第35話 少し痩せた彼に
コリーンが教師として働き始めて、一ヶ月が経った。
国語教師として、忙しくも充実した毎日を送っている。
「コリーン先生、どうですか? なにかわからないことはありませんか?」
「ローダ先生。いつもありがとうございます。今のところ、特に困ったことはありません」
同じ現代文担当のローダは、三十を半ばも過ぎた中堅の男性教諭だ。眼鏡をかけた痩せ型の男である。新人のコリーンをよく気遣ってくれて、コリーンもまた、彼を頼りにしている。
「そうですか。なにかあったらすぐに言ってくださいね。私でよければ力になりますよ」
ローダは温和な教師だ。いつもほんわかとした空気が彼を纏っている。他の男性教師のように飲みに誘われたりしないし、優しくて生徒にも人気のある先生である。
コリーンの目指す教師の理想像は、まさにローダであった。
ある日曜日のこと。
コリーンは本屋である作家の小説を探していると、同じ棚のところでローダを見つけた。
「あ、ローダ先生」
「おや、コリーン先生。奇遇ですね。なんの本をお探しですか?」
「ロドリオ・クルースという作家の新刊が出ていないかと思いまして」
「ああ、出ていますよ。昨日書店に並んだばかりです。はい、どうぞ」
ローダはすぐさまその本を手に取り、コリーンに渡してくれた。コリーンはお礼を言いながら、いつも以上にニコニコとしているローダに疑問をぶつける。
「ローダ先生も、ロドリオ・クルースの作品を読まれるんですか?」
「ええ、まぁ。コリーン先生はロドリオ・クルースがお好きで?」
「はい。この文章の書き方が勉強になるっていうか、内容は少し複雑ですけど読み解くのが面白くて。恋愛要素が入っているのもいいですね。ミステリーでありつつ、女性読者が多く付いているのも頷けます」
ロドリオ・クルースの作品は、いつもは図書館で借りる。その作家だけでなく、今まで小説の類は買ったことがなかった。しかし初任給が入ったコリーンは、初めて彼の作品を買うことにした。図書館ではすぐ誰かに借りられてしまい、いつ読めるか分からないからだ。
今まではそれでも我慢していたが、借金も無く、生活に十分な給金をもらえるとなると、我慢できなくなった。
「コリーン先生、もしよければどこかでお話できませんか?」
「どこか?」
「昼食には早い時間ですから……どこかのお店で、お茶でも」
「お茶、ですか」
これはナンパだろうか。しかし相手は同僚の教師だ。他の男性教師から誘われるようないやらしさは感じない。
「いや、すみません。ロドリオ・クルースと聞いて、つい調子に乗ってしまいました」
「え? いえ、クランベールというお店でもいいですか? そこに用事がありまして」
「クランベールですか!」
「ご存知です?」
「ええ、一度入ってみたいと思っていたんですよ。でも男一人じゃ中々勇気が出なくて」
あの少女趣味な店に入ってみたかったとは、変わった男である。三十の半ばでまだ独身というし、そっちのケでもあるのではないだろうかと疑ってしまう。
「じゃあ、クランベールで」
「ええ。楽しみだなぁ!」
キラキラと目を輝かせているローダ。そんな彼を少し訝りながらも、コリーンはロドリオ・クルースの新刊を購入。そして二人はクランベールに向かった。
中に入ると、ローダは物珍しそうにキョロキョロしている。二人は向かい合わせに座り、紅茶を注文した。
「中はこんな風になっているんですね。面白い」
「まぁ、男性向けじゃありませんけど」
「しかし意外に男性客の姿もあるんですね。ほとんどが上に行っているようですが」
「二階に香水が置いてあるんですよ。あまり知られてないんですが、ここの品揃えはトレインチェでもピカイチなんです」
「香水かぁ。私にはあまり縁のない話だ」
ローダが眉を下げながら笑っていると、紅茶が運ばれてくる。
彼はそれに砂糖を三杯淹れて、くるくると掻き混ぜた。甘党のようだ。
「ところでコリーン先生は、ご自身でなにかを書かれたりしますか?」
「なにかとは?」
「例えば、小説なんかを」
「いいえ、私は読む専門で」
「そうですか。実は私は書く方も専門で。ロドリオ・クルースというのは、私のペンネームなんですよ」
「……えっ!?」
ローダの告白にコリーンは目を広げる。昔から好きだった作家が、今目の前にいて、コリーンは大いに戸惑った。
「ローダ先生が? ロドリオ・クルース!? ほ、本当ですか?!」
「ええ、でも内密にお願いします。教師は副業禁止ですからね」
「ロドリオ・クルースなら、小説だけで食べていけるんじゃ……」
「私は教師という仕事が好きなんですよ。仕事の合間に趣味で書いていたものを応募してみたら、デビューしてしまって」
「うわあ、すごい。尊敬します!」
「や、やめて下さい、コリーン先生」
彼は照れたように笑い、頭を書いている。十歳以上も年上の人になんだが、可愛い人だなという感想を持った。
二人は本の話で大いに盛り上がった。ローダは筆だけでなく弁才もあり、さらには聞き上手だ。コリーンは話すことには長けているが、相手の気持ちを汲んだ会話ができているかとなると別の話である。ローダのこんなところにもコリーンは憧れを抱いた。
「すごい、本当に私の作品の全てを読んでくれているんですね」
「毎回新刊が出るのが楽しみで。この本も早く読みたくて仕方ありません」
「嬉しいなぁ。じゃあ、どのシリーズが一番好きです?」
「決めきれませんよ、どれも味があって面白くて。ローダ先生の、全部大好きです」
そう言った時、一人の男がコリーンの横を通って行った。
コリーンはハッとして顔を上げたが、顔を見なくとも分かる。その彼の残り香を、コリーンが間違えるはずもない。
ロレンツォが、首だけ後ろを向いた。流された目が、少し悲しげだった。でも、それだけだ。彼はもう振り返ることなく、二階へと上がっている。
「おや、今のはロレンツォ様ですね」
ローダが後ろを振り向いてロレンツォを確認している。その時、水のお代わりはいりませんかとウェイトレスがテーブルを訪れた。ローダはそれを断り、お金を払って立ち上がる。
「あ、すみません。私の分は三百ジェイアですよね」
「いいですよ、それくらい」
「でも」
「それより二階に行ってみたいので、付き合って貰もらえませんか? 小説のネタになりそうなところには、行ってみたくて仕方ないんですよ」
「それでクランベールに誘っても、喜んでたんですね」
理由が分かって微笑むと、やはりローダは恥ずかしそうに頭を掻いていた。そして彼はそのまま二階に上がる階段を昇っていく。仕方なく、コリーンもそれに続いた。
今日の用事は、クランベールの二階にあるのだ。コリーンセレクトロレンツォヴァージョンを、自分で買おうと思って。
しかし今、二階にはロレンツォがいる。もうすでに見られてはいるが、他の男と一緒にいる姿をあまりロレンツォに見られたくない。
「ロレンツォ様、いつものでよろしいですね?」
「ああ。それとユーファミーアヴァージョンも頼む」
「こちらはプレゼントですか? お包み致しましょうか」
「そうだな、お願いしますよ」
「かしこまりました、少々お待ちください」
二階では調香の師匠が対応していて、ロレンツォは二つの香水の調香とラッピングが終わるのを待っていた。
「うわー。凄いですね、この香り。香水の売り場なんて、初めて入りましたよ」
「ローダ先生は、どうして香水をつけないんです?」
「どうして? うーん、そう聞かれると返答に困るな。親もつけていなかったから、そういう習慣がないんだろうな。つけてみたい気持ちはあるけど、何がいいのか分からなくて」
「もしよければ、私が選んでもいいですか?」
「え? ええ、ぜひお願いします」
ローダに似合いそうなのは、グリーン系の香水だ。しかしそれだと爽やか過ぎてしまうだろう。もっとローダらしく、優しさのある香りが良い。爽やかで、純朴で、それでいてセンスの良い香りだ。
コリーンは既製品でいい物があることを思い出し、その瓶を手に取る。
「これはどうでしょうか。ユニセックス用ですが、ローダ先生にピッタリだと思うんです」
「『グリーンコスモス』?」
「ええ、グリーン系とフローラル系が混ざった、爽やかでいて鼻にツンとこない優しさがあるんです」
香水の蓋を開けて嗅いでもらうと、ローダは嬉しそうに頷いた。
「うん、これ買ってみようかな」
「ぜひ。ローダ先生につけてほしいです」
「コリーン先生にそう言われては、仕方ないなぁ」
苦笑いをしながら、ローダはそのボトルをレジに持っていく。そこではコリーンの師匠とロレンツォが談笑していた。
後ろにローダがいるのに気付いたロレンツォは、半歩避ける。
「失礼」
「いえ」
ロレンツォは香水の入った袋を持ち、師匠に挨拶している。
「ではまた今度食事でも」
「Aさんに嫉妬されちゃわないかしら」
「今は彼女にも新しい恋人ができたようですから」
「そうなの? 私にはそうは見えませんけどね」
師匠はこちらにチラリと視線を泳がせて来た。師匠にプライベート事を話したことは一切ないし、聞かれたこともないが、勘のいい彼女だ。アクセルとのこともロレンツォのことも、全て分かっているに違いない。
ロレンツォは最後にありがとうと礼を述べて、レジから離れていた。コリーンの立っている階段に向かって歩いてくる。
「……」
「……」
ロレンツォは、通り過ぎた。なにも言わずに、無表情のまま。
タンタンタンと小君いい音を響かせながら、階段を降りていく。少しの残り香だけを、コリーンに残して。しかしそれもすぐに、別の香水に掻き消されてしまった。
ロレンツォ、ちょっと痩せてたな……
仕事忙しいのかな。
ちゃんと食べてるのかな……
嘆息すると、目の前には別の人影があった。
「コリーン先生、ありがとうございます。お陰でいい香水が手に入りました」
「あ、いえ。お役に立てたなら、よかったです」
そう言って階段を見下ろす。
ロレンツォの姿は、すでにそこにはなかった。
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