私は知らない 【一話完結】

大枝 岳志

私は知らない

「十七歳なんだ? へぇ。飲んじゃいなよ」


 そう言って、セイくんは自分が頼んだはずのビールジョッキを私の目の前にドンと置いた。お酒を飲むのは初めてじゃなかったけど、ビールを飲むのは初めてだった。カラオケ屋のジュース、というか嘘みたいな味のカンパリオレンジとか、カルアミルクなら飲んだことがあったけど、とにかく、ビールは生まれて初めてだった。

 飲んでみると喉が刺激されて、苦い汁を飲まされてるような気分になって一気に吐きそうになった。

 それでも、大学生の彼はカラオケ屋の大部屋の隅で「かわいい」と、私を見て笑っていた。


 スケボーが上手くて、バイクに乗っていて、仲間達と数人でネットショップの服屋をやってるとかなんとか。

 大人って感じするよねー、とか、セイくんマジカッコいいんだけど! とか、彼に投げられる言葉はどれもこれも形の整った祝福の言葉ばかりだった。

 学校の子達はみんなセイくんに憧れてるみたいで、セイくんが如何にカッコいいか語り合う度にクラスの男子達のことを引き合いに出し、馬鹿にしまくっていた。 


「横瀬ってさぁ、お母さんに服選んでもらってるんでしょ?」

「知ってる! つーか今日の靴下ダサくね? ダンロップとかチョーウケる」

「それな! あぁいうヤツってさ、友達もいないからずっとダッサイまんまなんだろうね」


 私は話題が飛び交う輪の中にいたけど、うんともいいえとも言わなかった。横瀬の履いてるダンロップの靴下、そんなに悪いのかな。真っ白で清潔そうだし、きっと清潔にしているんだろう。人に見られることが分かってるから、せめて清潔にしようとしているんだろうな。はぁ、偉いなぁ。お母さんが手間暇かけてお洗濯してるんだろうか。

 そんなことを思ってたら、輪の中で一番声の大きな千明が私に目を向けて嬉しそうに言った。


「てかさぁ、セイくんマジカッコいいよね。けど、セイくんって弥生のこと狙ってそうじゃない?」


 急にそんな話を振られて、私は思い当たる節も無かったからこれは否定した。


「全然、何もないよ。ラインも交換してないし」

「えー! なんで交換しなかったの!?」


 声が大きいな。うるさいな。そして何より、どうでもいいな。


「なんでって、別にそんな流れにならなかったし」

「本当にぃ? ねえ、サエ。どうする?」


 次に話を振られたサエは「何がだよ」と笑いながら突っ込んでいる。面倒なことにならないといいなぁと思っていたけど、すぐに面倒なことになった。

 放課後になって校門を出ようとすると、校門の辺りで男子達が群れを作っていた。何か馬鹿なことでもしているのかと思ったら、群れの中からセイくんが飛び出して来て、こっちに向かって手を振っていた。男子達はセイくんの乗って来た大きなバイクに夢中だったみたいだ。

 千明が「きゃー!」と大袈裟な金切り声を出して手を振り返しても、セイくんはまだ手を振っていた。  


「弥生ちゃん! 一緒に帰ろうぜ!」


 セイくんが悪びれることなくそう言うと、男子達は「ひゅー」と冷やかしの声を上げた。隣を歩いていた千明がすぐにこっちを見たことに気付いたけど、面倒だから顔を合わせないようにした。

 セイくんと話せるだけの距離まで近付くと、サエは千明の手を引きながら「弥生、じゃあね」と言って先に帰ってしまった。


「弥生ちゃん、送って行くから後ろ乗ってよ」

「買い物あるから、大丈夫」

「じゃあ買い物も送ってくよ」

「買い物、いつも一人でするから」


 私はセイくんを避けて帰ろうとしたけど、セイくんはどいてくれない。


「俺、後ろ乗ってくれるまでどかないよ」

「……じゃあ、分かった」


 本当はちっとも、全然分からなかった。周りに人が集まって来ちゃったからそう言っただけで、バイクの後ろってどうやって乗ればいいのかも良く分からなかったし、変な噂になったら相当面倒臭いなぁと思った。 

 ビッグスクーターとかいうおっきな原付みたいなバイクの乗り心地はとても安定していて、悪くなかった。セイくんの背中にしがみつきながら家まで送ってもらって、その日はバイバイした。


 お母さんが夕飯を作っていて、部屋の外から唐揚げの香りが漂って来る。私が住むのは団地の六階で、外はどんよりとした紫よりも濃い雲が立ち込めていて、その奥で申し訳程度のオレンジ色が街の片隅にまだ残っている。

 ベッドの上には投げっぱなしの鞄と、そろそろ季節感を失い始めるブレザーとハイソックスが転がっている。

 ラインがたくさん来ていることにが気付いて、私は枕元に置いておいたスマホを目の届かない机の上に置いてからベッドに寝転がる。


 誰かと繋がっていることを意識するのさえ面倒になって、私は小学校の頃に集めていたギャグ漫画を読み始める。作中はやたらうんこばっかり出て来て、下品で最悪でとにかく笑えた。そのうち読むのが止まらなくなって、お母さんが「ご飯だよー」とリビングから私を呼ぶ声がしてくる。それを知ってて少しの間無視をして、外をもう一度眺めてみる。紫色の街の中で、灯りがポツポツ点いて行って、光のハーモニカみたいな電車が右から左に走って行く。窓を開けると、夜の音がした。こういう時はほんの少しだけ、飛び降りてみたくなることがある。


 次の日、学校へ行くと男子達に絡まれた。色々と聞かれたけど、私は「ただの知り合いだよ」とだけ答えたけど、千明はそうもいかなかった。

 私が教室に入った途端にサエとおしゃべりしていた千明は、急にそっぽを向いて頬杖をつき始めた。ムカついているんだろうな、面倒くさい人だと思いながら「おはよう」と声を掛けると、サエはちゃんと返してくれた。けれど、千明は私のことをあからさまに無視をした。

 おまけに、私にわざと聞こえるようにこんなことを話し始める。


「私さぁ、嘘つくヤツとかマジで許せないからね。本当、最悪だよねー? 人の気持ち知ってて嘘つくヤツとかってさぁ。傷付けないとでも思ってるのかなー? 既読スルーとかさぁ、わかっててやってるってことでしょ?」


 私のことだ。昨日、色んな人から色んなラインが来ていたけど無視をした。セイくんとラインを交換したら、夜中に電話が掛かって来ていた。勘弁して欲しかった。

 千明には「ブスなのが悪いんだよ」と言ってあげたかったけど、私は何も知らないことにする。何も知らないし、昨日の唐揚げが美味しかったことだけ思い出して、横瀬の足元に目を遣った。靴下は相変わらずダンロップで、相変わらず真っ白だった。


 千明に無視されてから一週間。色んな人から無視されるようになった。原因はセイくんが何度断ってもバイクで迎えに来るからだ。あぁいうのを良く思わない女の子達は当然多い。セイくんがもしもブサイクだったら私は女子達から無視されなくて済んだ。私はセイくんに「私がハブられるからやめて欲しい」と、わざわざ丁重にお断りした。


「弥生をハブってるヤツ誰だよ。俺がシメてやろうか?」


 そんな馬鹿なことしか言えないセイくんに嫌気が差した。てめぇが原因だよと思ったけれど、これ以上何もしなくてもいいですとそれも断った。毎日が面倒で憂鬱で仕方なくなった。それでも、毎日お腹は平気で空いていた。


 早めに帰った夕暮れ時。お母さんが帰って来ると、台所でがちゃがちゃと音が鳴り始める。ラインが誰からも来なくなっても、私は相変わらず漫画を読んでいる。

 あはは、と声を出して一人で笑っていたら、団地の下からガーッという喧しい音が聞こえて来た。

 ガーッ、ダン。ガーッ、ダン。

 誰かがスーツケースを転びながら運んでいるのかと思ったら、セイくんがうちの真下でスケボーをしていた。

 セイくんもまた、私と同じで一人だった。けれどあの人は、一人ぼっちじゃなかった。


 セイくんはスケボーをしに毎日毎日私の住む団地の駐車場にやって来ていた。私は一度も声を掛けなかったし、無視することを決めた。けれどラインはガンガン入るし電話も鳴るしで、漫画の邪魔をされるのが本当に嫌でたまらなかった。

 いっそ千明に気持ちが向いてくれたら良いのにと思ったけど、ある朝学校へ行ってみると千明がサエを相手に泣き腫らしていたから、セイくんにフラれたんだろう。その敗因はきっと、ブスだから。それは本当にどうしようもないことで、私にとってはどうでもいいことだった。そんな日でも横瀬のダンロップの靴下だけは、心がまだ定まらない十代の喧騒なんかまるで知らないようにに、恐ろしいほど無垢で真っ白だった。


 小学校以来久しぶりにハマったギャグ漫画の最新刊を買って帰ると、その日の夕ご飯はカレーだった。玄関のドアを開けた瞬間に美味しそうな匂いが鼻をついて、思わずお腹が反応した。だけど、漫画も読みたかった。お母さん、ちょっとヘマしてご飯の時間が遅くならないかなぁと思いながら漫画を読み始めて十分。早くもお母さんの声がした。


「弥生、弥生! なんだか、お友達みたいなんだけどー」


 え? お母さんに呼ばれてインターフォンの前へ立つと、画面には気まずそうな顔を浮かべるセイくんが立っていた。なんで、この部屋が分かったの? 気持ち悪いと思って、私はお母さんに言った。


「私、知らない」


 お母さんは頷いて、すぐに警察に電話をした。電話したらすぐに警察が来てくれて、私のことを沢山心配してくれた。婦人警官の人が、とても親切にしてくれた。クラスの人もこれくらい親切だったら、いや、それはそれで面倒くさそう、と考えながらことの顛末を聞いていた。

 セイくんはその日、逮捕された。団地の他の人達の証言もあって、彼はサバイバルナイフを二本持っていたそうだ。それを手にしながら団地内をうろうろし、インターフォンを押したそうだった。お母さんが呼ぶよりも前に、警察を呼ばれていたとか。

 やっぱりセイくんがまともなのは顔だけで、他は全部馬鹿だったんだなぁと思いながら、だいぶ遅くなってしまった夕ご飯のカレーを食べた。めちゃくちゃに美味しくて、子供みたいにはしゃぎたくなった。


 次の日、学校へ行くと千明が私に駆け寄って来た。


「聞いたよー! 弥生ぃ! 怖かったね、すっごい怖かったよね? 弥生の身に何もなくて良かったよぉ!」


 何もなかった? は? 何もなかったなんて、あんたから無視して来た癖に、どの口が言ってんだよと思った。あのギャグ漫画みたいに、おっきなうんこをぶっ掛けてやろうかと思った。人の心を殺すデカい声を出す減らず口にうんこでも詰められて窒息死すればいいのに、そう心の中で憂さ晴らししながら私は千明を無視して、教室の奥へ進んで行く。背後から、私に無視された千明を笑うサエの声がする。あの子は、足も長いし気さくだし、とってもいい子。


 私は真っ直ぐに、横瀬のダンロップの靴下を目指して進んで行く。いつも無垢で真っ白な彼の靴下が、無性に見たくなったから。

 その足元に近付くと、靴下は真っ黒なプーマの靴下に変わっていて、私は思わず彼のすぐ真横で足を止めてしまった。野太い眉毛に、しじみみたいな小さな目がついていて、それがこっちを向いている。


「よ、よぉ……何か、何か用事でも?」


 私は真っ黒な靴下から視線を外して、横瀬と目を合わせる。


「気持ち悪っ」


 そう呟いて、自分の席へ向かう。

 横瀬がその時どう思ったかなんて、私は知らない。千明が何か喚いているのがうるさくて、教科書をしまいながらダンロップの白さを思い出そうとする。けれど、全然思い出せなくて、はじめのうちはそれがむず痒くて仕方なかったけど、次第にどうでも良くなって、カレーが美味しかった昨日の夜を思い出す。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私は知らない 【一話完結】 大枝 岳志 @ooedatakeshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ