7-20 名探偵メルジューヌ

「まずどこに行こうか?」


 エアロンが言う。メルジューヌは指を二本立てた。


「二つ考えがあるの。一つは船長さんとベンジャミンの手を借りたいわ。それからケインズついて、実はすごいことを知ってるの。それを確かめに行くのが二つめ」

「ケインズの件は調べることなんてないでしょ? あ、ベンがいたよ」


 ベンジャミンは談話室でクルグマン伯爵と話し込んでいた。


「ちょっといいですか? ベンに手を貸してほしいことがあるんですが」


 彼は機嫌よくグラスを置いた。


「いいとも。何かな?」

「ええと、それからメリライネン大佐を見ませんでした? 彼も必要なんだけど……」


 すると伯爵が唸るように答える。


「大佐ならツェツィの部屋にいるだろう。少し前に呼ばれて言ったぞ」

「おや。あんな事件があっても歌姫の面談は中止にならないんですね。それじゃあすみませんが、大佐が戻ったらまた声を掛けに来ますね」


 エアロンたちは仕方なくメルジューヌの二つめの案を実行することにした。

 メルジューヌが向かったのはダニーク医師の部屋だった。ノックに応えて侍者が顔を出す。ダニークは机で本を広げていて、二人が話したいと言うと侍者を退室させた。


「どうぞお掛けください」


 医者は二人に椅子を勧めた。

 部屋はメリライネン大佐が泊まる二人部屋と同じレイアウトのようだった。二つあるベッドのうち、どちらが医者でどちらが侍者かは一目瞭然だ。几帳面に整えられ、サイドテーブルには整髪料や香水が並ぶダニークのベッドに比べ、侍者のベッドはシーツにも皺が残り、荷物はトランクからはみ出している。


「お二人とは意外な組み合わせですね。どんなご用でしょうか?」


 エアロンが何か言う前に、メルジューヌが口を開いた。


「ダニーク先生、ケインズにどんな弱みを握られているの?」


 ダニークが目を見開く。エアロンも唖然として彼女を見た。当の令嬢は澄まし顔で、口元には僅かな笑みさえ浮かべている。


「一体何の話をしているんだい?」


 ダニークは穏やかな口調のままだったが、その目には微かな苛立ちが見えた。


「あたし、昨晩あなたが庭でケインズと会ってるのを見たのよ。本当に一瞬だったけど、何か渡してたような気がするの。あれって実はお金だったんじゃないかしら」


 医者は明らかに動揺した。


「は?」


 メルジューヌは黙って微笑んでいる。

 医者の中には怒りや戸惑い、呆れなど様々な感情が渦巻いているようで、最後にはグッと唇を引き結んだ。


「すまないね、何のことかわからなくて戸惑ってしまったよ。ミス・リジュニャン、それは君の見間違いではないかと思うのだが」

「じゃあ、渡していたのはお金じゃないのね。だけど外で会っていたのは本当でしょう? だってあたし、見たもの。オーランドも見ているはずよ。呼んできてあげましょうか」


 再び、ダニークに一瞬の間。

 エアロンは自信満々の殺人鬼と社会的地位のある医者、どちらを信じるべきか悩み、怪訝そうにメルジューヌを見た。


「でも、さっきオーランドが怪しいものは何も見ていないって――」

「それはそうよ。だって、ケインズさんやダニーク先生が庭に出ているのは何も変じゃないじゃない」


 ダニークは言葉を詰まらせていたが、ついに絞り出すような溜息を吐いた。


「……なるほどね。だが、私とケインズ氏の間に何かあったというのは君の邪推に過ぎないんだよ。確かに私は昨晩一度外に出た。大一番の勝負が終わってホッとしたから、夜気で頭を冷やしたいと思ったんだ。そこでたまたまケインズ氏とすれ違ったが、その時のことを言っているんだろう」

「ああ、そう言えば一度席を立っておられましたね。確か僕らが飲み物を作っている時だったから、本当に短い間だけだったと思いますけど」


 エアロンが言うと、医者は熱心に頷いた。


「そう、その時です。あれはかなり燃える勝負でしたよね」


 そして、メルジューヌに向き直る。


「私たちは軽い挨拶を交わしただけで、特にそれ以上は話さなかったよ。ケインズ氏は寝る前の散歩をして来たと言っていて、談話室に戻ろうと誘ったら断られた――それだけだ。ほら、何も変なことはしていないだろう?」


 医者は子供に言い聞かせるように、辛抱強くメルジューヌの目を覗き込んで言った。

 それでもなおメルジューヌは表情一つ変えず、口元に穏やかな微笑を浮かべたまま黙って見つめ返している。彼女に反省の気配が無いと知り、ダニークはやれやれと溜息を吐いた。


「探偵小説がお好きなのかな。遊び心のあるお嬢さんは魅力的だと思うが、こういう事件のあった時にそんな話を思い付くのは正直言って褒められない。私だから黙っておいてあげるが、間違ってもクルグマン卿などに言うんじゃないよ」


 エアロンは何も言わないメルジューヌに代わり、ダニーク医師のご機嫌を取ることにした。


「お騒がせしてすみませんでした。僕からも謝罪させてください。僕も彼女の冗談に気付けず――ですが、さすがドクターですね。こういった発言への対応も慣れてらっしゃる」

「なに、ショッキングな出来事が立て続きましたからね、お若い方には刺激が強すぎたのです。できればカンタールさんからも、こういった冗談は時に受け入れられないものだと教えてあげてください」


 ダニークは少し気分を良くしたのか、にこやかに返した。ところが、メルジューヌは絶対に謝罪する気が無いようで、立ち上がって彼のことを見下ろした。


「あなたがそういうことにしておきたいなら、それでもいいわ。あたしだから表沙汰にはしないでおいてあげるけど、あなたがどんなに嘘を吐き続けても、真実を知っている人は絶対常に存在してしまうんだってこと、忘れない方がいいと思うわ」


 ダニークの顔色が変わる。顔の片側が引き攣り、見る見るうちに頭に血が上っていく。

 エアロンはこれはやばいと判断し、メルジューヌの腕を掴むなり急いで言った。


「すみません、ドクター。お寛ぎのところを邪魔してしまって。失礼いたします」


 足早に部屋を後にする。後ろ手に閉めた扉の向こうがしんと静まり返っていることが、余計に背筋を凍らせた。



***


「メルジューヌ、君はわざとやっているのか? なんであんな喧嘩を売るようなことを言うんだ!」


 エアロンはメルジューヌの肩を掴んで言った。彼女はムッと唇を尖らせる。


「エアロンはあたしとダニーク先生、どっちを信じるの?」

「はあ? そういう問題じゃなくてさ。例え君が本当のことを言っているとしても、ああいう時は大人しく引いた方が後々のためだ。相手によっては君の身が危険になるんだから」

「あら。エアロンたら、あたしを心配してくれてるの?」


 メルジューヌが微笑む。エアロンは苛々と額を押さえた。


「だからぁ、そうじゃなくて――」

「もうっ、やっぱりあたしのこと信じてくれてないのね。いいわ。後で本当だって証明しに行きましょ。でも、まずはもう一つの実験をするのよ」


 二人はもう一度談話室に足を運んだ。クルグマン伯爵がいなくなり、代わりにフローラがベンジャミンの相手をしている。二人は備え付けられた本棚から共通のお気に入りを見出したらしく、昨日よりも打ち解けているように見えた。


「大佐は戻ってきました?」

「いいや、まだみたいだねぇ」


 メルジューヌが腰に手を当てる。


「仕方ないわね。じゃあロードマンさんだけでいいわ。階段の下までいらしてくださる?」


 エントランスにはフローラも付いて来た。何をするのかと興味津々で眺めている。

 メルジューヌはエアロンに向かって手を差し出した。


「エアロン、銃持ってるでしょ? 貸して」

「はっ? え、嫌だよ」

「さっき触って確かめたから知ってるのよ。それともあたしに取ってほしい?」


 エアロンは歯を見せて唸った。


「君に銃を渡すなんて危険なことをしたくないんだ」

「だったら弾は抜いていいから。大丈夫、撃ったりするわけじゃないのよ」


 エアロンは渋々弾倉を抜いたハンドガンを彼女に渡した。メルジューヌは軽やかに階段を上り、踊り場の端から下を覗き込んだ。


「昨晩ロードマンさんが撃たれた場所に立ってくださる? エアロン、あなたは船長さんの役よ。どうかしら?」


 ベンジャミンは困惑気味に足元を見回した。


「ええと、どこだったかな? 酔ってたからよく覚えてないんだが……」


 フローラが口を出す。


「撃たれる瞬間はわからないけど、お二人が倒れ込んだのはもう少し前でした――そう、その辺り。血痕が残っていませんか?」


 続いての指示は倒れた時の体勢を再現すること。エアロンは服が汚れるのを心底嫌がったが、女性陣に急かされて渋々俯せになった。


「そうだ。もう少し体がボクの上に重なっていて――わあ。大佐も大きいと思ったが、エアロンくんは本当に背が高いな」

「いいから黙って潰れててくださいよ」


 エアロンは腹立ちまぎれにベンの頭を床に押し付けた。


「フローラ、弾痕の場所を指してちょうだい」


 メルジューヌはハンドガンを構えると、フローラが示した点に照準を合わせるよう移動した。弾道から推定するに、発射位置は廊下のギリギリ端であり、かつ膝くらいの高さから放たれたようだ。


「あたしは届かないけど、大人の男の人だったら、廊下の端に身を隠した状態でも撃てると思うわ。腕をこんな風に伸ばせばね。片手になるから女性だとちょっと厳しいかも」


 それじゃ、とメルジューヌはそのままの位置から次の指示を出した。


「エアロン、ロードマンさん、立ち上がって。場所は動いちゃだめよ。そのままの位置で体だけ起こすの」

「そんな無茶な」


 二人はフローラの手を借りながら四苦八苦して立ち上がった。エアロンが二階を見上げるなり悲鳴を上げる。


「ひっ。メルジューヌ、僕に銃を向けるなってば!」

「これでわかったわね――犯人はロードマンさんではなく、メリライネン大佐を狙っていたのよ」


 ばーん、とふざけて引き金を引く。弾が入っていればエアロンの胸か喉辺りに当たっていただろう。銃を返すときにエアロンにしこたま怒られたが、彼女は楽しそうだった。

 ベンジャミンとフローラも探偵ごっこに加わり、四人は談話室で机を囲んだ。


「ちぇっ。ボクじゃなかったのかあ」


 ベンジャミンは安堵しつつ、少し残念そうに言った。


「犯人は絞り込めたね。ダニークの侍者だ」


 エアロンが昨晩の推理を展開する。ベンジャミンは素直に感嘆したが、フローラは眉を寄せた。


「決め付けるのは早計です。アリバイが確認できていないのだから、ケインズさんの可能性は捨てられません」

「確かにそうですが、ケインズを犯人とした場合、彼はこの犯行に及んだのちにミロスラヴァ夫人を襲ったことになります。なんだか計画性も一貫性もないと思いませんか?」


 エアロンの反論に彼女も黙り込む。

 ケインズとミロスラヴァ夫人の間に何があったのかわからない以上、その件について議論するのは無駄だと思われた。一同はとりあえずダニーク医師の侍者が犯人という線で検討することにした。


「でも、動機は謎のままだな。エアロンくん、心当たりは無いのか?」

「無いですよ」


 そもそも、とフローラが考え込む。


「あの男は何者なんでしょう? 雰囲気が侍者っぽくないですよね」

「本人に聞いてみる? いえ、ダニーク先生に聞いてみましょうか。先生ならきっと『なんでも』教えてくれると思うわ」

「メルジューヌ」


 エアロンが嗜める。メルジューヌは反省の色も無く悪い笑みを浮かべていたが、フローラが首を振った。


「まだだめよ。あのね、メルジューヌ、証拠が無いの。状況証拠だけで問い詰めたってはぐらかされるだけよ」

「うーん、証拠、証拠……思い付かんなあ」


 ベンジャミンが唸る。それよりも、とフローラは再度首を振った。


「あと一日半あるんです。一度目は失敗しましたが、二度目が無いなんてわかりませんよね? だから、あの、今はむしろメリライネン大佐をお守りする方が重要ではないでしょうか」


 確かに、と一同は顔を見合わせた。


「よし、それならこの後大佐が戻って来次第、交代で彼の護衛に就くというのはどうだい?」


 ベンの提案に三人は頷いた。エアロンの比重が大きくなりはするけれど、四人で順番に大佐の傍に陣取り、彼の周りで不審なことが起こらないよう目を光らせることにする。


 しかし、とエアロンは顔を顰めた。

 何もかも釈然としないことばかりだ。何か大きな悪意が屋敷の中に渦巻いているような気がして、なんだか酷く落ち着かない。

 不意にメルジューヌが彼の方を向いた。目が合ってビクリとしてしまう。

 そう、その悪意はいつこちらに向けられるかわからないのだ。

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