第7話
「雫(しずく)ちゃんは、夏休みどうするの?」
「私は……、バイトばかりになるかな」
奏(かなで)ちゃんは、その数少ないひとりだ。
「そしたら、もっとうちに来ればいいのに」
その言葉に台所に立つ叔母さんの反応を気にする。
「そんなにお世話になれないよ」
母親が迷惑を掛けているのに、娘までおんぶして貰う訳にはいかない。
「そうだ。雫(しずく)のせいでおかずが減るんだよ」
「こらっ。そんな事言わないの」
奏(かなで)ちゃんの平手が連(れん)君の頭に衝撃を与える。
「いってえなー」
「雫(しずく)ちゃんは、大変なのよ。親戚で助け合わなくてどうするのよ」
至ってド正論の奏(かなで)ちゃん。でも、姉弟の仲だと、どんな正論でも聞く耳持ちたく無い事が多い。
「だって、俺達の家族じゃ無いじゃんか。邪魔者だよ。邪魔者っ」
子供は、前後の見境も無くその場の勢いで発言する。だからと言って、聞き流せるものじゃない。連(れん)君がそう思っているという事は、叔母さんの家の中でそういう空気が流れているとも言える。
「何言ってんの! 困った時は助け合わないといけないでしょ」
叔母さんが慌ててフォローに入るが、言われた自分としては、複雑な気持ちになる。
「雫(しずく)ちゃん。大丈夫だからね。あいつの言う事なんか気にしなくていいからね」
奏(かなで)ちゃんの言葉も本当だろう。でも、連(れん)君の言葉も真実だ。
私は、邪魔者でしかない。この家でも、自分の家でも。
この家に来れば、少しでも心が安らぐと思った自分が馬鹿だった。自分自身が、この家族の安らぎの時間を乱している存在なんだ。
もう、私には居場所なんて無いんだ。
夏休みまであと数日。
太陽の凶暴な熱波がカーテンの透き間から私の肌に痛みを与える。
毎日、まんじりとしない夜を過ごす。
夕べは、母親は帰って来なかった。不意の帰宅に怯える猫は、末梢神経をやられ、神経過敏になる。時折、頭痛もして、足元がひどく揺さぶられる感覚に襲われる。
叔母さんの家から帰って来ても、心落ち着く事は無かった。逆に、より一層、不安が胸を覆い、悲しみが喉を掻き乱した。
時間も分からないまま、無理に体を起こし、空腹かどうかも判然としまいまま、何も口に入れずに自転車に跨る。
道端の雑草が緑なのかも分からない。ぼんやりと校舎に向かい、ぼんやりと机に座る。当てられても満足に答えられない。先生も半ば諦めている。
「大丈夫? 前よりひどくなってない? 病院行ったら?」
自称友達が心配そうな顔をこちらに向けているのが何時限目の事なのかもはっきりとしない。
出口の無い絶望の闇が常に私に纏わりつく。どうして、前より良くなるなんて望めるだろうか。病院行くお金なんて無い。それがあればご飯を買う。公共料金も滞納しているから、何とかしないといけない。どうせ、母親は家で寝るだけだから、電気も水道もガスもいらない。私がそこで生活しているのも忘れているのかもしれない。
教室の端で仲良しグループが盛り上がっている。
「ねえ。今度の土曜日、服を見に行かない?」
電車で山向こうの数駅先にある地方都市のアパレル店に行く相談をしている。たった十五分のショートトリップ。私には縁の無い世界。只、座ったまま時間が過ぎるのを待つだけ。私には、それだけしか出来無い。
長い、それだけの時間を送り、授業を終えた。
駐輪場に行き、自転車の鍵を外そうとした時だった。
「あの……。ちょっとだけいいかしら?」
私は、驚いて振り向いた。教室以外で私に声を掛けて来る猛者がいようとは。
私より少し背の高い女子生徒。セミロングの髪と大人しめな表情。目がぱっちりとしていて、白い肌。所謂、男性受けしそうな『女の子』だ。
どこかで見た事ある。そういえば、隣のクラスの子だったような。
「瀬南(せなみ)さん。この前、男の人と車に乗ってたよね」
心臓が止まりそうになるとは、正にこの事。
私の恐怖を察したのか、相手は両手を振って何かを否定した。
「あ、ごめんなさい。違うの違うの。あのね……」
もう、私の頭は突然のフリーズで何も処理出来なくなっていた。私が津々木(つづき)さんといる所を見られた。予期されていた事だけど、いざ指摘されると、どう対処すればいいのか分からない。相手が何を言っても、頭に入って来ない。
私は、相手の言葉を待たずに自転車を押し始めた。
「ご、ごめんなさい」
何を謝ったのか。私は、そのまま相手を残して一目散に学校を脱出した。
待ち合わせ場所を変えて貰った。
小さい町でも倒産した工場跡が並ぶ人気の少ない通りだ。
「別に俺は構わないけど、女の子には危ない場所じゃない?」
津々木(つづき)さんは、心配してくれた。
「今日、隣のクラスの女子生徒に言われたんです。男の人と車に乗ってたって……」
「あら、見られてたのか。どこで?」
どこで?
しまった。そうだ。
「え……。詳しい話は聞いてないです」
「突っ込んで聞かれたりしなかった?」
「はい。パニックになって、逃げたので……」
津々木(つづき)さんは、少し笑みを浮かべた。
「親戚のおじさんの車に乗ってたって言えば良かったのに」
そっかー。
「そんな余裕無かったです」
「雫(しずく)ちゃんらしいな」
運転しながら楽し気に笑っている。
「それは困ったね。逃げてしまった事で、如何にも怪しい関係だって事を言ったようなもんだね」
「ごめんなさい」
「いやいや。俺は別に構わないよ。どうせ、俺が誰だって知らないんだろうし。困るのは雫(しずく)ちゃんだからね」
「そうなんです」
「だから、あんな所で待ち合わせしたんだね」
「はい」
「でも、さっきも言ったけど、あそこは危ないよ。もっと別の場所を探そう」
その後、津々木(つづき)さんと私は、お互いにバレなさそうな場所を色々と話し合った。
個室がある居酒屋に入る。
「状況が状況だから、こういう所の方が見られる可能性が少ないからね」
確かにそうだ。
津々木(つづき)さんは、適当に料理を頼んだ。
「もし、食べれないものがあったら、俺が食べるから、好きな物食べていいよ」
「すみません。そんなに気を使って貰うなんてあまり無いから、本当に嬉しいです」
「そう? お父さんやお母さんは?」
今まで家の事を話して無かった。私が言わない限り、津々木(つづき)さんも敢えて聞いて来なかった。
「うちは、普通では無いので……」
「そうか……」
津々木(つづき)さんは、ひと呼吸置いた。
「そういう話は、良く聞くよ」
良く聞く? 誰に?
そういえば、津々木(つづき)さんの若い子に対する手慣れた感じ……。
「津々木(つづき)さんは、他に女の子はいるのですか?」
つい、聞いてしまった。どんな答えを期待していたのか。
「うん。そうだね。今はいないよ。今はいないけど、以前はいたね」
今はいない。女の子としてはパパさんの言葉を信じるしかない。
初めて気付いた。
いつしか、私は津々木(つづき)さんとの関係がずっと続くと思っていた。
こんなに女性の扱いが上手な津々木(つづき)さんだから、他に女の子がいてもおかしくない。
運ばれて来た焼き鳥の五種盛りに食らい付く。食べながら、津々木(つづき)さんの事を考える。
寧ろ驚いたのは、津々木(つづき)さんに対する自分の気持ちだった。他の子に取られたく無いという気持ちが起こるとは思わなかった。恋愛感情では無い。一緒にいて安心出来る存在、津々木(つづき)さんといる時間は、精神的に落ち着ける唯一の癒しになっていた。
「ほんとに今いないよ」
津々木(つづき)さんは、重ねて強調した。津々木(つづき)さんも焼き鳥に手を伸ばした。
「俺も食べていいかな?」
「はい」
「どれ食べるの?」
「あ、軟骨は苦手なんです」
「了解。じゃあ、軟骨食べるね」
この心遣い。下手な駆け引きを必要としないように心掛けてくれる。そこが津々木(つづき)さんらしい所。
他に付き合っている人がいてもいなくても、女の子はパパさんに頼らざるを得ない。私が器用な人間なら、SNSで他のパパさんを探して、二、三人平行して付き合えるかもしれないけど、女の子って、結構、一途というか独り占め気質というか安定を求める傾向にあるというか、自分の世界を乱されたくない気持ちが強い。だから、複数の人を相手に忙しく頭を働かせるよりは、ひとりの人との強い結び付きを求めがちだ。
その気が自分にもあるという事を改めて思い知らされた。
「あの……」
その時、携帯電話が鳴った。
画面を見て心が萎える。
母親からだった。
私が顔を引きつらせながら津々木(つづき)さんを見た。
「いいよ。電話して」
いや、そういう意味でこの表情じゃないんだけど。
私は、そそくさと電話を手にお店を出た。
いつも通り電話口からうるさいBGM。大体、二種類しかない。飲み屋の喧騒かパチンコ屋の喧騒だ。今日は、パチンコ屋だった。
「ちょっと、どこにいるの? お金持ってない?」
第一声がこれだ。契約の見直しみたいに、血の繋がりも一切断ち切れないものだろうか。
「無いわよ。この前持って行ったくせに」
「バイト代があるでしょ」
「それを取られたのよ」
「何よ。取られたって人聞きの悪い事言わないの。親にそんな事言うもんじゃ無いよ」
「兎に角、無いものは無いの」
「全く役立たずね」
捨て台詞は毎回言われる。こんなに親に罵倒されて、平静でいられるのなら、その人はどこかイカれてる。
「すみません」
席に戻って頭を下げると、「いいよ、いいよ」と津々木(つづき)さんは言ってくれた。
「母親からの電話で……」
一応、言っておかなければならないだろう。
「ああ、そうなんだ」
津々木(つづき)さんは内容まで聞かなかった。
母親への苛立ちとやるせなさで会話も途切れがちになっているのを見かねたのか、津々木(つづき)さんは、俯きがちな私の顔をチラリと覗き込んだ。
「何かあった?」
今までなら、どんな大人でも口を開かなかっただろうけど、出会ってからいつも穏やかに私を受け入れてくれた津々木(つづき)さんの優しい言葉と誰にも見られていないという安心感が私の固い心をほぐしてくれたのだろうか。私は、唐揚げを頬張り、しばらく悩んだ末に、ポツリポツリと母親との関係を話し始めた。
津々木(つづき)さんは、黙って私の話を聞いてくれた。
私が話し終えると、津々木(つづき)さんは途中で運ばれて来た料理を私の前に置き直してくれた。
「今日も、そんなに食べてないの?」
「はい。お昼にパンをひとつだけ食べました」
「まだ、お金が必要かな?」
私は、考えた。そういう問題じゃ無い。
「お金は……。あれば嬉しいんですけど、持っていてもどうせあの人に取られるだけだから……」
「でも、このままじゃ飢え死にしてしまうよ」
津々木(つづき)さんは、少し笑いながら私を見た。
「うーん。でも、無駄にしてしまいます。津々木(つづき)さんに悪いです」
「いや。そこは、大丈夫だけど。雫(しずく)ちゃんの役に立つなら文句言わないよ」
「ありがとうございます。そこまで言って貰えるのは初めてなので、どうすればいいのかも分からないんです」
「そうだよね。ちなみに、ひと月に大体幾らくらい必要なのかはある?」
「え? 必要なお金ですか? そんな事考えた事も無いです」
「でも、いつも何が足りないか考えたら、大まかに出て来ない?」
「そういうのは分からないんです。いつも、足りないお金で何とか生活しているだけなので、家計簿みたいなのをつけた事も無いですし、私、そういうのは苦手で……」
「そっかー」
お金には困ってるけど、実際に幾ら足りないかなんて、本当に考えた事無かった。母親が、あればあるだけ持って行く為、計算する意味も無いから。
確かに、これからも津々木(つづき)さんに頼って行くなら、そういうのも必要かもしれない。
「もし、今よりお金が必要だと言ったら、それだけ沢山会ってくれるのですか?」
「うーんと、そうね。会う回数を増やすって訳じゃ無いけど……」
「……」
津々木(つづき)さんは、一旦口を閉ざして、言葉を選びながら慎重に話してくれた。
「……ホテルとか考えてる?」
そういう事ね。
「あ……。私、まだ経験無いので、考えた事無いです。津々木(つづき)さんとも最初からその気じゃ無かったから……」
「うん。そうだよね。ごめんね。只、そういう関係になったら、それなりのお小遣いを渡す事が出来るっていう話でね」
本当にご飯以上の関係は頭に無かった。突然の事だから、少し戸惑ってしまった。
「雫(しずく)ちゃんさえ良ければ、そういう事も出来るっていう事だよ。食事で会うよりもたくさん稼げる方法もあるっていう話でね」
「本当に、今の生活でたくさんお金を貰っても、あの人に取られるだけなので、私には意味が無いんです」
「家を出るのは考えて無いの?」
その言葉は、私に衝撃を与えた。
「家を出るっていうのは、家出をするっていう事ですか?」
「まあ、家出って言ったら、また違うけど。家を出て、ひとり暮らしをしたらいいんじゃない?」
ひとり暮らし。それは、今まで完全に閉ざされた暗黒に封じ込まれた私にとって、初めて拓けた一筋の光だった。
「ほら、地方の女の子が高校卒業したら、憧れの東京に上京するってやつ」
「でも、東京に行く為に電車代とか家賃とか掛かりますよね」
「だから、その為に、卒業までにお金を貯めておかなくちゃいけないよね。ホテルに行ってくれるなら、必要資金くらいは貯めれるんじゃない?」
私は、お箸を手にサイコロステーキを小さな鉄板の上で延々転がしていた。
新しい生き方が目の前に開けた気がしていた。それは、胸の奥に貯まっていた黒いヘドロを押し流す力があった。
東京に行けば、母親はいない。
私の思いは、その一点に集中していた。
でも、その為には、大きな壁を乗り越える覚悟が必要だった。
私は、答えを出せなかった。
もう、人生に絶望して、何を失っても構わない筈だった。
いつ死んでもおかしくない。今の私なら死ぬ事も容易い筈だった。
津々木(つづき)さんとホテルに行くのと、死ぬ事どちらを取るか。
そんなに悩む程大きな問題では無い筈だ。最低の選択なのは間違い無いけど。
別に津々木(つづき)さんが嫌だからでは無い。その行為、他人を自分の中に受け入れるという行為に抵抗がある。
「ごめんなさい。まだ、そこまでは考えて無いです」
私が恐る恐る言うと、津々木(つづき)さんは、柔らかく受け止めてくれた。
「うん。それは構わないよ。俺も無理させるつもりは無いからね。只、そういう方法もあるって言っただけだから。後は、雫(しずく)ちゃんの気持ち次第だからね。
この人、どんだけ優しいんだろう。普通なら、こんな女は脈無しと判断して、もう会いたくなくなるものじゃないのかな?
「ちょっと、考えさせてください」
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