第15話 違和感があるそのわけは
翌日には離婚届を提出し、コリーンの市民権のカードからは、カルミナーティの文字が消えた。
ロレンツォはとりあえず必要最低限の荷物を持って、イーストドールストリート沿いにある家へと向かう。この家に足を踏み入れたことは、数える程しかない。埃臭くて、ロレンツォは窓を開け放った。
「……広い家だな。掃除が大変そうだ」
騎士隊長の面子を保つ意味で、ほぼ強制的にこの家を貸し与えられた。リゼット、スティーグ、アクセルという貴族連中は立派な家に住んでいるし、元一般市民であるイオスは自分の家を建てている。エルフであるウェルスだけがロレンツォと同じように家を貸し与えられているが、彼は隊長になる前から借りている家なので、ここまで大きくはない。
ある程度片付けが終わると、ロレンツォはいつものように煙草を燻らせた。
「結婚でもすれば、ちょうどいい大きさの家に感じるのかな」
ふと、リゼットの顔が
ここで鼻歌を歌いながらご飯を作ってくれるだろうか。
コリーンには無事市民権を与えられて、離婚することができた。ようやく自由の身である。これでウェルスが幸せになってくれれば、再びリゼットと付き合えるだろう。
そんな日はそう遠くない、とロレンツォは確信している。
なぜならば、ウェルスとその元恋人がまだ愛し合っていることを、ロレンツォは知っていた。
ある時、ディーナという元奴隷の女性が軍議中に飛び込んできて、ウェルスに盛大な告白をしたのだ。また、ウェルスの方も最後の出撃の前に、ディーナを貰い受けたい気持ちがあることを伝えていたのを、ロレンツォは聞いていた。まだ二人には難関があるようだが、参謀軍師であるイオスに相談していたようだし、解決するのも時間の問題だろう。
もし、ウェルスとディーナがよりを戻せば。
リゼットの自責の念もなくなり、自分も幸せになってもいいと思えるはず。そうなれば、またリゼットと付き合える。そして今度は結婚だってできる身なのだ。
ロレンツォはそんな日が来るのを想像し、幸せな気分に浸っていた……はずだった。
煙草はすでに手元まで燃え尽きていて、ロレンツォはそれを灰皿に置く。
なにかが違うな、とロレンツォは首を捻らせた。
「眼鏡、か?」
いつものように黒縁の大きな眼鏡を掛けてみる。違和感が、少しだけ解消された。本とノートをテーブルの上に置くと、より一層緩和される。しかし、まだなにかが足りない。
「……コリーンの、視線だ」
この家にコリーンはいない。いつもの煙草を燻らせる時に送られる、コリーンの視線がここにはない。
喪失感……虚無感?
なんだ、この気持ちは。
アルバンで暮らしていた時にはなんともなかったが、トレインチェで別々に暮らすというのは、どうにも違和感がある。
そこにあるはずのものがない。その物寂しさ。違和感。隔靴掻痒の感がある。
ロレンツォはもう一本タバコに火を点けた。
コリーンはどうしているかな。
俺が家に帰れない時、コリーンもこんな気持ちでいたんだろうか。
今、コリーンはどんな気持ちでいるのか……。
ふと、ロレンツォは既視感を覚える。この、誰かを恋しく思う気持ち。それをロレンツォは一度経験している。
「……懐郷病か」
何とロレンツォは、アパートを出てから一日も立たぬうちに、ホームシックにかかってしまっていたのだった。
次の日。仕事が終わると、ロレンツォはイースト地区の家には帰らず、ノース地区のアパートに向かった。
扉を開けようとしたが、鍵が掛かっている。まだ仕事から帰って来ていないのだろう。仕方なくロレンツォは、勝手に鍵を開けて入った。当たり前だが、部屋はまだロレンツォが出て行ったままだ。
ご飯は誰かと食べてくるだろうか。そう思いながらもロレンツォは野菜を手に取り、料理を作り始めた。いつもコリーンが作ってくれていたので、自分で作るのは久しぶりだ。
料理を並べ終わると、玄関で扉の開く音がした。
「あれ? ロレンツォ?! びっくりしたあ!」
泥棒かと思った、と言いながらリスの手提げ袋を置くコリーン。十年物の手提げだが、目立った汚れや破れもなく、綺麗に使われている。
「荷物を取りに来たの? あ、ご飯作ってくれたんだ」
「もしかして、食べて来たか?」
「ううん、仕事終わってすぐに帰って来たよ。お腹空いた」
コリーンは席に着き、ロレンツォと共に食事を始める。美味しそうに食べてくれる彼女に、ロレンツォは聞いた。
「いつもこんなに遅いのか?」
「いつもじゃないけど、店主のディーナさんが配達や狩りに出てて、私が店番の時はこんな感じかな」
時刻は午後八時半。職場であるウエスト地区から戻ってくるのに三十分の距離だ。ロレンツォは顔をしかめた。
「遅くなった時は迎えに行こう」
「ええ? いいよ。イースト地区とウエスト地区じゃ真逆だし。ここまで送ってたら、ロレンツォが帰るの遅くなるよ」
「だが最近、よくない事件が起こっているし」
「それってイースト地区の事件でしょ。ここもお店も大丈夫だよ」
「安易に考えるな。どこで起こってもおかしくないんだから。気を付けるに越したことはない」
「はーい。なんか急に過保護になったね」
「一人暮らしをさせるのは初めてだしな」
「なにを今更。ロレンツォが戦争に行ってる時は、私いつも一人だったんだよ」
「そうだが、家で勉強していると思うのと、夜遅くまで働いていると思うのとじゃ、気構えが違うんだよ」
「そういうもんかな」
そう言いながら、コリーンはどこか嬉しそうに笑った。
「ごちそうさま! 久々のロレンツォのご飯、美味しかった!」
「それはよかった」
「もう帰るの?」
「いや……面倒だ、泊まっていくか。いいか?」
「もちろん!」
まさかホームシックにかかってしまって帰りたくないとは言えず、ロレンツォはそんな言い方で誤魔化す。
「仕事は楽しいか?」
「うん。経理だけじゃなくて、色々させて貰ってるんだ。すごく勉強になる」
「給料はいくら貰えてるんだ?」
「月に六万ジェイア」
「……やっていけるのか?」
ここの家賃だけで三万ジェイアはする。風呂に張る湯を買ったり、灯りとりのための油を買ったり、毎日の食料を買っていたりしたら、すぐになくなる……というより、ギリギリの生活になるだろう。
「まぁ今は少ないけど、店が安定すれば給料は上げてくれるって言ってくれたから」
「じゃあそれまでは、俺がここの家賃を払おう」
「それじゃあ自立にならないでしょ。大丈夫、少しは貯えもあるし」
「そう言えば、今月の小遣いを渡していなかったな」
財布を取り出そうとするロレンツォを、コリーンは制して口を尖らせた。
「ロレンツォ! ちょっと見守っててくれない? 私、自立したいの」
そうか。もうこういう行為は迷惑になるんだな。
今まで上げていた小遣いは、コリーン貯金に回そうと考える。結婚する時には、いくらかまとまったお金を持たせてやりたい。
「わかった。じゃあ、どうにも立ち行かなくなった時には……できればそうなる前に相談はしてくれ。迷惑を掛けるなんて思わなくていい。遠慮も無用だ。家族なんだからな」
そう言うとコリーンはこくりと頷き、感謝の言葉と共に笑顔を見せてくれていた。
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