶ飛行機が明かりに照らされていた。

「うわぁ、飛行機だ! わたし、博物館で見たことあります。でも本物は初めてです」

 デトマールさんがへへん、と鼻を鳴らした。

「ドイツ製のセスナだ。水上飛行機仕様のな。わしの両親がこれに乗って中国大陸から逃げてきたんだ。わしはまだ小さいころだったから詳しいことは知らんが、唯一都市ザ・シティに命を賭けてやってくる理由があったんだろう。それ以来、飛ばせてはいないが陸に上げて保管してきた。エンジンは整備しておいたから動く。ケーコ、操縦マニュアルは?」

「ええ。丸暗記したわ」

「ほう、さすが若いのは違うね」

「ここから飛び立って金沢へ向かう。昔、私の家族が住んでいたところ。いくつかの棄民───日本人のグループが今も活動していたら情報とか物資とか協力してもらえるかもしれない。念のため、低空で日本海へ抜けた後、海沿いを北上するつもり」

「ふむ、片道だけなら問題ないかもしれないんだが、ひとつ不安要素があってな。このセスナはガソリンエンジンだ。特別な燃料はいらない。だが唯一都市ザ・シティで手に入る合成ガソリンだと航続距離が下がるかエンジンが不調になるかもしれない」

「ええ。でしょうね。偵察で使っているバイクもそんな感じだから」

「途中で落ちるかもしれない」

 エエー!

 声には出さなかったがぽかんと口を開けたままケイコを見た。

「その時は滑空して不時着するわよ。で、歩いて松本まで行く。大丈夫。サバイバルなら慣れているから。蛇でもカエルでも食べて生き延びてやるから」

 ケイコはまるで普段の哨戒任務のときのようにさらりと言ってのけた。一方のデトマールさんは苦虫を噛んだような顔になって、次の言葉を考えていた。

 そうか。もしかしてわたしたちを最後の最後で思いとどまらせようとした? わたしはさっきの言葉で心が揺らいだが、ケイコさんは薄い唇を真一門に結んだままだった。

「それじゃ、わしからしてやれるのは、これが最後だ」

 デトマールさんは錆びた工具箱に積んであったダッフルバッグをケイコに渡した。

 ケイコは受け取ったバッグの重さを確認すると床において中身を改めた。

「これは……」

「数日分のレーション、水のろ過キット、救急キット、安定ヨウ素剤、あとは銃。ふたりでいっしょに作っていたケースレス弾のライフルだ。ケーコが任務から帰ってきたら完成を祝おうと思っていたんだがまさかこんな形でお披露目になるなんてな」

 ケイコはバッグの中から四角いのっぺりした銃を手に取った。一見すると楽器ケースのような四角い箱だが、近距離用の照準器が備え付けられていた。

「水冷式? 重いけどそのほうが実戦向きね。ねぇ、名前は? いつまでもケースレス弾仕様水冷ライフル、なんて言ってたらダサいでしょ」

「ふむ、名前ならもう考えてある。『グーテンベルグ・ベゾンダレー』 スペシャルという意味だ。ん、ダメだったか」

「フフ。覚えにくいけどいいと思う。グーテンベルグ・ベゾンダレー、大切に使わせてもらう」

 ケイコは愛おしそうに四角いライフルをなでた。

「アイカ、君にもプレゼントがある」

 そう言ってデトマールさんはずっしりと重いバッグを渡してくれた。中を見てみるとサバイバル用品とともに小振りなライフルが1挺、あった。

「これは戦前の銃ですか」

「ああ。両親の祖国の銃、MP5だ。唯一都市ザ・シティに亡命する際に護身用として持っていたものだ。両親が亡くなってからは形見として持っていたんだ」

「ええ、でもそんな大切な銃を」

「わしの手元においていたって錆らせてしまうだけだ。だったら、アイカがケーコや他の大切な人を守るために使ってやってほしい。銃という道具は人を殺すための道具じゃない。守るための道具なんだからな」

 古い骨董品の銃の表面をなでてみた。剥げた塗装は丁寧にタッチアップされ鈍い光を反射している。機関部がなめらかに動くのは定期的に注油を受けていたからだろう。

「弾は、拳銃用の? コッキングレバーが変だけどこれ、いつも使っているライフルに似てる」

「工業製品は家族の血筋のように系統がある。君たちが使っているMk.Ⅳライフルは戦前にH&K社のライセンス生産されていた派生型だ。その銃も同じ会社。だから基本的には同じだ」

「ありがとうございます! デトマールさん。わたし、銃には結構自信があるんですよ」

 しかしケイコが笑った。

「それ、射撃場での話でしょ。奇械マシン相手じゃ外してたじゃない」

「エヘヘッ、でも次はちゃんと当てますよ」

「そうね。そうやって人は成長していくものね。さて、話はここまでにしましょ。夜が明けるまでに唯一都市ザ・シティの上空を抜けたいから」

 ケイコは美しい姿勢のまま───敬礼をするかと思ったが───デトマールさんに手を差し出した。

「いままでありがとう。もしかしたらこのせいでデトマールさんに迷惑がかかっちゃうかもしれない。でも、ほんとうにありがとう。そして、必ず帰ってから」

 しと、とデトマールさんは巨大な体躯に見合わず手を軽く添えただけだった。が突如ギュッとケイコに抱きついた。両目には一杯に涙を貯めて、溢れ出る嗚咽を我慢して唸っている。

「わしも付いていくべきなんだが。クソぅ、わしにはお前たちほどの気力がない。だからこうして送り出してやることしかできない」

「もう、何言ってるのよ。助けがなきゃ私達、泳いでいくところだったのよ」

 デトマールさんはふわりとケイコから離れると次にアイカをギュウっと抱きしめた。

「いってきます、デトマールさん」

「ケーコは我慢強いせいで誰にも助けを求めようとしない。だから、ケーコを助けてやってくれ」

「エヘヘッ、たしかにケイコさんはそういうところがあります。わかってます。大丈夫です。わたしにお任せください」

 獣のような巨体の背中に手を回してポンポンと叩いてみた。ちょっとは安心してくれたかな。

 出発だ。これ以上ぐずぐずしていても未練が増すだけ。

 アイカとケイコは操縦席に収まった。居心地のいい広い空間だったがデトマールさんのような巨体が収まるのかは疑問だ。

 左側の座席にケイコが座り、股に挟んだ操縦マニュアルと計器類を互いに見比べている。よくよくみると操縦マニュアルはヨーロッパ言語で書いてあった。

 声をかけよう、とも思ったが集中を切らすとまずいと思ってやめておいた。

 座席に深く座るとシートベルトをかちゃりと締めた。錆びて固くなっているがなんとか体を守ってくれそうだ。

 デトマールさんが倉庫のドア開け、広い海が眼前に広がった。いよいよ出発だ。すぐ下、飛行機の左側で機体と岸を繋いでいたもやい縄が解かれる。

「エンジンは、ここを長押しして始動、っと」

 機体がブルブルと震えて黒煙がモクモクと立ち上った。

「ひぇっ!」

「大丈夫。合成ガソリンなんだからこれが普通」

 プロペラが空を切って回りだす。じわじわと水面へ滑るように進む。ケイコは左手で操縦桿を握り、スピードを調節するレバーを右手で握っている。たぶん、そういう機能だ。操縦マニュアルの写真を見れば分かる。あとは細々とした数値とか方角とか時計とかの計器が右に左に動いてる。

 小刻みに震えるケイコの左手にそっと右手を重ねた。いつかこうしてやってくれたときのように。

「大丈夫です。わたし、信じてますから」

「ええ、そうね。なんとしてでもたどり着いてみせるから」

 ガラガラと唸っていたエンジン音は次第になめらかになり、何も見えない漆黒の水面を滑るように躍り出た。

「38,40,45ノット!」

 ケイコが計器の一つを凝視してぶつぶつ念じている。

 突如、体の全身が重くなった。内蔵が下へ引っ張られるような感覚。そして直後にはそれらが一切消え落ちる感覚を覚えた。

「ケイコさん!」

「浮いたの。ハハ、飛んでる。ほらみて、これが高度計」

 ケイコは嬉しそうにトントンと丸い計器のひとつを指で叩いてみせた。

 確かに波の音は消え、風を切る音しか聞こえない。ケイコは方位磁針と見ながら慎重に操縦桿を動かした。右にラダーを踏み込んで空中を滑るように機首を北へ向けた。

「これ、あのときと同じです。初めてケイコさんの後ろに、バイクに乗ったときの感覚と同じです。こう、ふわっとした感覚」

「うそ、もしかして怖かったの?」

「うーん、たぶん。そんな気がします。でもすごく頼もしかったことも覚えてますよ。今もケイコさんと一緒だから頼もしいです」

「もう、恥ずかしいこと言わないでよ」

 こんなことならいくらだって言える。ケイコさんの大きな背中を追いかけてきた。でも今はこうして横に立っている。ちょっとは役に立てているのかな。

 アイカは狭いコックピットで小さく折りたたんだ地図を広げた。昨日、図書館で方位磁針と地図の見方を覚えた。軍の教練でも習ったけれど数百キロを移動するための地図の見方とは少し違うコツが必要だった。

「今の速度は60ノット。ええと、時速111キロメートルですね。うわ、速い。で、北に向かえば約1時間後に海に出ます。でも中国山地の山は1300メートルなので、フィートに直すとええと、4300フィート以上 上昇してください。そのほうが安全ですし、夜が明けたら地形を確認しやすいです」

「計算が早いのね」

「えへへ、学校の暗算大会で3位だったんです」

「ほんと、軍人にしとくのはもったいないわ」

「もちろん、平和になったら大学に行きます、もちろん」

「ええ、それがいいわ」

「ケイコさんは?」

「さあ。畑でも耕そうかしら。で、海に出た後の案内も任せていいの?」

「はい! 真っ暗なので確証は無いですけど。金沢までの方角と距離はわかるので、なんとか。でも着陸は」

「金沢には大きな空港があるの。それを目印に飛びましょう。近くの海に着水して。後は、そうね。状況次第」

「きっとケイコさんと一緒なら大丈夫です」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る