第二章
序 客車にて
女性が一人、客車から窓の外を見つめていた。景色は見定める間もなく流れていき、気を紛らわすにはちょうどいいものだった。女性の名はマリアンナ・ウィザーズ。魔公国公女・大公位継承者第一位その人であった。
「はあ」
マリアンナはたおやかに、息を吐く。続いて虚ろな瞳で、再び外を見つめた。その姿さえも美しい有様は、まさに大陸有数の美姫と噂されるに相応しい。歳は十九、容姿は端麗。本来であれば、心軽やかにこの大陸周遊鉄道の車中にあるはずだった。しかし今、彼女の心には陰りが色濃くはびこっていた。
「やあやあ姫様! どうにも気分がすぐれないご様子。楽団でもご用意しますか? それとも腕利きのコックでもお呼びいたしましょうか? この列車には、なんでもございますぞ!」
その陰りの要因が、声も高らかに彼女の部屋へと現れた。ノックの一つさえ省くさまから、口ぶりとは異なる態度であることはよく分かる。マリアンナは柳眉を潜め、淡々と応じた。
「要りませぬ。ゴルドマント中佐。わたくしには心平らかな、静かな時間さえあれば、それで十分でございます」
「これはしたり! せっかくの我が国、水帝国へのご行幸だというのに、気分穏やかならぬは我々の失態! 教えてくだされ、公女様。一体なにがそこまでお心を?」
大仰な仕草で振る舞うゴルドマント中佐なる男。そう、彼こそはあの夜の森、隊を連ねてマギアス侯を襲撃した者である。今は金マントこそ外しているものの、その慇懃な振る舞いに変わりはない。否。相手が高貴な分だけ、いやらしさが増している。
しかし姫は立ち上がる。豊かな胸に手を当て、訴えた。豪奢な銀の髪、わずかながらに乱れが見える。
「では中佐にお聞きします。わたくしの付き人たちはどうしているのですか? この列車に乗って以来、世話をされるどころか顔を合わせたこともない。なにかを頼めば、全て水帝国の者が現れる始末。これでは」
「ご安心ください。姫様の付き人たちは、皆様この車中で憩っておられます。そもそも今回の行幸は我々が手配したもの。姫様側にお手間を取らせるつもりは、一切ございません」
「……」
姫は黙したまま、席へと戻った。列車に乗り込み早二日。起こっている事実に彼女が気付かぬ理由は、どこにもなかった。これは旅行にかこつけた、護送である。このまま水帝国に入ってしまえば、おそらく帰国を願ってもはぐらかされる。留学先たる土国にも、故郷たる魔公国にも、帰ることが叶わなくなるのだ。その先に待つのは――。
「わかりました。下がってください」
「しかし」
「重ねて言います。下がってください。ここは淑女の客室です。そう万度入られましては、片付けさえもままなりません」
公女は、あえて散らしておいた書物を晒す。実のところは、気を紛らわすための読み散らしだ。しかし、心理的な効果を与えるには十分である。事実として軍人は、大仰な敬礼をして引き下がった。
「これは失礼致しました。されど公女様は我が国の賓客。お手を煩わせるつもりは、一切ございませぬゆえ……」
最後まで慇懃に、ゴルドマント中佐は立ち去った。ドアが閉まる音を聞いた後、姫は息を吐いた。あのような男が此度の責任者では、息が詰まるばかりである。しかし、それよりも。
「爺が話を止めているのか、それともまだ内々の話なのか。いずれにしても、わたくしにとってはよろしくないことにはなっていそうね」
豊かな胸を揺すり、椅子の背もたれに身を預ける。一応とはいえ、私的空間が守られていることがまだ救いだった。
「最悪に備えなければ」
公女は、読み散らしていた本の一冊を開ける。分厚い娯楽冒険小説なのは外面のみ。中には、一丁の銃が納められていた。
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