第36話 アクセルとレリアに

 コリーンは、コリーンセレクトロレンツォヴァージョンを嗅いだ。

 しかし虚しいだけ。

 ロレンツォの香りが嗅ぎたくて、これを買った。

 けれどもやはり違う。この香水は、ロレンツォがつけることで初めて完成するものなのだ。


「……はぁ」


 コリーンは寮の自分の部屋で、その香水を一人眺めていた。

 ロレンツォは今頃なにをしているだろうか。姿を見てしまうと、寂しさが募った。実際に互いの存在を無視することで、悲しさが増した。

 ロレンツォはどうだろうか。やはりつらいに違いない。でも好きになってくれない以上、一緒にいてはコリーンがつらいだけだ。そしてロレンツォにも彼女ができないのだからと、気持ちを噛み殺す。


 そんな風に塞ぎ込んで、しばらくが過ぎた頃、ある人物が、コリーンのいる寮に尋ねてきた。寮母が慌ててコリーンの部屋をノックしてきて、何事かとコリーンは首を傾げる。


「コリーン! 騎士隊長様がっ! 応接間、急いで!」


 ロレンツォだと思った。この寮に、わざわざコリーンを訪ねに来る者など、他にいない。


 どうしてロレンツォがここに?

 変な噂立てられちゃったら、困るのはロレンツォの方なのにっ


 コリーンが慌てて応接間に向かうと、そこには……


「久しぶりだな、コリーン」


 なぜか、金髪の美青年がいた。


「アクセル……どうしたの?」

「少し話があってな。座ってくれ」


 促されるまま、コリーンはそこに座る。

 アクセルはコリーンが座ったのを確認すると、こう切り出してきた。


「ロレンツォが、塞ぎ込んでる」

「え? 病気!?」

「そうだな、多分」

「……多分?」


 アクセルの不確定な物言いに、コリーンは首を傾げた。


「コリーンは元気か?」

「え? 私? 見た目通り元気だけど」

「そうか……ならいいんだが」


 アクセルがなにを言いたいのかがわからない。ただ、彼も元気がないように思える。


「ロレンツォの具合……悪いの?」

「気になるなら、確かめてくるといい」

「そういうわけにはいかないよ。元彼女がロレンツォの周りをうろちょろしてたら、ロレンツォに新しい彼女ができないでしょ。もうすでに彼女がいるかもしれないし」

「いない。ロレンツォに恋人と呼べる人は、今のところ」


 恋人がいないと聞き、明らかにホッとしている自分がいて、コリーンは呆れる。ロレンツォの幸せを願っているはずなのに、なんて性格が悪いのかと。


「ロレンツォは、コリーンに会いたがってる」

「……本当に? ロレンツォがそう言ったの?」

「いや。だが、見ていればわかる。コリーン、どうしてロレンツォの家を出た? ウェルス殿の結婚式の時、ロレンツォが好きだと言っていたのは嘘だったのか?」


 アクセルの言葉は、責めるような口調では発せられなかった。彼も結婚して、丸くなったものだ。


「好きだったよ。それは間違いない」

「もう好きじゃなくなってしまったのか」

「そうじゃないんだけど……」

「では、今でも好きか」


 アクセルの真っ直ぐな問いに、コリーンは嘘など付けなかった。ゆっくりと、本当にゆっくりと首肯する。

 そんなコリーンを見て、アクセルの表情は少し和らいだ。


「わかった。二人にどんな事情があったのかは聞かない。ただ、もう一度だけロレンツォに会ってやってくれないか」

「それは駄目だよ。二人っきりでは会えない」

「うちに来ればいい。俺が二人を家に招待すれば、記者だって変に勘ぐったりはしないさ」

「そんな、奥さんに悪いよ!」


 コリーンが慌てて両手を振ると、アクセルはハハッと笑った。


「大丈夫だ。レリアは全部知ってる。俺とコリーンが深い関係だったことも、この香水がコリーンの作ったオリジナルの物だということも。ロレンツォとコリーンを引き合わせるために家を使いたいと言うと、二つ返事で了承してくれた」


 さすがは嘘の嫌いなアクセルだ。妻を前に、全てを話したのだろう。そしてそれを意に介さず、全てを受け入れられる人だから、アクセルの妻になれたに違いない。

 彼が今も使ってくれているコリーンセレクトの香りを感じて、そう思った。


「コリーン。来週の日曜、図書館に来てくれ。ロレンツォとの場を作る」

「でも」

「俺もいれば問題はないはずだ。頼む」


 友人のために必死になるアクセルに、コリーンは頷きを見せた。アクセルは明らかにホッとし、息を吐いている。


「ありがとう。じゃあ日曜に図書館で」


 アクセルはそう約束を確認し、帰っていった。


 その約束の日曜日になり、コリーンはいつも利用している図書館に向かう。

 そこでロドリオ・クルースの小説を読んでいると、入り口からアクセルの姿が現れた。その隣にロレンツォの姿を確認して、コリーンの胸はドクドクと高鳴る。


「これはこれは、いつも図書の寄贈をありがとうございます」

「ああ。ロレンツォ、ここに置いてくれ。すまないな、付き合ってもらって」

「いや。特に用事はなかったからな」


 二人は両手に抱えた本をバサリとカウンターに置いていた。きっと、ロレンツォに本を選ばせたに違いない。


「よければ、今から俺の家に来ないか? 新居に来たことはないだろう」

「そうだな。レリア殿とシャーリーにも久しく会っていない。お邪魔させてもらうか」

「そうしてくれ。……ん? あそこにいるのはコリーンじゃないか?」


 少しぎこちない演技で、アクセルはこちらに近付いて来る。ロレンツォはコリーンを確認した途端、少し固まってしまっていた。


「コリーン、また勉強してるのか?」

「ううん、ちょっと本を読んでただけ」

「そうか。もし暇なら、コリーンもうちに遊びにこないか? 妻と子ども達を紹介したい」


 ゆっくりと追いついてきたロレンツォを見ると、彼は苦り切った表情をしている。視線がアクセルの方に向けられているところを見るに、「コリーンの気持ちを考えろ」とでも思っていそうだ。


「アクセルの奥さんと子ども? うん、ぜひお会いしてみたいな」


 コリーンがこう答えるとは思ってもいなかったのだろう。ロレンツォは表情を驚きに変えている。


「じゃあ、二人ともうちに招待しよう。少し歩くが、来てくれ」


 手にあった本を元の場所に戻し、コリーンはアクセルについて行く。ロレンツォもまた、なにかを言いたそうにしていたが、言葉にすることなくアクセルに続いた。

 サウス地区には、大きな屋敷しか見当たらない。その中の一軒に、アクセルは入っていった。


「ただいま、レリア。お客様だ」


 アクセルがそう声を掛けると、奥から大きなお腹を抱えた女性が出てきた。そう言えば、二人目ができるとロレンツォが言っていたが、今にも生まれてきそうなお腹である。


「あら、ロレンツォ様。いらっしゃいませ。お久しぶりですわ」

「ああ、レリア殿もお変わりなく」

「レリア、こっちがコリーンだ」

「コリーンセレクトの方ですわね。いつもこの香りを堪能させて頂いております。どうぞこちらへおいでくださいませ」


 屋敷の広さは、アクセルの実家の十分の一ほどだろうか。それでも部屋数は優に二十はあるだろう。イースト地区にあるロレンツォ邸と比べても、三倍以上の敷地面積があるに違いない。ひとつひとつの部屋の広さが違う。さすがは天下のユーバシャール家である。

 アクセルに促されて部屋に入ると、そこには少年と、よちよち歩きの女児、それに召使いの女性がいた。召使いの女性は、皆が部屋に入ると同時に部屋を出ていく。


「紹介しよう。長男のクロード。次女のシャーリーだ。長女のレリアはヨハナ家に嫁いでいてここにはいないが、もし会うことがあればよくしてやって欲しい」


 紹介を受けたクロードは、丁寧に頭を下げてくれた。

 妻の方の連れ子のようだが、アクセルと顔は似ても似つかないのに、その真面目な立ち居振る舞いは、親子と思わせるのに十分であった。

 シャーリーは歩くのが楽しくて仕方がない様子で、コリーンらが来てもあちこち歩き回っている。

 後ろから先ほどとは違う召使いが入ってきて、カップに紅茶を注いでくれた。しかし、二人分だけ。


「レリア、クロード、部屋を出よう」


 そう言いながらアクセルはシャーリーを追いかけ、彼女を抱き上げる。ロレンツォが驚いたように声を上げた。


「おい、アクセル?! どういうことだ?」

「ここでなら、二人きりで気兼ねなく話せるだろう」

「……最初からそのつもりだったな?」


 ロレンツォがギロリと視線を向けると、レリアがアクセルを庇うように前に出た。


「ロレンツォ様。アクセル様を責めないでくださいまし。私達は、ロレンツォ様に恩返しをしたいだけなんです」

「恩返し?」


 ロレンツォが訝しげな表情を送ると、レリアは頷く。


「ええ。あの日、私はロレンツォ様にこう言われました。『二人とも避けようとせず、一度ちゃんと話してみるべきだ。どうしたいのか。どうしてほしいのか。そうすれば、すべきことが見えてくるはずだ』と」

「……」

「私達ができるのはここまでです。誰もこの部屋に近付けさせませんので、ごゆっくりどうぞ」


 ユーバシャール一家はこの場を出て行き、コリーンはロレンツォと共に残された。

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