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 朝の教室。

 がやがやとくだらない話題がうるさいのもそうだが、朝の低血糖・・・のせいでどうもうだつが上がらない。どうもコンタクトレンズを入れる気になれず、今日はメガネを掛けて朝支度を済ませた。

 本来は学年ごとに階が変わるのだが、車椅子で通学するケイコへの配慮として2年連続1階の教室だった。たぶん来年もそう。

 教室の後ろの扉も、たいていは開け放たれたままだ。車椅子のままだとあと数センチ腕の長さが足りないせいで開けるのに手間取ってしまうので、ありがたい。

 教室の一番うしろ、唯一 椅子のない席がケイコの場所だった。目はさほど良くないのでホワイトボードの文字が時々見えないことがある。が、スマホを見ていてもバレないので、まあ悪くない。

「おはよー」

 カバンを机の右に掛けて頭を上げると、眼前からふわふわボイスが投げかけられた。

「おはよう、アップル。今日も朝食はそれだけ?」

「そうだよ。大発見なんだけどさ、タニタの豆乳がすっごくおいしいの」

 アップルは、ケイコの前の席に横向きで座ると、豆乳パックのストローをがじがじと噛んだ。

「お腹が空かないの?」

「空くよ。空くけど、ダイエットのためなの。まーた体重が増えちゃってさ」

 ケイコはふうん、と睥睨へいげいした。

 どのみち太ったというわけではなくその長い乳のせいだろう。おおよその男子も女子も目を奪われる。アップルの金髪や小麦色の肌、あるいは骨格も長い乳も、本人は気にしているので口には出さないが、さすがヨーロッパ人というしかなかった。

 他人の乳なんてどうでもいい。1限の共通語エスペラントが始まるまえにざっくりと予習しておかないと。電子辞書を取り出して形だけでも勉強しているふうにする。

「どうだったの?」

 額が届きそうな距離に、アップルの緑の瞳があった。どことなく大人っぽい香水の香りがただよってくる。

「ん、先週の小テストで散々だったから。期末テストまでに巻き返さないとGPAが悲惨になっちゃうの」

「あはー、恥ずかしがり屋さんだなぁ。Sah chaはずかしがりやのケイコ。デートしたんでしょ」

 アップルはあざとく共通語エスペラントをまぜた。ケイコはパタン、と電子辞書の蓋を閉じた。

「あのね、恥ずかしがり屋だなんて、あなたよりはマシでしょ。デトマールさんのお店で一言もアイカと話さなかったじゃない」

「Umiltà」

「これみよがしに共通語エスペラントを話さなくてもいいんだからね」

「ううん。これはイタリア語。日本人は謙虚さを大切にするんでしょ。だからデトマールさんのお店で静かにしてケイコと後輩ちゃんを観察してたの」

「ああそう、お気遣いどうも」

 ケイコは電子辞書を開こうとしたが、その手の上にアップルの手が重ねられた。

「で、デートは?」

「デートじゃないって、だから。ケーキを食べて、お茶を飲んで終わり」

「あは、知ってるんだよね。わざわざ神戸のpasticcereパテシエの喫茶店に行ったんだよね。しかも1日10組限定の隠れ家的喫茶店」

「なんでそこまで知ってんのよ」

「ケイコは後ろ斜め45度が無防備なの。気づかなかった? 先週、スマホで調べてるのを見ちゃったんだ! 1年の後輩ちゃんと行ったんでしょ」

「友達よ。遊びにいっただけ。アップルとだってカラオケに行くでしょ。それと同じ」

「ビッグエコーと10組限定のバウムクーヘンは全然違うっての。それにしても、どうして日本人はバウムクーヘンを食べるの? ドイツのめちゃくちゃマイナーなお菓子よ。ミラノのイタリア人ですら知らない。ドイツ人がずんだ餅を食べるぐらい、奇妙」

 知らない。それにずんだ餅はそこそこメジャーな食べ物だと思うが。

 機械に強いアイカならこういうことを、サクッと調べてペラペラと話してくれるんだろうな。

「で、どーなの? 後輩ちゃんとは」

 アップルは、飲み終えた紙パックを膨らましてペコペコ音を鳴らしている。お行儀が悪くてもふわふわボイスの彼女は憎むに憎めない。

「どうって言われても普通よ。普通に仲良くしている。ま、最初は変な子だなと思ったけど、素直で良い子よ」

 まるで昔飼っていた犬のようなはしゃぎ方とテンションと、愛くるしさ。それでいて頭がそこそこ賢い。

「うんうん、たしかに。ケイコは素直そうな子が好きだもんね」

「ええそうね。でも素直な子は誰にだって好かれるでしょ」

「そーゆー意味じゃなくて、rai phei amの方。日本語だと───」

 「好き」や「愛」を意味する共通語エスペラントだった。それぐらい分かる。

「バカバカしい。女同士で恋愛感情だなんて」

「友情と愛情は紙一重でしょ」

「哲学を語らなくてもいいから」

「もう21世紀も半分が過ぎたんだから、そういう恋愛だってあって当然なのよ。ニュースを見ないの?」

「見てるわよ。昨日見たニュースは軌道エレベーターがほとんど完成してるって」

「アハハ、なにそれ。……ええと日本語でこういう場合の感情表現は、ウケルー・・・・

共通語エスペラントと軌道エレベーターが国際協調の象徴だって言ってたから耳に残っただけ」

「この前の中間テストがサイアクだったからね。デトマールさんとは共通語エスペラントで話せるのに」

「話すテストがあったら完璧に点数が取れるの。筆記テストだからダメなの」

「深夜までみっちり、勉強方法を教えてあげたのに」

「コミュニケーションは話すことが大切なのよ。書くことは重要じゃないでしょ」

「堅いなーケイコ。カッチカチだよ。頑固がんこだよ。そんなんだから後輩ちゃんとのrai phei amが進まないんだよ」

 チクショウ。話を戻された。

「だーから、そういう仲じゃないって。第一、私はゲイじゃない」

「いーじゃん、誰が誰を好きになっても」

 艶々つやつやふわふわボイスに圧倒される。

「あなた、カトリックよね。そんなんでいいの?」

「あら、マイナーな宗教・・・・・・・のことをよく知ってるのね」

「こーみえても世界史は得意なんです」

 もっともギリシアで天体観測が始まった・・・・・・・・・・・・・・ 西暦0年以降はあまり覚えていないが。

「いいのー。それはそれこれはこれ。アハッ、便利な日本語だな。けっこうお気に入り。でもお気に入りの聖書の一節は、うーん、日本語だとわからないなぁ。まだまだ勉強不足」

 勉強不足? 2か国語を話して共通語エスペラントのテストも私より上なのに。

「寛容なんだか適当なんだか」

「男には男の、女には女の魅力があるの。だから女同士を好きになっても問題ないでしょー」

「アップルは、じゃあ、どっちもイケるってこと?」

 しかし、返答はなかった。ニヤリと笑っただけで席を立って、自分の席へ戻ってしまった。

 恋愛感情があふれるのが高校生、というのは頭ではわかっていた。が、自分にとっては縁のない行為だった。たとえ誰かと恋仲になったとしても、自分は一生車椅子生活だ。

 もし、万が一好きな相手ができたとしても、そんな負担を好きな人に背負わせる訳にはいかない。

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