第15話 大きく腫れた頬に
ロレンツォとケイティが、家から出て行った音がした。
コリーンは立ち上がり、家の鍵を掛ける。どこに行ったか知らないが、戻ってはこないだろう。戻ってこたとしても、開けてやるもんかという気持ちが生まれる。
ロレンツォを好きになったというだけで、こんな酷い仕打ちをされたのだ。
やり場のない悲しみと苛立ちが、コリーンをそうさせた。
これからはちゃんと妹でいよう。娘でいよう。
こんな思いは、もうやだ……。
はあ、と息を吐いて本を取り出す。眠れそうにない。眠くなるまで勉強で気を紛らわせるつもりだった。
しかし眠くなる前に、玄関の扉がガチャと鳴る。鍵を掛けてあるので開くことはない。
「コリーン……開けてくれ。……寝てしまったかな。大声を出すわけにもいかないし」
自分から開けるつもりのなかったコリーンだが、ロレンツォの独り言を聞いて気が変わった。勝手に自分で鍵を開けて入ってくるだろうと心のどこかで思っていたのだが、どうやら鍵を部屋に忘れてしまっているらしい。慌ててコリーンは扉を開ける。
「起きてたか、コリーン」
「っな、どうしたの! その顔!」
ロレンツォの顔は、なぜか見事に大きく腫れ上がっていた。とっさに考え付くのは、姦通後に夫が現れて因縁をつけられ、法外な金銭を騙し取るという詐欺行為である。
「大丈夫!? あの人、本当は美人局だったの?!」
「つつもたせって……お前は本当に色んな言葉を勉強してるな。おしどり夫婦ってわかるか?」
「仲睦まじい夫婦のことで、語源はおしどりが
大きく腫らした顔で、なにをおしどり夫婦などと言っているのか。わけがわからぬながらもコリーンは手を引っ張ってロレンツォを中に入れる。布を濡らし固く絞った後、ロレンツォの頬に当ててあげた。
「っく、っつつつ」
「うわぁ……どうしよう、熱持ってるよ。部屋で寝てて。お風呂から桶を持って来るから」
急いで桶に水を入れ、替えの布を持ってロレンツォの部屋に入る。
いつものロレンツォの部屋と違う、女の匂いがした。
「いい、自分でできる」
布を変えようとすると一瞬ロレンツォは拒んだが、コリーンは構わず取り替える。
「いいから、眠ってて!こんななっちゃって、もう……一晩冷やせばなんとかなる、かな……」
「一晩、俺に付き添うつもりか?明日も仕事だろう?」
「一晩くらい大丈夫。私、本当はまだ若いから」
「そうだな」
っく、とロレンツォは笑いかけて、顔を歪める。相当に痛そうだ。こんなに殴られたことはないので、痛みの程度はわかりかねたが。
「大丈夫、ロレンツォ……」
「……泣き言を言っていいか?」
「いいよ」
「痛い。めちゃくちゃ痛い。泣きそうだ」
ロレンツォがこんなことを言うなんて、よっぽどだろう。
コリーンを諦めさせるためにこんな目に遭うなどと、馬鹿な男である。
「どうしよう、医者を……ううん、リゼット様を呼んでこようか?」
「ああ、だが、もうこんな時間だ。リゼットはもう寝てる。それにコリーンが行くと変に勘繰られそうだからな。いいよ、明日朝一で治してもらう」
「……そう」
勘繰られそう、ということは、リゼットには勘繰られたくないということだろう。まだ彼女を好いている証に違いない。
傷付く必要なんてない……
ロレンツォは、兄、なんだから。
桶に浸した布をギュッと絞り、再び交換してあげる。その瞬間だけは、ほっと緊張が和らいでいた。
「すまんな、コリーン」
「いいよ。私が熱を出した時、ロレンツォがこうして看病してくれたことがあったでしょ。お返しできて嬉しいよ」
「あれはまだお前が幼かった頃だろう。大きくなってからは、してやってないな」
ロレンツォは申し訳なさそうにしているが、コリーンは少し嬉しい。先程まで支配していた苛立ちと悲しみは、消え去っていた。
「風邪なんて、ここ四、五年引いてないよ。ロレンツォは風邪引いてても仕事行っちゃうしさ。一度、こうやって看病してみたかったんだ」
「じゃあ、看病してもらうか……」
「うん、そうして」
「ありがとう、コリーン……」
「おやすみ、ロレンツォ」
コリーンが促すと、ロレンツォは目を瞑った。
男前が台無しだ。少しでも楽になればいいと、何度も何度も布を取り替える。
「コリーン……」
「ん? 何?」
「……どうして」
「………ロレンツォ?」
呼ばれて返事をしたコリーンだったが、どうにも起きている様子はない。寝言というよりは、意識が混濁しているようである。
「どうして……あの時……俺はコリーンを……」
「私が、何……?」
苦しそうに顔を歪めるロレンツォ。頬は変わらず熱を持ったままだ。
「お前で……なんて……どうかしてる……」
「私で? なんのこと?」
肝心な部分が聞き取れず、コリーンは無駄とわかっていつつも聞いてしまう。
「ユーファで……だ」
「………」
なんだろう。さっぱりわからない。どうしていきなり彼の妹のユーファミーアが出てくるのだろうか。
「ねぇ、ロレンツォ。私のこと、どう思ってる……?」
今なら聞けた。意識が混濁している、今ならば。ロレンツォの本心が聞きだせる気がして。
「コリーン……大事な……家族……」
やっぱり、と涙を滲ませながらロレンツォの髪を撫でた。ロレンツォにとってコリーンは大事な家族であって、恋仲にはなれない存在なのだ。
特別な感情を抱いてしまった自分の方がおかしいのだろう。大事な家族と言ってもらえるだけで、良しとしなければなるまい。
「わかったよ、ロレンツォ。私にとっても、ロレンツォは大事な家族だから……。痛い思いをしてまで嫌な役目をさせちゃって、ごめんね。もう、この気持ちに蓋をするから……これからも家族でいてね……」
ロレンツォは深い眠りに落ちていて、コリーンの声が聞こえたかどうかはわからなかった。
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