7-21 恋
リコ・メリライネンはツェツィーリアの部屋にいた。彼女の部屋は他の客間より広く、二部屋あるらしかった。通されたのは手前の部屋だった。
品のいい応接セットが一揃いと使われていない暖炉。出されたのは香り高いロシアンティー。部屋中に飾られた宝飾品や舞台のパンフレットが茶請けに目を楽しませてくれる。
今日のツェツィーリアは東洋風の長いドレスを纏っており、時折スリットから見える脚の白さが実に官能的だった。
「さあ、メインディッシュよ――お待たせしてごめんなさいね。急に色々と用事が入ってしまったものですから」
その用事とは二つの事件のことだろうか。それとも人目を忍ぶ客の方だろうか。
ツェツィーリアは微笑を浮かべている。
「あなたのことを聞かせていただきたいわ。何から何まで。どこでお生まれになって、どのような子供時代を過ごされて。軍には自ら志願されたのかしら? あなたの優秀な功績の数々も知りたいわ」
机に肘をつく歌姫は誘うように彼を見ている。
一方のメリライネンはというと、変装屋コンラッドにもらったキャラクターシートを懸命に思い返していた。
「……何も」
ツェツィーリアが首を傾げて先を待つ。しかし、結局彼は開き直ることにした。
「何も話すことはない。個人的な過去は答えたくないし、従軍中のことは話すことを禁じられている。退役しても私はそれを破ることはしない」
これには歌姫も呆気に取られたようだ。
彼女の魅力、そして名声の前で口を噤む者など数える程しかいなかった。彼女の前では誰だって口を開くのだ。その冷たく怜悧な視線に絡み取られれば最後、誰も彼もが秘密を曝け出してしまう――彼女はその技を何年も掛けて磨いてきたのだから。
「……お堅いのね。駆け引きがお望み?」
煽情的な笑み。
メリライネンは答えなかった。ツェツィーリアはつまらなそうに目を細める。
「本当に何もお話しにならないの? そのためにここにいらしたのではなくて?」
「私は呼ばれたから来ただけだ。私に話せることならば話そう」
歌姫は探るような視線で暫く彼を見ていたが、ノックの音が沈黙を遮った。ツェツィーリアが立ち上がる。
「あら、お客様だわ。ねえ、メリライネン大佐。あなたとはもっとじっくり打ち解けないといけないようね。奥の部屋で待っていてくださるかしら? あたくしもすぐに参りますから」
メリライネンは大人しく従った。
奥の部屋は寝室だった。天蓋付きのベッドが腰を据え、シンプルな机と椅子が二脚。ワードローブは巨大な物で、壁の一面を覆っている。姿見も特大のものが鎮座していた。
居心地の悪さに立ち尽くしていると、扉越しに隣室の声が漏れ聞こえてきた。会話の内容がわかる程鮮明ではないが、訪ねてきたのが男性であることだけは確かだ。また、その声は宿泊客の誰とも違う。これがアクバルの言っていた例の男だろう。
立ち聞きをしていたと思われるのはまずいので、彼はとりあえず部屋の中央へ歩を進めた。椅子に座ろうと近寄りかけて、ふと姿見が目に留まる。
グレーの衣装を身に付けた長身の男だ。撫で付けた髪は青みがかり、瞳は一層鮮やかな青。その色に反し、この男はなんて疲れた顔をしているのだろう。虚ろで蒼白い相貌は死人のようにすら見える。
この男は死んでいるのだろうか。
生きているならば、何のためにこの男は生き続けているのだろうか。
ツェツィーリアが寝室へ入ってきた。鏡の前で立ち尽くす男を見、彼の横に立つ。鏡の中の二人は不気味なほど沈んで見えた。
「ご自身のお姿が気になるの?」
耳元に口を寄せ、ツェツィーリアが囁く。メリライネンは目を伏せた。
「あなたはご自分の容姿を気に入ってらっしゃるかしら?」
「……いや。何も思わない」
「あたくしは自分の美しさを自慢にしておりましたの。でも、最近は少し嫌いになってしまったわ」
彼女は優雅な身のこなしで男の後ろへ回り、姿見に手を掛けてしな垂れかかった。
「どんなに美しく容姿を飾っても、芸を磨いて名声を得ても。持ちうるすべてを捧げ尽くしても、たった一人の愛する人すら射止められないのであれば、何の意味も無いのよ。もう何年も、あたくしはそれだけを願って生きてきたというのに」
ツェツィーリアは椅子に腰を下ろした。脚を組み、鏡の前で立ち尽くす男に意味ありげな視線を投げる。男の横顔は硬く、何の感情も現れないまま。
「ご結婚は?」
「いや」
「愛する人は?」
「……ああ」
「その方は今どちらに?」
「わからない」
「……美しい方だった?」
「……誰よりも」
歌姫が微笑む。
それは彼女の仮面が割れた瞬間だった。
「あなた、記憶が無いのでしょう。それなのにどうしてそう断言できるの?」
メリライネンが振り返る。相変わらず無感動な青の双眸が僅かに揺れたのは気のせいだろうか。
ツェツィーリアは目を細め、女帝らしからぬうら寂しい笑みを浮かべた。
「やはりあなたのことだったのね。メルジューヌに聞いたのよ。可哀想な人……記憶も名前も愛する人も、すべてを奪われた男がいると」
男は突然、酷い喉の渇きを覚えた。彼女に向って一歩近付く。しかし、それ以上は何かが彼を躊躇わせていた。
「皮肉なものね……教えてあげるわ。あなたからすべてを奪ったのは、あたしがこの世で最も愛し、そして憎み続けている男なのよ」
「――それは」
「ダメ。あなたはあたしの質問には答えてくれなかったでしょう? 先に答えを聞かせて。記憶の無いあなたが愛しているのは誰? それは『今』のあなたが出会った人?」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は長く躊躇っていた。
何気ない会話の中で訊かれることは度々あったが、彼は常に回答を避けてきた。
その話を口にすることは、今ある『彼』を愛してくれるすべての人を裏切るような気がするのだ。
ぽつり、と。
一度口に出し始めたら、積年の想いはもう留めることができなかった。
「……私には、記憶がない。あるのは貿易商として過ごしたこの十年程度の思い出だけだ。数多くの仲間や、恩人や、家族と呼べる者もできた。私のもとを去っていった者、二度と会えない場所に行ってしまった者もいた――私はそのすべてを大切だと思う。私にとって大事な存在だと断言できる」
だが、と彼は一息おき、自分の両手を見下ろした。
節が目立ち、たこができた手の平。その手で抱き寄せたかもしれない誰かの存在を、彼はどうしても否定できないでいる。
「記憶を失う前の私にも、愛する者があっただろう。年齢を考えれば、結婚して家庭を持っていたとしても不思議はない。もしそんな存在が本当にいたとすれば、私はその人にきちんと別れを告げることができたのか? 今もどこかで私のことを待っていないと、どうして言い切れる? 私は『私』の愛した人を裏切りたくない」
苦悶を滲ませ、彼は最後に付け加えた。
「きっと、過去の『私』が現在まで記憶を持ったまま生きていたとしても、『私』はそれを望まない」
「……美しい話ね」
ツェツィーリアの声は冷たかった。
「だけど、『その人』の存在を確信することもできないのでしょう? いたかもしれない。いなかったかもしれない。いたけれど、もう愛することをやめていたかもしれない。その人があなたに酷い裏切りをした可能性だって否定できない――それでもあなたは、『今』を生きるつもりがないの?」
彼は真っ直ぐ歌姫を見た。彼女の口元に浮かんだ意地の悪い歪みを見据え、それでも彼はただ、穏やかに頷いただけだった。
そこにやはり表情は無かったけれど。海色の双眸はこの上なく清らかに澄んで、純真であった。
「――そうだ。その通り」
名前の無い男は続ける。
「私は顔も名前もわからない、存在すら定かではない誰かについて、もう何年も只管に恋焦がれている。記憶の中にすら想い描けない誰かを、ただ盲目に愛しいと願って、叶わぬ恋をし続けている」
ツェツィーリアが微笑する。哀しく優しい笑みだった。
「その人は美しい?」
「こんな私が愛した人だ――その存在のすべてが、ただそれだけで美しい」
まるで時が歩みを緩めたように、二人の時間はゆっくりと過ぎていた。
黄昏の光が窓を橙に照らしても、二人の間には仄かに暖かい淋しさがあるだけだった。
ツェツィーリアがつと手を伸ばし、彫刻のような男の頬に触れる。彼はそれを拒まなかった。細い指先の冷たさに黙って身を委ねている。
「とても切ない恋をしてるのね。叶わぬ恋はあたしと同じ――でも、あなたはもっとずっと孤独で、救われないわ」
「……救いなど、とうに諦めてしまった」
「嘘吐き。あなたは諦められなかったから、あたしのところに来たのでしょう?」
男は目を開き、女の白い手を掴んだ。無意識に強く握り締める。歌姫は薄く笑い、彼に向って小首を傾げた。
「あの娘にそそのかれたのでしょう。そう、あたしはあなたの過去に繋がる扉の場所を知っているかもしれないわ。知りたい?」
強い、喉の渇き。
「……ああ」
歌姫は立ち上がった。指がするりと白蛇のように手の中から逃げて行く。彼女は退室を促すように扉を開けながら振り返った。
「よろしくてよ。交換条件ですけれど――明日の晩に行われるあたくしの舞台。それをあなたにも見に来ていただきたいの」
ツェツィーリア・キリアノワが微笑む。
ふと、〈アヒブドゥニア〉号の船長は、自分が今女帝の前に跪いているのだと気が付いた。
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