5 漂着

「さて。一旦街へ戻るわよ。『仕立て屋』に『鳩屋』。森でも言った通り、細工……いえ、準備が必要だから」

「まあ一日ぐらいは待つのは仕方ねえか。にしても、だ。爺さ……マギアス候は大丈夫なのか? あの人、一人で帰っちまったぞ?」

「あの人には『影屋』……ええと、闇の護衛を付けたわ。候には申し訳ないけど、なにが起こるかわからないから。それと。どこに耳があるかわからないから、表向きでは爺さんと呼んでおきなさい」

「わ、わかった」


 マギアスの快諾で話が終わり、夜明け前を待って彼を森の外まで送った二人。しかし即座に打って出られるわけではなかった。物事には準備、そして根回しというものが肝要だった。


「手管としては私達の偽装。そして父上からの承諾ね。まあ、承諾とは言っても『良きに計らえ』だけど」


 シャーリーンは苦笑する。本人も分かってのこととはいえ、堪えることには堪えるようだ。


「まあ、言っても詮無きこと。準備が済んだら超特急で移動するから、今のうちに英気を養っておくことね」

「……超特急って、飛ぶのか?」

「バカ。衆人環視で飛んだらマズいでしょ。たしか『馬屋』の支店があったから、そこで用立ててもらうわ」

「そりゃそうか」


 まったく。口を尖らせるシャーリーンは、ホムラから見ても年相応の表情だった。

 ホムラはこの少女と女性のはざまにある娘を、口ぶり以上に認めていた。なぜならこの娘と出会えたことは、彼にとって人生最大の幸運と言っても過言ではなかったのだから。


 ***


 話は、数ヶ月前に遡る。


 過剰という言葉さえ通り越した暴力に身を砕かれ、意識を手放してしまったホムラ。その身体は極道……実態は下衆という言葉でも括り難い暴力集団によって、海のものとも山のものとも知れなくなるはずだった。


 しかし。


「ここは……どこだ?」


 彼はなぜか目を覚ますことができた。立ち上がり、周囲をゆっくりと見回す。見知らぬ浜辺。辺りは明るい。服は暴行を受ける前と変わらず、ただし水で濡れていた。


「助かった……というのとは違うっぽいな……。五体満足で、こうして触る限り、流血もしていない。なら」


 ここは死後の世界か。あるいは。


「おいおい。学生の頃、オタクに借りた本でそういうのを見たことあるが」


 今一つの可能性を思い出し、彼は自嘲した。だったら、死に際に見る夢の方がマシまである。彼は髪を掻こうとし、濡れていることに気付いてやめた。


「とりあえず歩くか……」


 行く宛もなく、彼は歩き始めた。靴は湿って重いが、これも暴行を受ける前に履いていたものだった。


「……万が一マジに異世界だったら、不審者丸出しだな」


 自分を嘲りながら、砂浜を進む。こうして見る限り、どこまでも続いているように見えた。


「おいおい。どっかに村でもねえと、結局おっ死んで終わりになっちまうぞ」


 必然、不安は募る。仮に村があっても、異邦人丸出しの己を受け入れてくれるのか。いや、せめて食料の一つでもくれると助かるのだが。そんなことを思いながら進むと、不意に声が聞こえてきた。言い争いの声である。


「テメエ、一人だけ荒稼ぎで調子こいてんじゃねえぞ!」

「爺さんが伝説の漁師だかなんだか知らねえが、生意気なんだよ!」

「うるせえ! 悔しかったら小倅一人より稼いでみろよ!」


 仮に異世界だとしても、言葉は『日本語に聞こえる』。しかし今不審を抱くのはそちらではない。

 ホムラは足を早め、偶然建っていた掘っ立て小屋の影に身を隠す。よくよく見れば、そこは小さな基地、漁師のたまり場になっていた。魚を干す場や、小舟などが点在している。掘っ立て小屋も、石造りだった。


「こいつぁ、いよいよ」


 ホムラはモゴモゴとつぶやきながら、状況を注視する。言い争いは、その間にも激しさを増していた。最初は三人だったはずのそれは、いつしか一人の少年を多数の漁師が取り囲む形になっていた。しかも、誰も彼もが屈強な体躯だった。


「チイッ」


 ホムラは舌を打つ。目にしているのは、彼が一等嫌う光景だった。多数で一人を、いたぶる姿。たとえ見知らぬ土地であろうと、たとえその気性で一度命を失ったとしても。変えるに変えられぬ芯があった。


「許せねえ」


 身体の中心が、カッと燃えた気がした。いや、真実身体から炎が出ていた。無論、今までにはあり得なかった。服は燃えていない。肌も焼けてはいない。なにが起きたかも分からぬまま、ホムラは漁師どもの前に躍り出た。


「オラァ! 多勢で一人をいたぶってんじゃねぇ!」


 炎が爆ぜるように、彼の体は加速した。無我夢中で、ホムラは己の身体を振り回した。「火の神!」「恐れ多い!」などの言葉が耳に刺さったが、関係なかった。逃げ遅れた一人をしっかり海へ蹴飛ばすと、彼は息を吐き、激情を鎮めた。


「はあ。はあ……。怒りのままにやっちまったが、大丈夫か?」


 改めてホムラが周囲を確認すると、そこには一人、うずくまっている男がいた。いや、男と言うには体躯が小さい。恐らくは先程、いたぶられていた少年だ。ホムラは近づき、気安く声をかけるが。


「おーい、もういいぞー」

「ひぃ! 火の神様、お鎮まりください!」


 少年はうずくまったまま身体をずらし、ホムラを直視しないように努めてしまう。結局この後、説得だけで夕暮れを迎えてしまうことになった。


 ***


 辺りはとっぷりと暮れ、遠くで得体も知れない鳥が鳴いていた。ホムラは少年に連れられる形で、彼の家へと向かっていた。


「神様でも、ドジを踏むことがあるんだね」

「だから神様じゃねーっての……」

「じゃあなんだってそんな赤いのさ。赤い髪に赤い瞳。火を操る。おべべだって赤いし、この世のモンじゃなさそうじゃないか」

「こいつぁ……」


 染めた奴だし、カラコンだ。そう言いかけて、ホムラはやめた。どうあがいても、この少年には通じなさそうである。ここが異世界なら、なおさらだった。


「まあいいや。今夜はちょっと用があるんだけど、飯ぐらいはごちそうしてやるよ。入った入った」

「ほう」

「爺ちゃんが漁師の腕一本で建てたのさ。今じゃ住んでるのは、オイラだけ」


 通されたのは、そこそこ丈夫な作りをした石造りの家。一人で住むには、やや広いか。身体はいつの間にか乾いている。ホムラは、言われるがままに家へと入った。


「父ちゃんは漁から帰ってこなくて、母ちゃんはその前に病気でね」


 聞こうとは思っていなかったのに、少年は勝手に身の上を語ってくれた。手を合わせようかと思ったが異世界の礼儀は分からない。ホムラはひとまず、少年の家族を思って目を閉じた。

 その後、ホムラは少年と飯を食い、語らった。出された料理は不思議とどれもが口に合い、話は捗った。とはいえ、神様扱いだけは変わらなかったのだが。


「ともあれ、ここが火王国、火の神様を奉じる国で良かったよ。近くの街まで行けば、必ず神殿がある。きっとなんとかなるさ」

「俺は神様じゃねえ……が、それが早いか」

「もしくは……今日のお客人に聞いてみるか、だよ」


 ふむ。ホムラは身を乗り出した。少年が仔細を語る。


「この後、ちょっと沖に出て、あるお方を拾うんだ。そっからはちょーっとオイラが細工をして、少し遠くの港に送るんだよ」

「ほう」


 ホムラは興味深く息を吐いた。あるお方とやらが自分に興味を抱くかはともかく、この異世界についての手がかりだけは欲しかった。ホムラは意を決し、彼に付いていくことにした。


 ***


 夜更け。ホムラが空に見る星は、完全に過去に見たものとは異なっていた。月らしきものは見えるが、他の並びが全く違う。彼の心に、えも言われぬ寂しさが立ち上った。しばし呆けていると、少年から声がかかった。


「神様。他の船から見えるとマズいから、もうちょっと照らす高さを下げとくれ」

「わかった」


 指示に従い、ホムラは火の高さを下げる。幸いにして、周囲に船は見えなかった。船は木造で小さく、あまり沖に出るには不向きでは、とホムラは思った。そんな思いを拾ったかのように、少年が口を開いた。


「神様は火を操るけど、オイラは海でちょーっと強いんだ。じいちゃんもそうだったらしいけど、ちょっとだけ魚の声を聞いたり、水面を操ったりできるのさ」

「そっちの方がよっぽど神様じゃないか?」


 さあね、と少年は笑った。ホムラは変わらず、辺りを照らす。先程の怒りを思い出すだけで、不思議と炎は応えてくれた。この変調も、どうにかしたいのだが。


「さて、頃合いだ。神様、空を照らしておくれ」

「おうよ」


 言われるがままに、ホムラは空を照らした。現世――今まで生きてきた世界――との差異が、はっきりと見える夜空。そこに一筋の影が差す。それは、一羽の蝙蝠だった。


「あれか?」

「うん」


 蝙蝠がなぜ、とホムラは思う。しかし蝙蝠はゆるやかに高度を落とし、やがて人の姿に蝙蝠羽を備えたものへと変わる。そして最後には少女の姿をとって二人の前、舳先へと軽やかに舞い降りた。


「あら? 今回はお客人がいるのね」

「はい。火の神様です」


 火に照らされた少女は美しく、肩口で切り揃えられた金髪がよく映えている。ホムラはしばし、その姿に見とれていた。

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