第23話 真夜中の来訪者に

 寒い寒い季節がやってきた。

 いよいよ明日は入試である。


「……もう大丈夫そうですね。決算までできれば、もう私の出番はなさそうです」

「まだ不安ですよ~コリーンさんがいないと……」

「三月いっぱいまではいますから。それからは頑張って下さいね」


 コリーンは、新しい従業員に引き継ぎを行っていた。もう春からはここで働けなくなる。代わりの人をコリーン自身が面接し、後釜を決めたのだ。

 その時、店の扉が元気に跳ねた。


「ううーー、さぶい!!」

「ディーナさん、どうされました」


 ディーナは雪にまみれたコートを払いながら中に入ってくる。

 今日は定期健診のため、休むと言っていたのだが。


「妊婦健診になにか問題でも……?」

「いや、ないない! じゅんちょーだって、超順調!」

「そうですか、よかった」


 ディーナは大きく張ったお腹を撫でながら、いつものように明るく笑っている。出産予定日は三月の末だ。

 必要な狩りは、このところウェルスがしている。それでも騎士職の合間を縫ってのことなので、足りない分は狩人から買い付けていた。


「コリーン、代わるから、今日は帰りなよ」

「え? まだ五時にもなってませんが」

「いいっていいって。明日は試験だろ? 試験前なんてどうすりゃいいのか知らないけど、疲れてちゃ駄目なんじゃないのか?」

「それはそうですが」

「な? 早く帰りなよ。今日は特に寒いから、風邪引いちゃ大変だ」

「ディーナさんの方が妊婦なのに、そんな遅くまで働かせるわけには……」

「あたしは元気な妊婦だから、大丈夫だよ!」


言い切るディーナに、コリーンは結局折れてしまった。


「わかりました。ではお先に失礼しますね」

「うん! 明日、頑張って!」

「はい、ありがとうございます」


 予期せず早くに仕事を終えてしまった。

 家に帰ると丁度五時で、ロレンツォも後三十分もせずに帰ってくるはずだ。

 夕飯の支度をしながら、コリーンは待った。しかし、六時になってもロレンツォはまだ帰ってこない。


「どうしたんだろ……なにか緊急の出動でもあったのかな……」


 七時になり、八時になっても帰ってこなかった。

 作り終わった夕飯を前に、コリーンは一人佇む。明日は入試だというのに、勉強する気も起こらない。


「遅い……」


 何事もなければいいと思いながら、さらに一時間待っていると。


「ただいま」

「おかえり!!」


 家の扉が開いて、コリーンは駆け寄った。見たところ、なんの怪我もしていなくて安堵する。


「これ、土産だ」


 渡されたのは、北水チーズ店の紙袋。中にはコリーンの好きなクミンシードのゴーダチーズ。


「ど、どうしたの、このチーズ……」

「どうしたって、買ったんだが。最近食べてなかったからな。明日の入試を頑張ってもらおうかと思って」


 借金があるというのに、無理して買ったのだろう。しかしコリーンはなにも言えず、その紙袋を握り締めた。


「やっぱりまだ食べてなかったのか。食べよう、遅くなってすまん」


 そう言いながらロレンツォは椅子に座った。コリーンも早速チーズを切り分けて食卓に出す。

 そして二人はいつものように食事を取り始めた。


「今日は何かあったの? えらく遅かったけど」

「……」


 ロレンツォはちらりとコリーンを見て、目を伏せながら食事を取っている。

 なにか言いにくいことなのだろうか。借金と関係のあることだと悪いので、無理に聞かずにいようと思っていた。が、しばらくしてロレンツォから話し始めた。


「アルバンの街に、三往復してきた」

「さ、さんおうふく!?」


 半日で三往復などできる距離ではない。コリーンだと、二往復できるかできないかだろう。


「ああ。十二時間、馬に乗りっぱなしだ。体がまだふわついてる」

「一体、なんでそんなに……」

「レリア・クララック……いや、今はもうただのレリアだが、彼女のお腹には子どもがいてな。……アクセルの子だ」


 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、息が止まった。


「それで、アクセルとレリア殿を引き合わせたんだが……途端にレリア殿が産気づいてな。医師を連れて行ったり、リゼットを連れて行ったりしていたら、遅くなってしまったんだ」

「……そっか。アクセルに……子ども……」


 不思議な気持ちだ。アクセルは一体どうするのだろうか。


「……大丈夫か、コリーン」


 ふと顔を上げると、心配そうなロレンツォの顔が映る。


「なにが? 全然なんともないよ。なんて言うか、ちょっと……時は流れてるんだなって思って。さ、食べちゃおう」


 もう遅かったのでさっさと食事を終わらせ、風呂に入った。そしてロレンツォが風呂に入って行ったのを確認して、コリーンはあるものを取り出す。それは馬券だ。コリーンは二枚のうちの一枚を眺めた。


 アクセル、どうするんだろ……

 やっぱり、結婚するんだろうな。

 私の時も、妊娠したら必ず責任取るって、ずっと言ってくれてたもんね。

 ……もし、私の方が先に妊娠してたらどうなってたのかな。

 もし、避妊しなかったら……


 ふと馬券が影になって、後ろを振り向く。そこに立つ人物は、一人しかいない。


「えっ!? ロレンツォ!?」


 コリーンは慌てて馬券をノートに挟んで閉じようとする。しかしあまりに勢いよく閉じ過ぎたため、その紙はふわりと宙を舞った。それをロレンツォにパシリと取られてしまう。


「あっ! 返して!!」

「なんだ? 馬券?」


 ロレンツォは、その馬券を見て、目を丸めていた。そしてそれは、渋い顔へと変化していく。


「……アクセルの馬券も、買っていたんだな……」


 それだけ言うと、ロレンツォはそっとその馬券をコリーンに返してくれた。言い訳をすべきだろうか。しかし、なんと言ったらいいのかわからない。


「あの……これは、その……」

「明日は入試だってのに、アクセルに子どもができたなんて言うんじゃなかったな。すまん」

「……」


 コリーンはなにも言えずに馬券をノートに挟んだ。


 違う。

 別に今さらアクセルとどうこうなりたかったわけじゃない。

 ただ、あり得たかもしれない『もしも』を想像してただけで……

 今、私が好きなのは。


 そしてコリーンが口を開いた、その時だった。


 ドンドンドンッ


「おい、ロレンツォッ!開けろっ!!」


 荒々しいノックの音がし、声が飛び込んできた。ロレンツォの知り合いの声なのか、彼は戸惑わずに扉を開けている。

 すると憤怒の表情を見せて、男が上がり込んできた。その顔を、コリーンは見たことがある。確か北水チーズ店の受け取り口にいた男だ。


「ロレンツォ! てめ……」


 そう言いかけたところで、彼はコリーンの存在に気付いたようだ。コリーンは何事かわからずおたおたしていると、なぜか男はそんなコリーンを見て、怒りで顔を赤くさせている。


「女と暮らしてたのかよ!!てめぇって男は……っ!!」


 殴りかかってきた男をロレンツォは逆に殴り倒し、ドタンと見事な音を立てて彼は床に倒れた。いきなり乱闘を見せられ、コリーンの理解が追いつかない。


「きゃ、きゃーーーーーーっ!?」

「なんなんだ。お前は、いきなり」

「っぐ、げほっ!げほっ!」


 自分の立ち位置がわからず、コリーンはとりあえず布を濡らして男の頬に当てた。


「放っておけ、コリーン」

「でも……」

「俺の拳なんて、スティーグ殿に比べれば大したことないさ」


 大したことないわけがない。あんなのを食らったら、立ってもいられないに違いない。


「だ、大丈夫?」


 のっそりと起き上がった男は、再びロレンツォを睨んだ。その表情を見て、ロレンツォは顔をしかめている。


「コリーン、そいつから離れろ」

「でも」

「いいから」


 コリーンは迷ったが、言われた通りロレンツォの後ろまで下がった。


「さて、人の家に上がり込んでいきなり殴りかかるとは、どういう了見だ? 理由を聞かせてもらおうか」

「ロレンツォ、あんた、心当たりがないってのか!?」

「ああ、ない」

「よくもヌケヌケと……ッリゼットが、どんな思いでいるのか、わかんねーのかよ!!」

「……リゼット? リゼットが、どうかしたのか」

「リゼットとの約束を、すっかり忘れやがって! どれだけ傷付いてると思ってんだ!」

「約……束……」


 リゼットという、ロレンツォが最も愛した女性の名が出てきて、コリーンは意図せず震えた。


「まだ思い出せないってのか!?」

「……ああ」

「じゃあ、俺が教えてやるよ! あんたはリゼットにこう約束したんだ! ウェルス様とその恋人が幸せになった時、互いに特定の人物がいなければもう一度付き合おうって!」


 付き合う。今、ディーナとウェルスは幸せになっている。この春に、子どもも生まれる。

 そしてロレンツォには現在、特定の彼女はいない。


「なのに! あんたは! 恋人はいないとか言ってリゼットに期待を持たせといて! なんだよ、女と暮らしてんじゃねーかよ!」

「あの、私は……」

「黙ってろ、コリーン。わかった、ヘイカー。もう一度リゼットと話をする。それでいいか」

「……っえ」


 ヘイカーと呼ばれた男は固まり、そしてコリーンも固まった。

 リゼットともう一度話をする。……それは、つまり、リゼットの付き合いを考えているということだろうか。


「も、もう終わったんだろ?」

「約束を反故にするつもりはなかった。恋人がいないのは本当だ。今後のことを、ちゃんとリゼットと話し合って決めたい」

「……」

「……」


 コリーンになにも言えるわけはなく、ただその会話を聞くしかできなかった。


「いいな?」

「……帰る」


 フラつくヘイカー。このまま一人で帰らせるのは危険だと判断したコリーンは、彼にスッと駆け寄った。


「送ってくる」


 予想できたことだが、「いらねーよ」「必要ない」と男二人は拒否してくる。


「でも頭を殴られてるから、途中で倒れちゃう可能性だってあるよ。ロレンツォは送りたくないだろうし、あなたも送られたくないでしょ?」


 フラつくヘイカーにコリーンは手を差し伸べた。すると自身のフラつき加減を認識したのか、彼は首肯してくれた。


「コリーン、行かなくていい」

「そういうわけにはいかないよ。すぐ帰ってくるから。行って来ます」


 コリーンはロレンツォ言葉を聞かず、ヘイカーと共にアパートを出たのだった。

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