第26話 テーブルの上が、わずかに

 ロレンツォとの夕食時にコリーンは切り出した。食事は相変わらず質素で、ロレンツォがお金を貯めてくれていることがわかる。


「あのさ、ロレンツォ」

「どうした?」

「私、今回不合格だったら、大学は諦めるね」


 なるべくさらりと言ったつもりだった。そうすれば、ロレンツォもさらりと流してくれそうな気がして。しかし実際の彼は、すごくつらそうな顔をしていた。


「……」

「……」


 ロレンツォはしばらくなにも言わず、コリーンもそれに合わせるように黙った。

 そしてロレンツォの食事をとる手が止まると、そっとフォークをおろしてこんな発言をしてきたのだ。


「もし不合格だったら、俺と結婚するか?」


 耳を疑った。一体何がどうなって、そういう話になるのか。


「あの……聞いてた? 私、大学は諦めるって話をしてて、何でそうなるの?」

「諦めたら働き口を探すんだろう? 永久就職だ」

「やだよ、お金が入んないような就職先は」

「小遣いくらいは渡せる。大学を諦めて結婚するなら、金に執着する意味はないんじゃないのか」

「そ、それは……」


 口ごもるコリーンに、ロレンツォは眉を下げて笑う。


「本当は行きたいんだろう、大学に。自分でお金を貯めて、自分の力で行く気だろう」

「な、んで……それを……」

「何年一緒にいると思ってるんだ。コリーンの考えてることくらい、わかる」


 心の中を見事に言い当てられてしまった。どうやら隠し事は無駄らしい。結婚という言葉を出したのも、コリーンの胸の内を図るためだったのだろう。


「うん……でも、そうすべきだと思うんだ。ロレンツォだって早くリゼットさんと結婚したいだろうし、他の女のためにお金を出すのなんて、リゼットさんも良く思わないはずだから」

「リゼットとは結婚しない」

「…………え」

「リゼットとは結婚しない。約束を忘れていたことはちゃんと謝った。それで、終わった」


 あっさりとしたロレンツォの言葉。しかしコリーンはそれをあっさりと聞き流すことはできなかった。


「お、終わった!? 終わったって、それでいいの!? ロレンツォ!!」

「もう一ヶ月以上前の話だぞ。終わったんだ。後悔してない」


 なんと言っていいかわからず、ポカンと眺める。するとロレンツォは、そんなコリーンに微笑み掛けてくる。


「だから、コリーンと結婚しても問題はない」


 おかしい。なぜだか話が戻っている。さっきの結婚話は、コリーンの胸の内を聞き出すために言ったことではなかったのだろうか。


「えーっと、どうしてそういう話になるの?」

「嫌か?」

「嫌とかじゃなくて、唐突過ぎて理解できなくて」

「試験の日、風邪を引かせてしまって、ごめんな」


 いきなり飛んだロレンツォの謝罪で、コリーンは理解した。ロレンツォのこれは、贖罪だ。


「俺は、コリーンに教師になってもらいたんだ。結婚すれば、コリーンはカルミナーティになれる。準貴族の特権が使える」

「それって、まさか……」

「補欠合格者の中で、貴族枠として入学出来るということだ。スティーグ殿に教えてもらった。これは違法じゃない」


 開いた口が塞がらない。コリーンを合格させるだけだけに、また結婚しようとしているのだ。

 このファレンテインでは、一度結婚すると三年以内の離婚は難しいというのに、また三年の制約を己に課そうとしているロレンツォが理解出来ない。


「違法じゃなくてもそんなことはできないよ」

「俺が相手じゃ駄目か? ならすぐに結婚してくれそうな貴族をリストアップしてみたから、見てくれ。年が離れ過ぎていたりして、あまりお勧めはできないんだが」


 ロレンツォは立ち上がり、本の間からリストアップした紙を取り出す。それを差し出されるも、コリーンは受け取る気など起こらなかった。


「大学に合格するためだけに、人生を決める選択なんてしないよ!」

「……ま、そうだろうな」


 ロレンツォはその手の中の紙を、グシャリと握り潰す。


「どうにか合格させてやりたくてな。俺の自己満足だった。すまん」

「ロレンツォ。あの日風邪を引いたのは、ロレンツォのせいじゃないんだから。責任なんて感じてもらわなくていいよ。結婚なんてしちゃったら、また三年は離婚できないんだよ? もう私のために時間を潰すようなこと、しないで」

「別に潰れるなんて思っちゃいないさ。どちらにしろ、コリーンが教師になるまでは結婚できる環境にはならないからな。だったらコリーンと結婚してても同じだろう?」

「全然違うよ! 好きな人ができた時、付き合い始めた時……! 自分が既婚者であることの心苦しさは、耐え難いものがあるんだからねっ」


 鼻息荒く反論してしまうと、ロレンツォは悲しそうに眉を下げていた。そして穏やかな声で言う。


「アクセルの時は、つらい思いをさせたな……」


 コリーンはハッとして、ロレンツォから目を背けた。


「……もう、終わったことだし」


 しばらく無言が続き、コリーンは食事を再開した。なんだか、ロレンツォとギクシャクすることになりそうで嫌だ。問題なく受かっていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。つい吐き出しそうになる息を、寸前で食い止める。


「……もし不合格だった時」


 ロレンツォが口を開いた。もしももなにも、ほぼ確定的だが。


「来年また受験してくれるか?」

「……」


 コリーンは顔を上げてロレンツォを見る。そしてゆっくりと首を横に振った。


「もういいよ、ロレンツォ。私、甘え過ぎてた。お金を貯めて、自分の力で大学に行く。だからロレンツォは、もう私のことは気にしないで」

「気にするな? 家族、なのにか……?」


 不意に泣きそうになる。ロレンツォがこれほどまでに自分のことを気に掛けてくれているのは嬉しい。でもそれは、あくまで家族としてであり、彼にとってコリーンは妹であり娘だからなのだ。

 これ以上ロレンツォの人生を犠牲にさせるわけにいかない。いつか彼は他の誰かと家族になり、そして離れていってしまう人なのだから。


「もういいんだよ、ロレンツォ。……今まで、本当にありがとう。感謝、してる」


 初めて出会ったあの日、チョコレートをくれた。

 次に出会った時、保護してくれた。

 ノートをくれた。

 ミュールを買ってくれた。

 言葉を教えてくれた。

 リスの手提げ袋を買ってくれた。

 ベッドを買ってくれた。

 高価な辞書を買ってくれた。

 たくさん勉強させてくれた。

 誕生日には上等のワンピースをくれた。

 ファレンテイン市民権を与えてくれた。

 そして、借金をしてまで腕輪を取り返してくれた。


 生活が苦しくとも、ロレンツォは自分を犠牲にして、コリーンにたくさんの物を与えてくれていたのだ。

 コリーンが望めば、彼は大学に通わせてくれるのだろう。また、自分の人生を犠牲にして。

 これ以上を望むのは、高慢というものだ。


 ロレンツォはコリーンの謝意を聞いても、無言のまま能面のようにその表情は変わることはなかった。

 彼はそのまま食事に手をつけることはせず、その日の夕食を終える。

 そしていつものように、ロレンツォが就寝前の煙草を燻らせている時のこと。

 コリーンがその姿をじっと見ていると。


 ポタリ。


 小さな音を立てて、テーブルの上が、わずかに濡れた。

 コリーンが驚いて彼を見ると、ロレンツォもまた己に驚いたように、そっと目元を隠す。

 そしてまだ残っていた煙草を、ぎゅっと押し潰した。


「……寝る」


 逃げるようにその場を去って行くロレンツォ。

 コリーンは呆然としていた。

 ロレンツォの涙など、初めて見た。

 もしかしたらコリーンの知らぬ所で泣いていたこともあるのかもしれない。

 しかし、決してコリーンの前では泣かなかったロレンツォである。


「ロレンツォ……?」


 唐突に流された彼の涙のわけが思い浮かばず、ただコリーンは胸を痛めていた。

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