第32話 完璧な離縁に

 さらに一年後。コリーンは無事に歴史と現代文の教師資格を取得した。

 春からは、ウエスト地区にあるトレインチェ西高校の現代文の教師として働けることになった。

 そう、もう少しでロレンツォとお別れだ。


「ユメユキナが妊娠したぞ。出産は来年の二月だ」

「そっか、よかったね!元気な子が生まれるといいな」

「それまでに名前を考えておいてくれよ。コリーンに名付け親になってもらうという約束だからな」


 確かに、そういう約束をしていた。忘れていたわけではないが、コリーンは首を横に振る。


「ロレンツォが付けてあげて」

「……どうしてだ? あれだけ名前を付けるのを楽しみにしていたじゃないか」

「だってその頃、私とロレンツォは一緒にはいないでしょ。きっとユメユキナの子どもも見に行けない。だから、ロレンツォが名付けた方がいいよ」


 春が来れば、コリーンはここを出て教員の独身寮を借りる予定だ。駆け出しの教員の給料は安いため、こうするのが習わしである。


「見に来ないのか? ユメユキナの子どもを」

「そりゃ、行きたいけど……その時にはロレンツォも彼女がいるだろうし。元彼女設定の私が、うろちょろしない方がいいと思うよ。それくらい、わかるでしょう」

「コリーンはそれでいいのか?」


 ロレンツォの問いにコリーンは眉を寄せる。


「いいのかって、どういう意味? そうするしかないと思うんだけど」

「……このまま、ここで暮らしてもいいんだぞ。独身寮と言えど、金が掛かるだろう?」

「大丈夫、ちゃんと節約して、大学にかかったお金は返していくから。そうすればアクセルにした借金もすぐに返せるでしょ」


 その言葉に、ロレンツォの顔が歪むのが分かった。コリーンはわけが分からず首を傾げる。と。


「俺が金をアクセルに借りていたこと、知っていたのか」


 コリーンはハッと口を押さえた。迂闊だった。言うつもりはなかったというのに。彼の矜持を保つためにも。

 ロレンツォは気まずいコリーンを見て嘆息している。


「全部、知っているのか?」


 ロレンツォの問いに、コリーンはどうしようもなく、白状することにした。


「……うん。ロレンツォがこの腕輪を買い取るためにした借金だってことも聞いた。ごめんね、高かったでしょ……借金を背負うくらいに」

「……まあ、な」

「アクセルに口止めされてたのに、つい……ごめん。この腕輪の分のお金も、いつかちゃんと返すから」

「大学にかかった費用が二百二十八万ジェイア。腕輪は四百八十万ジェイアだが、コリーンに返せるのか?」


 腕輪の金額が思っていたよりもかなり大きい額だった。大学費用と合わせて、七百八万ジェイアである。そんな大金、見たことがない。


「……月に十万ジェイア工面するから……そうすれば、六年あれば返せるよ」

「六年後、コリーンは三十五歳……実年齢は二十九歳だぞ。そんなに長い間、結婚もせずに働き続けるつもりか?」

「意に沿わない結婚をするよりは、独身でいいよ」


 まだファレンテイン市民権を得ていなかった頃。ロレンツォがリゼットと付き合っていた頃。

 もし市民権を得る前に、ロレンツォと離婚しなければならなくなったらと考えたことがある。そうなればファレンテイン市民権を得るために、意に沿わぬ結婚も止むなしと覚悟していた。それを思えば、独身でいることの方がはるかにいいのは確かだ。


「結婚願望は強い方と言っていなかったか?」

「そうだけど、相手が……ほら」

「既婚者だから、か」


 ロレンツォの呟くような言葉に、コリーンは首を傾げた。ただ単に相手がいないだけなのだが。そんなコリーンに、ロレンツォは続ける。


「今度、二人目ができるらしい」

「……誰が?」

「だから、アクセルがだ」

「あ、そう……なんだ」


 なんと言っていいかわからず、そう言うに留まる。居心地の悪い沈黙が始まり、コリーンは再び首を傾げた。なぜいきなりそんな話になったのだろうか。


「じゃあ、卒業式が終わり次第、私はここを出るね」

「……金は、返さなくていい」

「え?」

「アクセルならそう言いそうだ。真似するわけじゃないが、俺も格好つけさせてくれ」

「そんなわけには……」

「それと、これはお前のために貯めていた金だ。少ないが、受け取ってくれるか」


 唐突の借金返済免除の申し出。さらには封筒を渡されてしまった。思わず中を確かめると、そこには十七万ジェイアが入っている。


「ロレンツォ、これ……」

「本当はコリーンが結婚する時のために、もっと多くの金を用意しておいてやろうと思っていたんだが………」


 生活費を払いながら。大学の費用を払いながら。借金を返しながら。これだけのお金を貯めてくれていたのかと思うと、涙が出る。


「……こんな……もらえないよ……」

「これでお前も、六年も待たず結婚できるな?」

「……ロレンツォ」


 コリーンは、別の意味で涙が出てきた。

 ロレンツォは、自分と完璧に縁を切りたいのだろうと考えて。

 今後六年もの間、毎月毎月お金を返しにきてほしくなどないのだろう。記者への言い訳や、彼女ができていた時の言い訳に困る。

 今結婚用のお金をくれたのも、コリーンの結婚の時に顔を出したくない……もしくは彼女や妻となる人がいる可能性が高いため、行けないと想定したに違いない。

 借金を帳消しにすれば会うことはなくなる。今のうちに祝い金を渡しておけば、義理は果たせる。つまり、そういうことだ。

 このお金を受け取ることこそが、最大の恩返しに繋がるのかもしれない。迷惑を掛け続け、拘束をし続け、お金を出させ続けてしまった女との、完璧な離縁こそが。

 それこそが今後のロレンツォの幸せなのだと気付いた時、コリーンの涙は勝手に溢れた。


「コリーン?」

「ひっく……ごめん、ロレンツォ……ありがとう」

「大丈夫か?」

「うん……十三年間……本当にお世話になりました……私、ロレンツォに出会えて……ロレンツォに育ててもらえて、本当によかった。最後の最後まで迷惑掛けっぱなしだったけど……。私、ロレンツォと暮らせて幸せだったよ」

「ああ、俺もだ」

「今まで、本当にありがとう……ロレンツォ、これからも元気で……幸せになれるよう、祈ってます」


 コリーンは心の底から感謝の意を告げた。しかしその直後、ロレンツォの瞳から、一筋の涙が頬を流れ行くのが見えた。いつかの時と同じyぷに、わずかに床が濡れる。


「ロレンツォ……?」

「……年だな。涙もろくなった。今すぐ出て行くってわけじゃないのにな」


 ロレンツォは目元に手を当てている。そしてゆっくりと呼吸を整え、その手を外した。もう彼は泣いてはいなかった。


「元気でやれよ。コリーン先生の活躍を期待してるからな」

「うん、頑張るよ。ロレンツォも体に気を付けてね。無理しないで」


 コリーンがそう言うと、ロレンツォはコリーンの体をぎゅっと抱きしめてくれた。

 慈しむように。優しく……それでいて強く。

 コリーンセレクトロレンツォヴァージョンの香りが彼の体臭と相まって漂って来る。

 コリーンにとって、幸せの香り。幸せの象徴と呼べる香り。

 それがもう、おそらく、二度と嗅げなくなる。

 もしも町で出会っても、会釈する程度の関係になってしまうだろう。

 ロレンツォの彼女が横にいれば、それすらもできない。

 これからコリーンセレクトの香りを嗅げるのは、その彼女になるのだ。

 アクセルの妻となった人が、今そうしているように。


「寂しくなる……」

「偶然、擦れ違うことだってあるよ」

「話し掛けてもいいか?」

「駄目。変な風に書き立てられちゃ、幸せになれないよ。お互い」

「……そうだな」


 ゆっくりと優しい拘束を解くロレンツォ。うっすらと、涙の跡が見える。


 長い時間を共有してきたんだもんね。

 それがいきなり他人に戻るんだから、ロレンツォも苦しいんだ。

 娘を嫁に出す気持ちなのかな。

 でもここできっちりさよならしないと、ロレンツォは彼女を作れないんだから。

 私がわがままを言っちゃ、駄目だ。


「大丈夫か、コリーン。しっかりやれるか? セクハラにあったらすぐに騎士団本署の相談窓口を利用するんだぞ。それから部活動等の時間外労働に関しては……」

「ロレンツォ」


 相変わらず過保護な彼に、コリーンは真っ直ぐ目を向けた。


「いつかロレンツォの子どもに、先生って呼ばれる日がくるかもしれない。そんな日を夢見て、私頑張るから。もう心配しないで。ロレンツォの帰りを待って、震えてただけの子どもじゃないんだから」


 コリーンが言い切ると、ロレンツォは寂しそうに「そうだな」と言うに留まった。


「色々ありがとう、ロレンツォ」

「なにか俺に出来る事はないのか……?」

「じゃあ、ひとつだけ」

「なんだ、なんでも言ってくれ」


 一瞬だけ嬉しそうにしたロレンツォだったが、コリーンが「北水チーズ店に私を紹介しておいて」と頼むと、またも悲しい表情に戻った。


「そう、だな……わかった、伝えておこう」


 ロレンツォは複雑な表情でそう言い、そして家を出て北水チーズ店に行ってくれたようだった。

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