第8話 去り行く彼の残り香に

 ある日のこと、アクセルがコリーンに「馬には乗れるか?」と聞いてきた。

 まだ両親が健在の頃、コリーンの家では馬を飼っていた。それにロレンツォは騎士になってから馬を三頭こちらに連れてきている。今主力として使っているユメユキナという馬は騎士団本署の厩舎にいるが、ユキヒメという老い始めた馬とシラユキという若い馬は、ノース地区の厩舎を借りてそこで世話をしているのだ。その二頭の馬を、コリーンが面倒を見ることもあるし、乗らせてもらうこともある。馬に関して少し勉強したこともある。


「乗れるけど、どうしたの?」

「今日はピネデという町に行ってみないか?」

「ピネデ? 東の街道沿いの? どうして?」


 そう問うと、アクセルははにかんだ笑顔を見せた。


「あそこに、マーガレットの花が群生しているんだ。とても綺麗だから、コリーンにも見せたいと思う」


 理由を聞いて、コリーンは思わず眉をひそめた。できればマーガレットの花など見に行きたくはない。というのも、マーガレットの花は見た目は素朴で可愛いが、香りが酷い。臭い、と言っても過言じゃない。調香の勉強で、嗅覚が鋭くなっているコリーンには苦行である。

 もしそこでピクニックでもしようなどと言われた日には、アシニアースの再来だ。絶対気分が悪くなって倒れる自信があった。


「マーガレットよりも、他にいい花があると思うんだけど……」

「マーガレットの花言葉を知っているか? 誠実、貞節という意味がある。俺はマーガレットの素朴な花も、この花言葉も好きで、毎年見に行くんだ。今年はぜひ、コリーンと一緒に見たい」

「…………」


 誠実と貞節。その言葉を聞いて、コリーンは顔をアクセルから背けた。

 ロレンツォと婚姻関係にある事実をアクセルに隠し続けている。ロレンツォとは親子のような関係であると訴えたところで、とても誠実とは言えないだろう。

 本当のことを言ってしまおうか、とコリーンは悩んだ。

 だが、残り三年だ。たった三年で、コリーンは永久的なファレンテイン市民権を得ることができる。

 ここまで耐えてくれたロレンツォに、市民権はもういいから離婚して、なんて言えようはずがない。

 全てを知ったアクセルがどう出るかもわからない。そういう事情ならと理解を示して結婚してくれて、婚姻生活が十年続けばそれが一番である。

 しかしアクセルは不誠実だと怒りそうだし、仮に結婚してくれても、十年もの婚姻関係が続くとは限らない。ファレンテイン市民権が得られないというリスクは、極力排除したい。


「コリーン?」


 やっぱり、アクセルとは今の関係を保ったまま、三年間一緒にいて……

 三年後に結婚できれば、それが一番いい。


 ロレンツォに、妊娠には気を付けろと釘を刺されたばかりである。ということは、ロレンツォはちゃんと十年間の婚姻生活を続けるという意思があるということ。

 自身を犠牲にしてまで婚姻関係を続けてくれているロレンツォの思いを、裏切りたくはなかった。


「ごめん、私、見に行かない」

「……」


 そんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。アクセルは絶句していた。


「……男が、花言葉など持ち出して、気持ちが悪かったか?」

「そうじゃないけど……」


 気持ちが悪いのは、花言葉を持ち出したアクセルではなく、マーガレットの花言葉のその意味だ。これからマーガレットの花を見るたび、己の不誠実さを責められそうな感覚さえ受ける。とてもじゃないが見に行く気分になどなれない。


「今日は、勉強するね」

「……そうか。わかった」


 残念そうに肩を落とすアクセルを見ると、申し訳ない思いで溢れた。しかしそれでもマーガレットの花を見に行く気は起こらなかった。

 その後、アクセルからマーガレット見に行こうと提案されることはなくなり、コリーンはほっとする。

 そんなことはあったものの、二人の関係は壊れることなく順調に一年が過ぎ、二年が過ぎた。


 隣国との抗争が激化し、あまりアクセルと会えなくなっていた時のことである。

 いつものように図書館で勉強していると、アクセルが目の前に現れた。


「アクセル……」


「久しぶり」や「無事でよかった」などいう言葉は出てこなかった。なぜなら、彼は今までにない怖い顔をしていたのだ。

 そんな顔を見たコリーンは、思わずぶるりと身を震わせる。


「どうしたの……?」

「これについて、聞きたい」


 そう言ってアクセルが取り出したのは、香水の瓶。それも二つだ。


「これが、なに?」

「香りを嗅いでみてくれ」


 そう言われて、コリーンは二つの香水嗅ぎ比べる。一つはアクセルのために作った、コリーンセレクト。もう一つは、コリーンセレクトロレンツォヴァージョンだった。


「なにか、言うことはないか?」


 コリーンは青ざめる。アクセルは、コリーンとロレンツォに繋がりがあることなど全く知らない。なのにコリーンセレクトにロレンツォヴァージョンがあるとなれば、関係を疑われるのは当然だった。


「どうして、これを……」

「戦争で忙しくなり、俺が直接クランベールに行けなくなった。だから召使いにコリーンセレクトを買ってくるよう頼んだ。……そしたら、コリーンセレクトにはアクセルヴァージョンとロレンツォヴァージョンがあったと言って、両方買ってきたんだ」

「……」


 最初のコリーンセレクトに、アクセルヴァージョンと名付けた覚えはない。おそらくは店の人間が、間違えぬために付けたのだろう。

 今まではアクセル自身がクランベールに買いに行っていたため、店の者も確認せずにアクセルヴァージョンを渡してくれていたに違いない。

 しかし今回買い付けに行ったのは、ユーバシャール家の召使いである。アクセルヴァージョンかロレンツォヴァージョンかを確認されても仕方がなかった。


「どういうことだ? コリーンはロレンツォと、どういう関係だ!?」

「……ロレンツォは、なんて?」

「奴にはまだ聞いていない。先にコリーンに聞くのが筋だと思った」

「そう……」

「ロレンツォ、と呼んでいるんだな」

「……うん」


 騎士団の隊長であり準貴族になっているロレンツォに敬称をつけないことを、おかしく思われているだろう。コリーンはなにをどういうべきか、必死に考えた。

 ロレンツォにだけは迷惑を掛けては絶対いけない。加えて、ロレンツォとアクセルの関係を悪くさせるわけにもいかない。ロレンツォの知らぬところで始まったことだ。ロレンツォには知られぬまま終わらせたい。


「どうしてロレンツォにこの香水を作ったんだ?」

「……ロレンツォは、私の大切な人だから。ロレンツォがカルミナーティの名を享受した時、自分のことのように嬉しくなって……それで、プレゼントしたんだ」

「……大切な、人……?」


 アクセルの声に、コリーンは首肯する。


「好き、なのか?」

「……好きとかいう言葉じゃ、言い表せられない」

「そんなにか……っ」


 感謝、愛情、思慕、尊敬、愛着、推尊、親密、好意、懇意、仲間、味方、友朋、恩人、家族、父、兄……ありとあらゆる言葉がロレンツォには当てはまる。


「俺とロレンツォ、二人と付き合っていたんだな」


 蔑みの声音が含まれて、コリーンは首を振った。嫌われるのは仕方ない。でも蔑まれるのは、嫌だ。


「付き合ってないよ! 付き合ってるつもりなんてない。ロレンツォとも……アクセルとも」

「俺、とも……?」


 アクセルは不可解だと言わんばかりに眉を寄せる。


「俺は、コリーンに好きだと伝えたはずだが」

「でも、別に付き合おうとかいう話にはなったことないし……」

「この数年間、俺とは恋人同士ですらなかったと?!」


 アクセルが怒るのも無理はない。アクセルとは恋人だと思わないように心掛けていた、というコリーンの気持ちの問題なのだから。

 なにも言えずにいると、アクセルの方が口を開いた。


「では伝えよう。好きだ、コリーン。俺と付き合ってくれ」

「……アクセル」


 ここで「はい」と言ってしまえば、ロレンツォと縁を切らなくてはならなくなるだろう。

 もう一年を切ったというのに。後少しで、ファレンテイン市民権が手に入るというのに。


「私……」

「俺とロレンツォ、どちらを選ぶんだ。コリーン」


 二つの香水を、コリーンの前に寄せてくるアクセル。

 アクセルか、それともロレンツォか。

 誰よりも愛しい人か、誰よりも大切な人か。

 再び十年もの長い期間、不安を抱きながら過ごしていくか、それとも残り一年で確実に市民権を取得できる方を選ぶのか。

 ロレンツォを選んだ時の、アクセルの悲しい顔が浮かぶ。

 アクセルを選べば、やはりロレンツォの悲しい顔が浮かんだ。後一年だったというのに、と残念そうに呟く彼の姿が。

 もう二度と、ロレンツォの悲しい顔など見たくない。

 ロレンツォは、家族だ。たった一人の、大切な大切な家族なのだ。


 コリーンは目の前の二つの香水のうち、コリーンセレクトロレンツォヴァージョンを手に取った。


「……ロレンツォを、選ぶか」

「うん……ごめん、アクセル……」

「コリーンなら、俺を選んでくれると思っていたのに……っ」


 残された香水を掴み、アクセルは背を向けた。


「さよなら、コリーン」

「……さようなら、アクセル……」


 去り行く彼の残り香。アクセルと過ごした三年間を思い返しながら、コリーンはその背中を見送った。

 涙は、なかった。

 ただ、苦しかった。

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