第24話 入学試験当日に

 外は凍るように寒く、暗い。その中をコリーンは、ヘイカーを支えながら歩いた。


「っつつつつつ」

「……ごめんなさい」

「なんであんたが謝んだよ?」

「……それは……」

「くっそ、ロレンツォの野郎、マジで殴りやがって……」


 ロレンツォは大丈夫だと言っていたが、これは相当に痛そうだ。すでに腫れ上がった顔が完成していた。お腹の方も痣になっているかもしれない。

 手を貸しながら歩いていると、ものの十分もしないうちに北水チーズ店に着いた。コリーンから離れようとしたヘイカーが、ふらりとよろめく。


「大丈夫!?」

「うっさいんだよ、近所迷惑……」


 と、ヘイカーに迷惑顔を向けられた時だった。北水チーズ店から、一人の女性が飛び出してきたのは。


「どうしたの、ヘイカー!!」

「リ、リゼット!?」


 中から出てきたのは、騎士隊長のリゼットだ。彼女はヘイカーの腫れ上がった顔を見て、驚きを隠せないでいる。


「その顔は……まさか、ヘイカーあなた……」

「……ロレンツォんとこ行ってきた」

「無茶よ! なにを考えているの?! あの人は、あなたが敵うような男ではないのよ!!」

「わかってっよ! けど、黙ってらんなかったんだもんよ!」

「ヘイカー……私のために、無茶なんてしないで……」


 そう言ってリゼットは魔法を詠唱し始めた。リゼットに手を当てられた頬は、みるみるうちに元の形を取り戻していく。


「リゼット……」


 頬の傷は治ったが、まだお腹の方は痛むだろう。


「すみません、彼はお腹も殴られたので、治してあげてもらえませんか?」

「ええ!? ちょっと見せなさい!」

「う、うわっ」


 ヘイカーはリゼットに上着を捲られ、狼狽している。


「さ、さびーって! 後にしてくれよ!」

「これは強烈に殴られたわね。はぁ、まったく……ところで貴女は確か、ウェルスの結婚式でも会った……」

「コリーンと申します」

「……ヘイカーの、彼女?」


 それを聞いて慌てたのは、コリーンではなくヘイカーの方だ。


「っち! ちげーよ! ロレンツォの彼女だ、ロレンツォの!」

「ロレンツォの?」

「ち、違います! 彼女じゃ、ないんです」

「嘘つけ、一緒に暮らしてんじゃねーのか!」

「それは……でも、違うんです!」


 コリーンは必死に否定した。もしかしたらロレンツォは、リゼットとより戻すつもりかもしれない。そうなると、自分の存在は邪魔にしかならないのだ。

 ロレンツォには幸せになってほしい。彼が幸せになれるのは、愛する彼女の元でだけだろう。


「ロレンツォは身寄りのない私に、色々支援をしてくれているだけなんです。私にとってはその……兄のような人で……彼を殴ったのも、理由も分からず殴り掛かられたからで、悪気はないんです!」

「コリーン」

「だから、その……リゼット様との約束をうっかり忘れていたかもしれないけど、知った以上ロレンツォはその約束を……」

「コリーン、涙を拭きなさい。凍ってしまいそうよ」

「……え」


 リゼットに言われ、コリーンは自分の頬に流れる涙に気付く。

 いつの間にか泣いてしまっていた。ロレンツォが、自分の元から去って行く時が近いと思った瞬間から。

 ハンカチもなにも持っていず、コリーンは袖で涙をグシっと拭き上げる。


「あの……すみません、失礼します」


 コリーンはもうなにも言えなくなって、二人に背を向けた。

 呼び止められることもなく、のろのろと歩みを進める。

 ひとつくしゃみをすると、両肩を自分の手で抱き締めるようにさすった。

 寒い。急いでいたのでコートも着ていなかった。

 風呂上りのまだ乾き切っていない髪が、凍りつくかのように冷えきっている。


 ロレンツォはきっとリゼット様とよりを戻すんだろうな……

 アクセルは子どもも出来て、きっと結婚するんだろうし。

 ……私は一人、か……


 またも溢れそうになる涙を拭く。

 絶対に大学に入って、教師の資格を取らなければ。

 一人でもやっていけることを示せば、ロレンツォも安心して結婚できるに違いない。

 しかしそう考えると寂しくて、コリーンはしばらくその場所で泣いていた。


 次の日、コリーンは入学試験のらめ、試験会場に向かった。

 朝起きた時に感じていただるさが、徐々に増してくる。嫌な予感がしつつも、気にしないようにしていたのだが。

 試験が始まって暫くすると、悪寒が始まった。暖炉の付いている教室にも関わらず、寒くて仕方ない。

 最初のうちはまだよかった。二教科目、三教科目と進むうちに、明らかに発熱してくるのがわかる。最後の教科では、吐き気を抑えて座っているのが精一杯な状態だった。それでも退室はせず、何とか問題を解こうと試みる。しかし頭が回らず、ペンが進むことはほとんどなかった。


 試験が終わると同時にトイレに駆け込み、胃の中の物を全て吐き出した。すると少しは気分が落ち着き、今のうちにと家へと帰る。

 しかし帰った途端、コリーンはベッドに倒れこんだ。また熱が上がった気がする。一度倒れこんでしまうと起きることは叶わず、苦しさで息が荒くなる。


 風邪なんてずっと引いてなかったのに、なんでこんな時に……

 落ちちゃった……絶対に落ちちゃったよ……っ


 苦しさと悔しさから、枕を濡らして塞ぎ込んだ。

 前日、コートも羽織らず出て行った自分が悪いのは確定的だ。しかもさっさと帰ってこず、ぐずぐずと泣いていたのだからどうしようもない。

 ロレンツォに合わせる顔がないと思った。しかしどんどんと上がる熱に浮かされ、彼の帰宅を待ち望む。喉が乾いても、体を動かすことすらできないのだ。


「ロレンツォ……」


 その名を呼びながら、ぜぇぜぇと時間が経つのを待った。こういう時の時間は、経つのが遅い。

 やがてロレンツォの就業時間が来て三十分経つも、まだロレンツォは帰ってこない。もしかしたらまたなんらかの緊急事態が起きて、帰ってこられないのかもしれない。そう思うと、痛む頭がさらに重くなった。

 それでもそれからしばらくすると。


「コリーン、帰ったぞ。夕食はまだのようだから、今から作る。後でコリーンも手伝ってくれ」


 ノックの音と共に、ロレンツォの声が聞こえた。何故か部屋に入ってくる様子はなく、コリーンはなんとか声を上げる。


「はぁ、はぁ。ロ、ロレンツォ……ロレンツォ……う……」


 ロレンツォは無言だ。去って行った気配はないが、去ろうとしているのだろうか。


「ロレン、ツォ……はぁ……待っ……開け、て……」

「……開けていいのか?」

「は、はや、く……」


 コリーンが急かすと、ロレンツォはその扉をようやく開けてくれた。


「コリーン!」

「はっ、はっ……ロレン、ツォ……」


 ロレンツォはコリーンの姿を見るなり部屋に駆け込み、額に触れてくれる。外から帰ったばかりの、冷んやりとした彼の手が気持ちいい。


「凄い熱じゃないか! 大丈夫か?! いつからだ!?」

「試験、受けてる……はぁ、最中に……」

「な……試験は、どうだった?」

「最後、の方……全然、解けなかっ……げほっ」

「……そうか……」


 残念そうに、そして悲しそうに眉を下げるロレンツォ。

 受かっていなければ、一年長く迷惑を掛けてしまうことになる。しかし今はそんなことを考えられもしなかった。

 ロレンツォは一晩中、コリーンを看病してくれた。

 朝になって出勤の時間になっても、コリーンの側にいてくれた。聞けば、仕事を休んだと彼は言った。

 兵士時代から、一度も欠勤したことのないロレンツォである。少なくともコリーンが知る限り、初めての欠勤だ。それを自分のために休んでくれた嬉しさと申し訳なさが混在し、戸惑っていた。


 医者が往診に来て薬を処方してもらうと、夜には随分とよくなった。

 しかし汗臭いのでお風呂に入りたいと言うと、ロレンツォは首を横に振り、決して縦には振ってくれなかった。

 代わりにロレンツォにコリーンセレクトをつけてもらい、その香りを楽しむ。


 「じゃあ俺が必要な時はいつでも呼んでくれ。じゃあな、おやすみコリーン」

「おやすみ。明日は仕事行ってね、ロレンツォ」

「ああ」


 本当はもう一晩、一緒にいてほしかった。ロレンツォの香りを感じながら、いつかのように安心して眠りたかった。


 リゼットさんとはどうなったのかな……

 まだ話し合ってないのかな。

 聞きたいけど……怖くて聞けないや。


 少し息を吐くと、ロレンツォの残り香を吸い込んで、眠りについた。

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