7-19 意外な展開
ところが、次の日の朝。
エアロンの部屋を訪れたキリアノワ邸の使用人は困惑気味にこう言った。
「おはようございます、カンタール様。大変申し訳ございませんが、本日の朝食はお部屋にお持ちしたいと存じます。また、私共からご連絡差し上げるまで、午前中は部屋から出ないようにお願い申し上げます」
「ええっ? なんで? 昨日の事件のせい?」
使用人は言い淀む。
「いえ、それが……今朝、また違う事件が起きまして。その対処をしておりますので、ご宿泊のお客様方にはご協力をお願いしているのです」
これには大層驚いたし、また興味もそそられたが、エアロンも大人しく従うことにした。
時折バスルームに行くふりをして廊下に出てみたが、手掛かりになる情報は得られなかった。ただ、彼の部屋の前を何度か使用人たちが往復したような気はする。
***
謹慎が解かれ、食堂に呼ばれたのは正午より少し前のことだった。昨晩と同じように着席しているが、ミロスラヴァ夫人とケインズの姿が見えない。
ツェツィーリアは緊張した面持ちで一同を見まわし、二人を待たずに話を始めた。
「今朝は皆様にご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。実はこの夜の間に、昨晩に続く痛ましい事件が起こりましたの。そのため、ミロスラヴァ夫人とケインズ氏はこちらに見えておられません」
「まさか! 今度はお二人が襲われたのですか?」
ベンジャミンが悲鳴を上げる。彼の側頭部には仰々しく包帯が巻かれているが、本当に大した傷ではないのだと医師は苦笑していた。
「それが、なんとも申し上げられないのです。身内のこと故、あまり表沙汰にはしたくないのですけれど……」
あの気丈なツェツィーリアが珍しく躊躇っている。ここぞとばかりに隣に座るクルグマン伯爵が彼女の手に手を重ねた。
「ツェツィ、勇気を出しなさい。大丈夫、ここにいる者たちは他言したりしないとも」
と言うなり、伯爵は威嚇するようにジロリと全員を見る。一同は無言のままじっとしていることで同意を示した。ツェツィーリアはそれで励まされたらしく、おずおずと口を開いた。
「驚かないで聞いてくださいまし。ケインズ氏が――いなくなりました」
皆は驚きよりも困惑を顔に浮かべた。
「いなくなったというのは……失踪したということかね?」
伯爵が優しく訊ねる。
「そう……おそらくそうだと思います。部屋にお荷物を残されたまま、誰に告げることもなく、夜のうちに屋敷からいなくなってしまったのです」
「それは確かに妙だ。夜の間に散歩に出て迷子になったとか、どこかで転んで動けないでいるとかでは?」
と、クルグマン伯爵。
ツェツィーリアの表情がどんどん複雑なものになっていく。
「いいえ。この辺り一帯を使用人どもに探させましたが、見つかっておりません。それよりも気に掛かることが一つございまして。実は、ミニーが――ミロスラヴァ夫人が、ケインズ氏に襲われたと証言しておりますの」
ハッと口を押えるベンジャミン。険しい顔で押し黙るオーランドとクルグマン。メルジューヌとダニーク医師は既に知らされていたのか渋い顔をしているだけだ。一方で、フローラは無言のまま目だけを輝かせていた。
「ど、どういうことですか……?」
ベンジャミンが囁く。ツェツィーリアは言い難そうに顔を引き攣らせた。
「明け方のことですが、彼女が夜警の者に助けを求めて参りましたの。彼女は怪我をしており、また酷い錯乱状態にありました。まだ断片的にしか聞き取れていないのですが、ケインズ氏に襲われたので抵抗し、それで氏は逃げていったのだと話してくれました」
一同は何と言うべきかわからず、互いに顔を見合わせた。
ミロスラヴァ夫人の証言は本当なのか?
ケインズは女性に暴行を働くような悪党だったのか?
ケインズはどこに行ったのか?
昨夜の発砲もケインズの仕業だったのか?
誰もがそのような疑問を抱いていたが、傷心気味のツェツィーリアを前にして口にする者はいなかった。
長い沈黙の後、オーランドが小さく口を開く。
「ミロスラヴァ夫人のご容体は……」
「もう落ち着いております。怪我はダニーク先生に見ていただきましたし、それほど酷いものでもありませんでしたの。ただ、精神的なショックが大きかったようで……今は鎮静剤を飲ませて自室で休ませておりますわ」
ミロスラヴァ夫人の無事を知り、一同は一応の安堵を示した。クルグマン伯爵が慰めの言葉を口にする。ツェツィーリアは彼にしな垂れかかるようにしながら礼を述べ、また全員に向き直った。
「可哀想なミニー。本当に恐ろしいことです。こんなことが一晩の間に立て続き、皆さまの中には当屋敷に不信感を抱かれた方もおられましょう。本来はもう一泊していただく予定でおりましたが、お帰りになりたい方はそうしてくださって構いません。運転手に駅まで送らせますわ」
会はそのまま昼食となった。食事は昨日と同じく美味しかったが、立て続く事件のせいで皆食が進まない。会話も無いまま沈痛な面持ちで昼食を済ませ、一同はまた思い思いの場所へ散って行った。
***
意外なことに、帰る者はいなかった。ベンジャミンやフローラあたりは退散するかと思ったのだが、二人共しれっと館に残っている。
ベンは昨日の犯人もケインズだと決め付けており、「奴が戻ってきたら絶対にぶちのめしてやる!」と意気込んでいる。フローラに至っては、薄ら笑いを浮かべながら「こんなに面白い現場、作家が見逃すわけないじゃないですか」と言っただけだった。
エアロンはメルジューヌを探していた。どこにも見当たらない。練習場に使っているというパーティー用のホールにもいなかったし、庭の東屋をすべて回ってみたが見つけられなかった。
代わりに捕まえたのがオーランド・バストルだ。庭へ降りる階段に腰掛け、ぼんやりと外を眺めていた。
「やあ、バストルさん。こんな所にいていいんですか?」
エアロンはするりと彼の隣に腰掛け、悪戯っぽく笑い掛けた。振り返ったオーランドはやや怪訝そうな顔をしている。
「どういう意味ですか?」
「ツェツィーリアに付いていてあげなくていいのかってことですよ。親しいんでしょう?」
すると若い俳優は表情を曇らせた。
「俺なんかの出番はありませんよ。きっとクルグマン伯爵が付きっきりでしょう」
「……なんだか色々と事情がありそうですね。よかったら少し庭を歩きませんか? そろそろ歳の近い人と話したいと思ってたんです」
「いいですよ」
二人は連れ立って歩き出した。
オーランドと直接言葉を交わしたのはこれが初めてだったが、見た目の印象に反して純朴な青年であることにエアロンは気が付いた。顔付きは堀が深く整っていて、やや濃い肌の色が明るい瞳の色を映えさせている。表情の変化には乏しいが、それは口数少なく奥手な性格のためであるようだ。ふとした瞬間に見せるあどけない笑顔が意外過ぎて、一度見たら強く印象に残るあたり、流石俳優と言ったところであろうか。
「ミロスラヴァ夫人は気の毒でした。さぞ怖い思いをされたでしょうね」
オーランドがしみじみと呟く。
「ケインズ氏がそんな人物だったとは意外でした。確かに女性好きではありそうでしたが、物腰はいつも紳士的に見えたのに……何か二人の間で行き違いがあったのかもしれませんね」
「ミロスラヴァ夫人を疑うなんてとんでもありませんが、あの二人というのが僕にはどうもね……失礼ながら、率直に言って、まだメルジューヌ嬢やフローラの方がありそうな話だと思いませんか?」
エアロンが下衆な顔で囁くとオーランドは愉快そうに笑った。
「本当に失礼ですけど、言いたいことはわかりますよ。確かにメルジューヌ嬢は綺麗だし、ホイヘンス女史にも不思議な魅力がある。俺は知り合って数年になりますが、ミロスラヴァ夫人に異性関係の浮いた話は一度も聞いたことがありません」
エアロンはさり気無さを装って望む方向へ話題を変えた。
「メルジューヌ嬢と言えば、昨晩はずっと二人でいたそうですね? 本当に怪しいものは何も見ていないんですか?」
オーランドは首を振る。
「ええ、残念ながら。人っ子一人見ませんでしたよ」
「メルジューヌ嬢も見ていないでしょうか? ほら、少しの間あなたが席を外した時とかに?」
「見てないと思いますよ。二人共、一度もその場を離れたりしませんでしたし」
それじゃ、この二人の線はないのだろうか。
エアロンは心の中で呟いた。
「ねえ、エアロン。メリライネン大佐は何者なんです?」
突然オーランドが深刻な声になる。エアロンは意表を突かれて聞き返した。
「え? メリライネン?」
「聞きましたよ、彼がロードマン氏を救ったんだって。すごい反射神経ですよね」
無意識に視線を泳がせてしまう。
「あ、ああー……軍役時代はバリバリ活躍していたそうだから? それなりに?」
「みんなそう言いますけど、でも退役されて長いんですよね? そんなにお若くは見えないし、それであの反射神経を保っているってことは――」
エアロンは緊張して次の言葉を待ち構えた。まさか、何か勘付かれたか? 今のところ疑われるような言動はしていないと思うのだが――。
ところが、エアロンの心配をよそに、オーランドはパアッと目を輝かせた。
「きっと日々物凄いトレーニングをされてるんでしょうね。俺、舞台ではアクロバットを取り入れてるんです。是非詳しく話を聞いてみたいなあ!」
エアロンは危うく転げそうになった。
その後、暫く大佐の私生活について根掘り葉掘り聞かれたが、エアロンはすべて曖昧な返事でやり過ごした。
***
散歩を終えてエントランスホールに入ると、フローラとメルジューヌが立ち話をしていた。フローラがへらへらと手を振ってくれる。しかし、メルジューヌは彼を見るなりサッと踵を返して階段を駆け上ってしまった。
「ごめん、フローラ。また後で」
エアロンはそう言い残して後を追う。背後から「頑張って」という小さな声が聞こえた。
踊り場を曲がるとメルジューヌが自室の鍵を開けようとしているのが見えた。走って行って彼女が扉を閉める前に滑り込み、ドンと扉に手を突いた。退路を塞がれたメルジューヌが上目遣いに彼を見る。
「エアロンたら強引ね。これじゃ、ケインズさんとおんなじよ」
「ごめんね。普段なら絶対女性にそんなことしないつもりなんだけど。君みたいな悪党になら別にいいかと思っちゃったんだ」
メルジューヌは扉に寄り掛かったまま深々と溜息を吐いた。
「わかっていても悲しい。船長さんも、エアロンも、みんなあたしを悪者だって言う」
「それだけのことをしてきたじゃないか」
「好きでやったわけじゃないってわかってほしいわ」
「そんなこと知らないよ」
メルジューヌはエアロンをじっと見上げていたかと思うと、突然嬉しそうに微笑んだ。両手を彼の腰に回す。エアロンはビクリと体を強張らせたが、癪なのでそのまま耐えていた。
「……なに?」
「うふふ。今ね、すごくいい眺めよ。あたしの視界にはエアロンしかいないの。きっとあなたの視界にも、今はあたししかいないでしょう?」
つんと尖った小さな鼻が求めるように上を向く。二人の身長差では到底顔には届かなかったが、彼女の言う通りエアロンの視界は淡い紫で占められていた。
首を傾げる。こんなに間近でメルジューヌを見たのはエルブール以来だろうか。忌々しい吊り橋。直後に気を失ったせいか、記憶も朧げに霞み始めている。記憶の中にあるよりも現実の彼女は華奢で白さが増して見え、顔付きも無垢な少女になっていた。
「んー……前よりちょっと可愛くなった?」
エアロンが囁く。メルジューヌは頬を染めた。
「本当? ツェツィのところに来てから色んな美容法を試してるの。舞台女優は美容のために湯水のようにお金を使うのよ」
「君にはちょっと早過ぎるんじゃないかな」
「歳なんて関係ないわ。誰だって好きな人には綺麗に見られたいものだもの」
エアロンはそのまま暫くメルジューヌを睨んでいた。殺人鬼は余裕の笑みで見つめ返す。やがてエアロンが根負けし、溜息と共に体を起こした。
「君のその好き好きアピール、やめてくれないかな。調子が狂うんだよ」
メルジューヌはエアロンの腰を離さない。
「だって、好きなんだもの。どうして好きな人に好きって言っちゃいけないの?」
「言ってることとやってることの矛盾が甚だしいからだよ。ここに来てからずっと僕のこと避けていたくせに?」
「あら。バレてたの」
メルジューヌはするりと彼の前から抜け出すと、ベッドに腰掛けて隣をぽんぽんと叩いた。エアロンはやや躊躇い、意を決して彼女の隣に腰を下ろす。
「まさかエアロンまで来るとは思わなかったのよ。船長さんには内緒で来てねって言ったつもりだったのに。すっごくびっくりしたわ」
エアロンは顔を顰めた。
「なんで船長に近付いたんだ?」
「内緒。知りたかったら船長さんから聞いて。これは彼の個人的なことだから」
個人的なこと、という言い回しは船長も口にしていた。エアロンはそれについて追及するのは無駄だと諦め、本題へ入ることにした。
「ツェツィーリアとはどういう関係?」
「先生かしら。あたしに良くしてくれているおじさまがね、ツェツィとお友達なのよ。一人前のレディになるために彼女の下で学びなさいって、あたしをここに預けたの」
「おじさまって誰だい?」
「それは内緒。なんでも答えてあげると思ったら大間違いよ」
「ふぅん。キスしてあげるって言ってもダメ?」
途端にメルジューヌは真っ赤になって恥じらった。心なしかエアロンから距離を取る。
「ずるい。そういうのずるいわ。絶対に言わないことにする」
「残念。そこまで盲目的に惚れてくれてるわけじゃないってことね。じゃあ質問を変えて、ツェツィーリアも君たちの研究所のメンバーなの?」
「違うと思うわ。援助はしてくれているかもしれないけど――ねえ? さっきからツェツィについてばっかりよ。もっとあたしに興味を持ってくれないの?」
エアロンは肩を竦めた。
「君について聞いたって全部はぐらかすだろ」
「あら。確かにその通りだわ」
彼女は楽しそうにクスクス笑う。エアロンは話題を変えた。
「昨日の事件、君は関与しているのかい?」
「してない。本当よ。こっそり銃で撃つなんて、手口があたしらしくないでしょう?」
メルジューヌはスカートの中からボウイナイフを取り出すと、くりると回してサイドテーブルに置いた。エアロンはそれを落ち着かなげに睨み付ける。
「じゃあ誰が犯人なんだ?」
「あたしも知らないの。でも、怒ってるわ。ツェツィを困らせるなんて許さない」
彼女の怒りは本物らしく、表情が険しくなっている。そして、ふとエアロンを見た。
「ねえ? 一緒に犯人を捜してみない?」
「え? 僕と君で?」
エアロンは怪訝そうな顔をした。対するメルジューヌはこの素晴らしいアイデアに目を輝かせている。
「利害は一致してるでしょ?」
「どうかな。僕は船長のお守りで来ているだけだからね」
「でも、狙われてたのはベンジャミンじゃなくて船長さんかもしれないのよ?」
「……わかったよ」
でも、とエアロンは額を近付けて凄んで見せる。
「僕は君を信用していない。不審な行動をしたら、この同盟はすぐ解消だからね」
メルジューヌは笑いながら額をくっ付けた。
「それでいいわ。うふふ、楽しくなってきたじゃない?」
メルジューヌはエアロンの手を取ると早速廊下へ飛び出した。
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