第5話 もう一人へのプレゼントに

 翌日、コリーンは図書館のいつもの場所でソワソワしながらアクセルを待つ。手提げ袋の中に入っている香水を、早く渡したくて仕方がない。

 しばらく待っていると、扉から入ってくるアクセルを見つけて、コリーンは慌てて勉強していた本を片付けた。


「おはよう、アクセル!」

「おはよう、コリーン。勉強はいいのか?」

「うん、アクセルにプレゼントがあって。ここじゃなんだから、外に出てもいい?」

「ああ。もちろんだ」


 アクセルを外に連れ出すや否や、コリーンは香水の入った袋を手提げから取り出した。


「はい、約束の香水!」

「なに!? 俺が払うつもりでいたのに……いくらだ?」

「実はそれ、ただなんだ。調香師の資格を取得したお祝いに、お店が作らせてくれたの」

「そうなのか。自分の香水を作ればよかったものを」

「アクセルのための香水を、早く作りたくって」

「……そうか、ありがとう」


 アクセルはそう言って、嬉しそうに目を細めた。そして袋から出すと、ラッピングを解く。


「コリーンセレクト?」


 アクセルは箱に書いてある文字を読んだ。コリーンは気恥ずかしくて、照れ笑いする。


「うん。適当に名付けちゃって」

「いや、いいな。香りは……」


 小瓶の蓋を開けて、アクセルはそっと鼻を近付けた。緊張の一瞬である。

 アクセルは目を瞑り、すっと吸い込む。その小難しい表情が、笑みへと変化する。


「ああ、いい。なんだかしっくりくる香りだ」

「本当!?」


 コリーンは飛び上がるようにして喜んだ。実際、うさぎの様にピョンと跳ねた。それほどまでに、嬉しかった。


「これね、クランベールでコリーンセレクトって名前を出すと、調香してくれるって!」

「そうか。では遠慮なく使えるな」

「ねぇ、付けてみて!」

「ああ」


 最近アクセルは香水をつけなくなった。コリーンが完成させるのを待ってくれていたのだろう。

 アクセルは香水を己の手首につけようとし、コリーンは思わずそれを止めた。


「あ、手首にはしない方がいいよ。日に当たるとシミになることがあるんだって。おすすめは、左胸! 心臓の脈動で香りが上がってくるんだよ。それに体温の高い場所だから、つけるのが少しでも香りが高くなるの」

「そうなのか、知らなかったな」

「あと、こうして女の人が寄りかかった時にも、一番香りを感じられて……」


 コリーンとアクセルの顔がカッと染まって、そのまま硬直した。アクセルに説明するために、つい寄りかかってしまったのだ。


「あの……その……どうぞ、よかったら、使ってね」


 コリーンはギクシャクとしながらアクセルから離れる。そしてアクセルもギクシャクとしながら頷いた。


「わかった……大事な人とのデートの際には、必ずつけよう」

「うん。そうしてくれると、嬉しい」


 二人は見つめ合うと、互いに微笑した。


 アクセルとのこうした付き合いは、長く続いた。

 一緒に図書館で勉強したり、ご飯を食べに行ったり。

 しかし、それ以上に関係が進むことはなかった。コリーンは物足りなさを覚えると同時に、これでいいんだという思いもあった。

 なぜならコリーンは、既婚者だからだ。誰かと付き合う気も、ましてや体を許すつもりもない。もしも妊娠した時のことを考えると恐ろしい。

 アクセルならば責任を取ってくれるだろうが、結婚生活が十年以上続くとは限らないのだ。アクセルと離婚した後で、またロレンツォと結婚してくれなんて言えるはずもない。更に十年もの制約を、上乗せさせられるわけがないのだから。

 ロレンツォとの婚姻生活を残り四年半続ければ、ファレンテイン市民権が得られる。それをジッと待つのが最良だということを、コリーンは心得ていた。


 だから、べつにアクセルとなにもなくたって……

 その方が、いいんだから……


 アクセルとは、キスどころか手を繋いだことさえない。一度寄りかかってしまったことはあるが、それだけだ。何の進展もない。


 好かれていると思ったんだけど……思い違いだったのかな……


 胸が苦しい。アクセルを思うと、そしてアクセルになにも思われていないのかもしれないと思うと、胸が痛い。

 自分から状況を進展させるわけには行かない。ファレンテイン市民権を得るまでは、今の関係が一番ベストなのだ。この状態を四年半続け、ファレンテイン市民権を得た後に好きだと告白すればいい。


 四年半……他に、アクセルに好きな人ができなきゃいいけど……


 見知らぬ誰かのためにコリーンセレクトをつけているアクセルの姿を想像して、胸が張り裂けそうになる。

 今、アクセルは会うたび、あの香水をつけてくれてはいるが。それがいつまで続くかはわからない。

 結婚十周年でロレンツォと離婚できる日が待ち遠しくて仕方なかった。


「そういえば」


 いつものように食事をしていたアクセルが、思い出したように言う。


「ロレンツォが、準貴族になるそうだ」


 アクセルの口からは、よくロレンツォの名前が出てくる。ロレンツォからもよく聞かれるし、互いに仲がよいのだろう。


「準貴族? 本当?」

「ああ。カルミナーティという姓を賜るそうだな」

「へぇ……一般市民が準貴族になることって、そうないんでしょ?」

「そうだな。俺はイオス殿くらいしか知らない」


 これは、お祝いに香水をプレゼントしなければ。ノルトの田舎から出てきた少年が、準貴族という地位を賜るのだ。これを祝わずして、なにを祝うというのか。

 情報を得たコリーンは、腕輪を買うための貯金を崩して、クランベールに向かった。あれからも調香の勉強は続けているし、嗅覚も鋭くなった。ロレンツォのための香水も、思い通りに作りたい。


「あら、コリーン。調香は久しぶりね」

「師匠。六十ミリリットルのボトルの調香は、いくらでしたっけ?」

「九千ジェイアよ。でもコリーンなら、八千ジェイアにしちゃいましょう」

「ありがとうございます!」


 コリーンは早速調香原料を手に取った。

 ロレンツォは基本的に香水はつけない。でも香りには割と敏感で、毎日使う石鹸には拘りがある。なのでロレンツォは、香水を付けなくても石鹸の良い香りが漂ってくるのだ。その石鹸の香りとブレンドされても、お互いに邪魔せず、引き立てるような香水を作る必要がある。


「あら、フルーティね。自分のを作るの?」

「……これ、男性だとやっぱりおかしいかな」

「そんなことはないんじゃない? 香りなんて、つける本人が気に入っていれば、それでいいのよ」


 その言葉を聞いて、コリーンは作業を進めた。ロレンツォはこの香りを気に入ってくれる自信がある。彼の使う石鹸は、いつも柑橘系だ。フルーティと混ざれば、スッキリと、それでいて甘い香りが互いを引き立てるに違いない。


「出来た!」

「あら、いい香り。でも少し寂しいわね」

「いいの、これで。体臭も織り込んで作ってあるから」

「成程。本当にその人専用ね。で、名前は何にするの?」


 そう聞かれて、コリーンは少し悩んだ後で言葉を口にした。


「コリーンセレクト ロレンツォヴァージョン」


 この名が後々騒動を起こすことになるなど、この時のコリーンには考えも及ばなかった。

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