10
教本通り、バイオリンの顎当てをあてて、弓を右手で持つ。
右手の角度、肘の位置、肩の高さはすべて教えられたとおりにする。ひとつずつの所作をバイオリンを持つたびに思い出している。
肩の力を抜く。介護タクシーやバスを使わずに意地でも車椅子で移動しているせいで肩ばかりに筋肉がついてしまい、つい力んでしまう。
ケイコは目を閉じた───しかし眼前にあるであろう視線が気になってしょうがなかった。
「ねえ、アップル。じっと見られていると弾きにくいんだけど」
同じ学校の制服に身を包んだアップルは、わざとらしく店の外に視線を移したが、弓が動き出そうとする瞬間に再びケイコを見た。
小麦色の肌に映える緑色の瞳───本人は目立ちたくないとは言っているが───じっと見られると緊張してしまう。
「ハッハッハ、友人が音楽を
コントラバスのような低音の声だった。流暢な日本語であるがどことなく異邦人の雰囲気が残っている。
このグーテンベルグ
「デトマールさん、私、そろそろ新しい楽譜を弾いてみたいんですけど」
古い楽器店のアルバイトをしながら、
「
「みんなが知っていて、有名であまり難しくないので」
「ほほー、難しい注文だね」
デトマールさんは木棚の下の扉を開けると、ガサゴソと古い教本や譜面を
言えば手に取らせてくれるのだろうが、レコードはどう扱っていいかわからないし、書籍も
「アップルもいることだし、イタリアの曲にしてみようか」
低いコントラバスのような声が嬉しそうに提案した。楽器職人よりも
「うん」
アップルが聞こえるギリギリの声で返事をした。日本語ができないというわけではなく根っからの人見知りのせい。
「アントニオ・ヴィヴァルディなんて、どうだい?」
たぶんドイツ語訛りの本場の発音だった。しかし対するアップルは
「アッハハハ、イタリアの素晴らしい作曲家だよ。名前は知らなくても、彼の素晴らしい作品は聞いたことがあるはずだ。この曲名はLe quattro stagioni。発音はあっていたかな? さて日本語だとなんだろう」
イタリア語だろうか。アップルの表情が一瞬だけ変わったが、ケイコにはさっぱりわからなかった。
「
「ふむ、そうだな。たしか、kihoth ipeか。直訳だが意味はわかるはずだ」
散々だったの中間テストが思い出され心の傷がズキズキと痛い。スペリングはさっぱりわからない。が、リスニングには自信があった。
「“全ての季節” つまり、その楽譜は『四季』かしら」
「ほう、シキか。日本語はシンプルでいい」
そのアクセントだと別の意味に聞こえてしまいそうだったが、黙っておくことにした。
デトマールさんは楽譜を、車椅子に乗ったケイコでも見えるようローテーブルに置いた。
「少し難しいかもしれない。イタリア語が書いてある。わしも全部は分からない。でも楽譜は基本的に同じだからOKだろ?」
「ええ、大丈夫みたいです」
「おっと、お客さんだ。いいよ、ケーコはバイオリンを弾いてて」
本来は私の仕事なのに、と思いながらもデトマールさんの気遣いに甘えた。
「いらっしゃいませ」
コントラバスボイスとドイツスマイル。デトマールさんなりの接客方法だった。
ここ最近、国境が実質的になくなったとはいえ、薄暗い店内から熊みたいな背丈のドイツ人が現れたらさすがにお客さんはびっくりしてしまう。
せめて店内を明るくしようと提案したことがあるが、白人の目の色素が理由で間接照明の明るさで十分らしい。アップルもそう言っていた。
カランコロン。
ドアに付けられた鐘が鳴った。その鐘の下によく見知った顔と知らない顔がそれぞれあった。
「アイカ?」
「エヘヘッ、さっきケイコ先輩の姿が見えたのでこっそり後をつけてきちゃいました。あ、こっちはシホちゃんです」
アイカの隣で鋭角ツインテールの女の子が軽く会釈した。
「その制服、東商業の生徒よね。なんだか珍しい組み合わせね」
アイカは真面目と素直さを判で押したような性格だが、その隣のシホは反骨精神がにじみ出ていた。濃い目のアイシャドーが目つきの鋭さを増している。小柄で中学生にも見える背丈とギャップがあった。
「わたし、シホちゃんの実家の喫茶店でアルバイトをしてて、たまに一緒に遊びに行くんです。ケイコ先輩は、ええと、バイオリンのレッスンですか?」
「ううん。私もアルバイトよ。その人はデトマールさん。デトマール・グーテンベルグ。こっちはアップル。
「ええーと、はじめまして、アップルさん!」
アイカは誰にでも分け隔てなく笑顔を振りまく。しかしアップルのは重すぎたようで、照れ隠しにぐびぐび紅茶を飲んだ。
「ほう、ケーコの知り合いか。それなら大歓迎だよ。ほら入って。いまから紅茶を飲みながら、ケーコのバイオリンを聴くところだったんだ」
コントラバスボイスが店内に反響した。
「エヘヘッ、先輩の演奏が聞けるんですか。ほら、シホちゃん、もじもじしないで大丈夫。ケイコ先輩はいい人なんだから」
アイカが小柄な少女の手を引いてアップルの隣の椅子に腰掛けた。デトマールさんもティーカップを2つ取り出して湯気の立つ紅茶を入れた。
どうしてこうなった。
演奏すると言っても、いましがた渡された譜面を練習するところなのに。アイカがじっとこちらを見てくる。
「今日、初めての楽譜なの。だからちょっと待ってね」
時間稼ぎになっただろうか。左手で弦を押してイメージトレーニングをする。後輩に見られている手前、失敗したくない。アップルは──掴みどころなく緑の瞳をこちらに向けてくる。
「あらためて、デトマール・グーテンベルグだ。よろしく」厚い革手袋のような手を差し出して握手を交わす。「これだけにぎやかになったのは久しぶりだよ」
「わたし、楽器のお店は初めてなんです。どきどきしちゃう」
くりくりした両目を忙しそうに動かして、天井から吊るされたバイオリンやヴィオラ、ラックに掛けられているギターやコントラバスを順番に見ている。ほんと、昔飼っていた犬にそっくりだ。
「アイカちゃん、だったかな。楽器は弾けるのかい?」
デトマールさんは興味津々にアイカを覗き込んだ。顧客獲得、などという下心ではなく単純な興味。彼はそういう人だ。
「うーん、音楽の授業でリコーダーなら。あと合唱とか」
「すばらしい。リコーダーも立派な楽器さ。もしもっと楽器を弾きたくなったらケーコにバイオリンを習うといい」
「エヘヘッ、ケイコ先輩、バイオリンが上手なんですか」
ケイコは渡されたばかりの楽譜から目を上げて、
「事故のリハビリがてら始めた趣味よ。教えられるってほどじゃないわ」
バイオリンを選びに来たとき、デトマールさんからこのアルバイトを勧められた。仕事といってもデトマールさんが工房にこもっているときの
まあいい。アイカのことだ。多少失敗したところで拍手喝采だろう。そう思えば
右手の角度、肘の位置、肩の高さはすべて教えられたとおりにする。ひとつずつの所作を基本に忠実に。そして弦を
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