第11話

 大辻(おおつじ)君は、目だけで無く全身キョドっていた。

『コロンビア』に入って来たと同時に、私と視線が合い、思わず入口に立ち止まり、今にも帰りそうな雰囲気をマックスに漂わせた。

「おはよう」

「おはようございます」

 視線を合わさず軽く頭を下げる。怪し過ぎる。そんな私達を見て、店長がコーヒーを注ぐ手を止めていた。

 しばらく、私達は言葉を交わさず仕事をした。仕事と言っても、半分は手を止めて立っているだけだったけど。

 大辻(おおつじ)君は、ひと言も喋りかけて来ない。当然かな。まだ、私から返事をしてないんだから。

 私は、迷っていた。まだ、誰かと付き合うなんて精神状態では無い。母親の他に自分の人生に絡んで来る人が増えるなんて耐えられるだろうか。

 か弱いクーラーがふたりの間に漂う緊張感を幾分和らげてくれる。

 少ないお客さんを取り合うかのように忙しく振る舞うふたり。無駄に水を持って歩き回り、使っても無いテーブルを拭き歩く。

 もう、それ以上絞り出してもする事無くなった時、私達はカウンターの横で初めて並んだ。

 何かを察したのか、店長がおもむろに表に出た。夕暮れとは言え、まだ太陽の熱がアスファルトから滲み出ている筈なのに、平然と店の前で軽く伸びをしている。

「あの……。メールすみませんでした」

 大辻(おおつじ)君がたまらず言った。正面に向いたまま、絞り出すように。

「一回、映画に行ったくらいで馬鹿ですよね。迷惑掛けたですよね。忘れて下さい。俺も忘れます」

 私は、人の気持ちを推し量るのは苦手だ。というよりも、そういう面倒臭い事から避けて来たし、そういう気遣いの出来る人間に育ってない。でも、袖の触れ合う至近距離で、その息遣いと震える声と額を流れる汗を必死で拭う姿を感じれば、相手の心はダイレクトに届いて来る。

「また……。映画観に行きたいね」

 これくらいしか言えないのが私ではあるけれど。

 大辻(おおつじ)君が驚くように私に顔を向けた。

「お金無いから、しばらく待って欲しいけど……」

「大丈夫ですよ。そのくらい、俺が払います。お小遣いを使わずに貯めておきますから」

「そこまでしなくていいわよ」

「いえ。俺が行きたいんです」

 大辻(おおつじ)君のテンションが明らかに変わった。

「でも、あの返事は待って欲しいの。もう少し考えさせて」

「はい。全然大丈夫です。待ってますっ」


 その晩、家でぼんやりと大辻(おおつじ)君の事を考えていたから、突然階段から母親の声が聞こえて来た時には戦慄が走った。

 あの人が帰って来た。

 逃げる暇は無かった。既に廊下を歩き、家まで後少しの所までだった。

 誰かと話しながら家に近付いて来る。私は、思わず身構えた。間違い無く、男の声。それも、酒を飲んで陽気になっている。

 自分の部屋で小さくなっていても、隠れる事は出来無い。

「お金。バイト代入ったんでしょ」

 部屋に入ると同時に私のカバンを漁る。

「少し残してよ」

「分かってるわよ」

 お札を全部抜き取りながら、白々と言う。ATMから下ろしたばかりのお金は右から左へと私の目の前を通り過ぎる。

「それじゃ、お昼代も残らないわ」

「ちゃんと、パンを買っておいてあげるから」

 いつもの台詞。

「あれだけじゃ、足りないわよ」

 幾ら抵抗しても無駄なのは百も承知。

「うるさいわね。お母さんだって大変なのよっ」

 逆ギレ。最悪。

 親としての責任って、何なんだろう。最低、子供が生きてれば後は好きにしてればいいのか。

 子供もペットみたいなものかな。幼くて何も分かってない生き物を見て楽しんで、大きくなって可愛らしさが薄れて来れば興味を無くしてしまう。お金掛かるし、世話をしなくちゃいけない。違いと言えば、人間の子供なら働いてお金を稼ぐ事が出来る。

 その時、ドアから目付きの悪い中年男性が覗き込んでいるのに気付いた。

 じっと無表情に私を舐め回す艶めかしい視線。

「おい。まだか」

「今行くわ」

 母親がお金をポケットに入れながら男の方に向かった。

「結構、気が強いじゃないか」

「私の前だけよ。本当は気が弱いのよ」

「ふーん……」

 意味有り気に私を見直しながら、中年男性はドアの向こうに消えた。

「もう十分育ってるじゃないか」

「そう? まだ熟して無いわよ」

「青臭いのもそそられるぜ」

 おぞましい話をしながら、ふたりの声が闇に消えて行った。

 あの女は、私を金儲けの道具としてしか見ていない。

 私の一生は、あの女の食い物にされてしまう。


 昼間の熱がまだ冷めやらぬ深夜。街灯に引き寄せられた小さな虫が電球に照らされもがいている。

 やっぱり、ここしか行き着く所は無い。

 ベンチに座っていると、最終電車を知らせる駅員の声。こんな時間にここに来る事なんて無かったな。

 力無く座り込み、頭を垂れる。今は何も考えたくない。あんな母親に悩まされるなんて認めたくない。

 ほんとに今にも死んでくれないかな。

 足元に何かの感触を感じた。

 目を開けると、黒猫が甘えて体をすり寄せていた。

 不吉な……。

 いやいや、この子は別に目の前を横切った訳じゃ無い。

「お腹空いてるの? 私もよ」

 同意してくれたのか。私を見ると微かに「ニャー」と鳴いた。

 エメラルドの瞳。その鮮やかさに吸い込まれそうになる。この子は、野良だろうか。家が無くても、この子達は目の輝きを失わない。己の人生を苦しむという感覚が無い生き物達は、その時その時を一生懸命生きている。餌が無ければ、探せばいい。仲間がいなければ、探せばいい。全て、自分の力でモノにする。

 その理屈は分かる。

 チャンスは、全力で手にしなければならない。

 私を守ってくれる人がいれば、何とかなるかも。

 思い浮かぶ人は、ふたりいた。

 携帯の画面に手をやり、電話のマークに人差し指を近付ける。

 でも、電話してどうなるのか。

 私を助けて、と泣き縋るのか。

 私にそんな権利があるのか、そんな事許されるのか。

「どうしよ」

 黒猫に話し掛けると、猫は、ぷいと滑らかに体をくねらせて立ち去って行った。

 そうね。そうよね。これは、自分で解決しないといけない問題だよね。

 津々木(つづき)さんと大辻(おおつじ)君、どちらを取っても上手く行くとは限らない。どちらもやっぱり期待外れになるかもしれない。

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