1 夜闇の森にて

 森は奥深く底も見えず、木は生い茂り月をも隠していた。

 そんな暗い森の中を、息せき切って走る人間が居た。質素さの中にも芯の通っていた装束は汗と泥にまみれ、汚れ果てている。とうに長く走ったのだろう。

 手も足も柳のように細く、いつ倒れてもおかしくないほどに頼りない。否。既に足取りはおぼつかなくなってきていた。


 老人である。呼吸は荒く、口はぱっくりと開き切っていた。しかし目には切迫したものが宿っており、深い事情を窺わせる。

 おぼつかなくなろうとも、足は止めていない。その姿には、絶対の意志が込められているようだった。

 そんな老人の背後から、なんらかの物体が襲い掛かった。物体は近くの木に当たると、丸い爪痕をそこに残した。

 弾丸だ。しかも大きさからして通常のそれではない。魔力を固めた弾丸、魔弾であろうか。だが老人はそれを知らぬ。


「バカな」


 老人の思考に、驚愕が走った。銃に撃たれるのはともかく、弾丸の大きさがおかしい。自分のような老体など、容易く吹き飛ばされてしまうではないか。

 暗闇の中だというのに、敵は正確に追いかけて来ている。夜目が利くかのようにだ。もっと早く逃げなければ。急がなければ。なんとしても、本国に急報を――!


「ヒィーヒヒヒ! 撃ちなさいっ!」


 そんな老人を煽るように、甲高い声。直後、魔弾の一斉射が背後から轟いた。

 老人の耳を、重い発砲音がつんざく。慌てて伏せると、その上を魔弾が通過していった。木々を貫き、爪痕を残す。


「な、なんという威力……」


 老人は這うことにした。地上を走っていては、格好の的である。相手が夜でも目が効くようである以上、這う以外の移動手段は奪われたも同然だった。


「悪党、どもめが……」


 怒りの言葉を吐き捨てながら、老人は進む。地べたの泥にまみれようと、彼には成し遂げなければならぬことがあった。

 姫の傅役として、敬愛する者を陰謀の沼底に沈めてしまうことなど、あってはならない。なんとしても、この急場を――


「ヒヒヒヒヒ!」


 そんなささやかな願いすら、叶えられることはなかった。

 背後より響いていたはずの甲高い声が、文字通り飛ぶように前方へと移動した。否。飛ぶようにではない。事実声の主は滑空し、老人の前に立ったのだ。

 黒の軍服を身に纏い、悪趣味な金のマントが夜闇に映えていた。


「我等『マギ・ワルド』が誇る、超人魔導兵団に追われる心地はいかがですかなぁ?」

「くっ……!」

「我々の手はどこまでも伸びますぞ。我々の同胞は、何処にでも居ますぞ。姫を我等のものとした暁には、さらに世界を覆い尽くす所存!」


 金マントの男が手を上げる。ガシャガシャと音を鳴らして、奇妙な甲冑に身を固めた兵士どもが現れた。

 丸っこい形状の、異様な兜に顔を隠し、手には例の超威力弾丸――魔弾――の発射源と思しき銃を持っている。兵士たちは一言も声を出さず、伏せる老人を囲み、銃を突きつけた。


「呪われろ……!」

「これはしたり! 魔公国の侯爵様とは思えぬ発言ですなあ!」


 老人の放った呪詛の言葉に、金マントの男は大げさにおどけた。余りにもの慇懃無礼ぶりは、勝利を確信しているが故の振る舞いか。


「覚えてろ……それがしが斃れようとも、魔公国はうぬらを許さぬ。末代まで恨んでくれようぞ」

「覚えておきましょうとも! 恨みで滅びるほど、我々は弱くありませんのでな! ハッハッハッハッハ!」


 金マントの高笑いが森に響く。おお、老人を多勢で追い回し、追い詰め、葬らんとする。余りにもの無法を、神は許すのか。


「殺りなさい」


 いよいよ老人の頭に銃が突き付けられる。幾つもの硬い感触が、老人の頭を小突いた。彼は目を閉じ、最期の時を待った。しかし最期の時は訪れず、かすかな光が彼の視界を襲った。


「なっ!?」

「ダー!?」

「ダー!」


 声が上がったのを耳にして、老人は目を開けた。視界に飛び込んできたのは、炎の玉だった。一つだけではない。二個三個と飛来し、奇っ怪な兵士どもを襲った。金マントは身を翻して華麗に炎をかわすが、兵士どもは着弾着火に巻き込まれ、ものの見事に混乱していた。味方なのかと、老人は目の前の光景を疑った。


「爺さん、立て!」


 そんな老人に、不意に声がかかった。言われるがままに立ち上がると、続けて声。聞き覚えのない、若い男の声だった。


「早く逃げろ。後で追いつく!」

「なに、もの」

「いいから!」


 夜目と混乱が、老人に声の正体を悟らせる暇を与えなかった。だが老人は、助け舟の声に従った。賭けではあるが、信じることにした。脱兎のごとく、今一度足を踏み出す。捕まっていたのが幸いして、もう少し走れそうな程度には体力が戻っていた。


「かたじけない!」

「いいから逃げろ!」


 礼の言葉さえもはねのけて、声の主が金マントを襲う。なんとも不思議なことに、男の足が、炎を帯びていた。


「オルァ! 爺さん一人を多勢で追い回すたぁ、どういう了見だァ!」


 荒い言葉とともに放たれた蹴りは、弧を描いて空を切る。金マントは周囲に不可視の防壁でも張り巡らしているかのようにひらり、ひらりと炎弾を回避していた。自らの手勢が、火に巻かれつつあるというのにだ。


「了見もなにも、我々は猟犬ですからねえ。その追い回しがお仕事なのです」

「チッ!」


 乱入者が着地し、金マントと対峙した。乱入者の出で立ちは、見れば見るほど奇妙なものだった。赤い髪色はともかく、その下の服があまりにも見慣れない。まるでこの世のものではないかのような染色で赤く、乱入者自身が炎を纏っているにも関わらず、燃えてさえもいなかった。


「しかし手勢がこうではいささか私も不利でありますな」


 金マントは慇懃に言い放つ。本人は全く堪えていないようだが、森には火がつき、甲冑兵士たちは混乱し、のたうっている。金マントは一拍置いた後、全く変わらぬ調子で言い放った。


「仕方ありません。ここは一度引かせていただきましょう。私はゴルドマント。あなたの名を、お聞きしましょう。いずれ、報復いたしますので」

「赤井ホムラ」

「ホムラ! 覚えましたぞ。その燃え滾る炎と、赤い赤い風体! 私は認識いたしました! さらば!」


 金マント、否、ゴルドマントは一礼を決めると、その場でぐるぐると周り始めた。とたん、突風、旋風が巻き起こり、ホムラは思わず顔を腕で覆った。


「待ちやがれ、金マン、ト……ッ!」

「ハハハハハッッッ!」


 ゴルドマントの高笑いが、風圧を切り裂いてこだまする。森に吹き散らされた葉の雨が、ホムラの身体を痛めつける。全てが静まり返った頃には――


「……チッ!」


 敵も木々も、火と風も。なにもかもが嘘のように静まり返っていた。

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