第21話 一度別れた相手に

 コリーンは、キスされたことには触れずロレンツォと生活した。

 ロレンツォもまた、そのことには触れてはこなかった。本当に他意はなかったのだろう。彼の態度はいつもと変わらない。

 そうしていつものように生活していた、ある日のことだった。ロレンツォが腕輪を持って帰ってきたのは。

 返却手続きをしなくてはいけないからと、一度は持って帰ってしまったが、翌週ロレンツォはちゃんとその腕輪を持ってきてくれた。


「遅くなって悪かった。その……手続きが、少々面倒だったんでな」


 そう言いながら、二つの腕輪を渡してくれた。

 ようやく自分の手に戻って来た。両親の形見の腕輪は、今も変わらず煌めいていて、コリーンを涙させた。


「お父さん、お母さん……」

「よかったな、コリーン」

「うん……ありがとう、ロレンツォ」


 止まぬ涙を、ロレンツォは目を細めて見ている。

 コリーンは満足だった。確かに奴隷として売られてしまうところだったが、それも回避されファレンテイン人になれた。腕輪は手元に戻ってきた。

 なによりロレンツォに出会えたのだ。

 災難があったとはいえ、現在のコリーンは幸福だった。少なくとも、コリーンはそう思っていた。


 それから幾日か経った頃、コリーンはロレンツォの異変に気付く。どうもおかしい。最近のロレンツォは、溜息ばかりついているのだ。


「どうしたの、ロレンツォ。心配事?」


 ある日、コリーンは思い切って聞いてみた。しかしロレンツォは首を振るばかりである。

 仕方なくコリーンは話題を変える事こととなってしまった。


「あ、そういえば、アルヴィンさんから手紙が来てたんでしょ? なんて書いてたの?」

「ああ、アルヴィンの奴、結婚するらしい」

「へぇえ、結婚!?」

「あの野菜にしか興味のなかったアルヴィンに、先を越されるとは思わなかったな。来月の日曜日が結婚式だから、ちょっと行ってくるよ」

「うん、わかった。それにしても、最近周りが結婚ラッシュだね」

「そうだな。ウェルス殿、スティーグ殿、そしてアルヴィンか。まぁ戦争が終わった年っていうのは、結婚イヤーだからな」

「私達は離婚イヤーだったけどね」

「っふ、そうだな。コリーンは離婚して、心境は変わったか?」


 心境。変わりまくりだ。特にロレンツォに対する。

 そんなこと、言えやしないが。


「え……?……うん、そうだね。あんまり新生活って感じはしないけど」

「ホントだな」


 そう言いながらロレンツォは少し笑っていた。コリーンは受験勉強に取り掛かるも、ロレンツォの幾つかの溜息でまた顔を上げる。やはりおかしい。


「また溜息ついてる」


 ロレンツォはチラリとコリーンを見ただけで、表情は変わらない。


「ねぇ、なにか困ったことでもあるんじゃないの?」

「いや。教職というのは、いい選択だと思ってさ」

「なんでそれで溜息つくの? 誤魔化さないでよ」

「いいから気にせず勉強してくれ」

「もう……ロレンツォって、昔から勉強勉強ってばっかり」

「コリーンが目の前で勉強しているのを見ると、安心するんだ」


 安心? と心の中でリピートした。

 それは、あれだろうか。ロレンツォが煙草を燻らす姿を見る時に得る、安心感と同じだろうか。だから彼は離婚した後もこの家に通ってくれているのだろうか。


「そ、なんだ……」


 そんな風に言われると、少し期待をしてしまう。そして再びカリカリと勉強を始めた。なぜだか苦笑しているロレンツォが眼に映る。

 しかしコリーンは途中でペンを止めた。どうにも誤魔化されている感が否めない。


「……あのさ。ロレンツォ、私を家族って言ってくれたよね」


 ロレンツォとは、どうあっても家族でいたい。隠し事なんてされたくない。


「ああ」

「迷惑かけるとか思わなくていいって、家族だから遠慮するなって、言ったよね」

「ああ、言った」

「それ、ロレンツォにも当て嵌まるんだからね!」

「……え?」


 ロレンツォはまるで不可思議な物でも見るかのように眉を寄せている。


「お願い、ロレンツォ。なにか悩みがあるんだったら、言って。迷惑なんて思わない。遠慮なんてしてほしくない。家族でしょ?!」

「……」


 ロレンツォは頷いていたが、やはりなにも言ってはくれなかった。

 ただ煙草を点けた時。いつもはなにも喋らないはずの、その時間。


「楽しみだな、コリーンの教師姿」


 まるで心の声が漏れたかのようにロレンツォはそう言った。


 期待、してくれてるんだ。


 単純に嬉しく思った。絶対に大学に受かって教師になりたい。

 コリーンはまた、カリカリと鉛筆を走らせざるを得なかった。


 ロレンツォの溜息の理由がわかったのは、それから一ヶ月後のことである。

 食卓に、北水チーズ店のチーズがのぼらなくなったことで気付いた。

 その昔、ロレンツォが騎士になる前であったが、同じように北水のチーズが食べられなくなった時がある。あの時ほど困窮はしていなかったが、お金に困っているのは間違いなさそうだった。


 どうしてだろう……。

 大学の費用が思ったよりかかるのかな。

 どうして何も言ってくれないんだろ。

 久しぶりに、クミンシードのゴーダチーズが食べたいなぁ。


 そう思ってコリーンは、北水チーズ店に初めて寄った。店舗らしい店舗は見当たらず、見つけるだけで四苦八苦したというのに、そこの店主は無愛想にこう言い放った。


「うちは誰彼構わず売らねーんだ。売ってほしけりゃ、誰かの紹介受けて来てくれよ」


 コリーンよりも若そうな男にそう言われていささかムッとするも、仕方がない。しかしロレンツォに紹介を受けたくはなかった。北水チーズ店でチーズを買うと言えば、きっとあの男は自分が買うから買わなくていいと言うに違いない。


 アクセルに頼んでみようかな。


 アクセルならば北水チーズ店で仕入れているのを知っているし、比較的頼みやすい。というより、他に頼める人がいなかったからだが。

 コリーンはサウス地区に向かった。今日は日曜なので、おそらくアクセルは休みだろう。もしかしたらデートかもしれないなと思いながら、大きな屋敷の扉を叩く。


「これはこれはコリーン様。お久しぶりでございます。アクセル坊ちゃんにご用でしょうか」

「はい、少しだけお時間をいただければと思うんですが、もしアクセルが……アクセル様が拒まれるようであれば、すぐに帰ります」

「わかりました。アクセル坊ちゃんに確認して参りますので、どうぞ中の部屋でお待ち下さい」

「ありがとうございます」


 中に通してもらうと、部屋と言えない大きなホールの真ん中でコリーンはソファーに腰を掛けた。ここでお待ち下さいと言って、召使いがアクセルに伝えに行く。

 アクセルは会ってくれるだろうか。拒絶されてしまうのだろうか。そう考えながらしばらく待っていると、先ほどの召使いが戻ってきた。


「コリーン様、お部屋の方で会われるそうです。こちらへどうぞ」


 促されたのはアクセルの自室。最後に訪れたのは戦争が激化する前だったので、二年ほど前になるだろうか。アクセルの部屋の前に来ると、当時の気持ちに戻ったかのように自然と胸が高鳴った。


「アクセル様、コリーン様を連れてまいしました」

「ああ、下がってくれ」


 召使いが音も立てずに下がって行くと、アクセルがコリーンを迎えてくれる。


「どうしたんだ? 珍しい」

「ちょっと、アクセルにお願いがあって」

「お願い? まぁ入ってくれ」


 二年ぶりに入ったアクセルの部屋は、少しだけ絵の具の香りがした。

 見回してみると、以前にはなかった絵画が飾られてある。そういえば、美しい絵を描く女性と付き合っているんだったかと思い返した。


「それ、アクセルの恋人が描いた絵?」


 そう聞くと、アクセルは複雑そうに顔を歪めた。


「……俺は、恋人というものができたことがないんだ」


 目を伏せるアクセルは、落胆の色を浮かべている。確か以前、ロレンツォがアクセルの想い人は人妻だと言っていた。それを彼は知ってしまったのだろうか。


「俺の、どこが悪いんだろうな。俺は……俺は、いつだって真剣なのに」

「アクセル……」


 正直、居心地が悪い。アクセルにそう言わせてしまう要因のひとつに、コリーンも例外なく入ってしまっている。


「すまない。少し、気が滅入っていてな」

「ううん。私も酷い別れ方をしちゃったから……」

「別れるもなにも、俺たちは付き合ってすらなかった。だろう?」

「……」


 確かにそう言ったのはコリーンだ。

 しかし、それではあまりに寂しい。コリーンの脳内ではすでに、アクセルとは恋人同士だったことになっている。

 けれどもなにも言えなかった。当時も勝手に脳内で「恋人同士ではない」と決め付けていたのに、今さら恋人同士だったと思っている、などとは。


「この絵を描いた女の人とは、どうなったの……?」

「彼女は、人妻だった。元夫の犯罪が原因で、今はアルバンにいるが、もう会うこともないだろう」

「なんで? 会いたくないの? 好きじゃなくなっちゃったの?」

「俺は、彼女に騙されていたんだぞ!」

「言えなかったんだよ、きっと! アクセルが好きだからこそ、結婚してるなんて言えなかった! アクセルに、嫌われたくなかったから!」

「コリーンになにがわかるんだ!」

「わかるよ! 私だって、同じだったから!」


 言ってしまってから息を飲む。アクセルが相変わらずの小難しい顔をして、こちらを見下ろしていた。

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