7-17 メルジューヌの目的

 歌姫は暖炉の前に立っていた。暖炉には当然火はなく、マントルピースに飾られた写真立てをぼんやりと眺めている。執事がカンタール青年の来訪を告げたので、彼女は写真立てをパタンと伏せた。

 エアロン・カンタールは大袈裟な身振りで歌姫の手を取った。


「お呼び立てしてごめんなさいね、カンタールさん。どうぞお掛けになって」

「恐れ入ります、レディ。僕のことはエアロンとお呼びください」


 ツェツィーリア・キリアノワは見るからに興味のなさそうな仕草で手を振った。


「あなたと親しくなれるとは思えませんの。お名前も存じ上げなかったし、あなたがあたくしにおできになれることが何かあって?」

「手厳しいですね、ツェツィーリア。僕には父がアフリカで築いた財産がありますよ」

「財産ならあたくしにもありましてよ。それも十分に。他には何か?」


 ふむ、とエアロンは顎に手をやった。


「若い男はお嫌いですか?」

「お生憎さま。あたくしの好みではありませんね。若い男はどうも浅く見えてしまって」

「なるほど。では、思慮深く経験豊富な年上の男性を好まれると」


 エアロンは馬鹿にしたように見下す歌姫を見据え、にやりと笑ってみせた。


「では、これはどうでしょう? 僕はメリライネン大佐のことをよく知っていますよ。何しろ旧知の仲だ。彼の生い立ちも、秘密も、現役時代にどんな任務に就いていたかも、ね」


 効果はてき面だった。ツェツィーリアは作り物のような精巧な仮面を崩しはしなかったが、確かに小さな反応を見せた。灰色の瞳から冬の冷たさが消え、隠された本性が垣間見える。その笑みは実に愉快そうであった。


「うふふ。やっぱりエアロンと呼んであげてもいいわ。なかなか食えない坊やですこと」

「光栄ですよ、ツェツィーリア。あなたが大佐を見た瞬間、彼に興味を持たれたのに気が付きました」

「意外とよく見てらっしゃるのね。あたくしが彼の何に興味を引かれたと思う?」

「そうですねぇ。顔ではないことだけは確かです」


 ツェツィーリアは声を立てて笑った。


「ばっさり言うじゃない。あたくしは嫌いじゃなくてよ、ああいう不愛想な人」

「そんなの、へこへこ笑って媚び諂う男を見飽きてるだけですよ」


 歌姫はカンタール青年に対する初めの印象を大分和らげたようだった。グラスを二つ取り、片方にはウォッカを注ぐ。エアロンには葡萄ジュースを出した。


「それで? あなたはあたくしに何を求めてらっしゃるの? お金ではないのよね――御曹司というのが本当なら。成功するチャンスかしら?」


 エアロンは躊躇った。

 ツェツィーリアに聞きたいことは沢山ある。メルジューヌのこと。サイモンのこと。国際協同科学技術研究所のこと。

 サイモン・ノヴェルは、ツェツィーリアがどこと繋がっていて、何をしているのか探って来いと彼に命じた。彼女は一体何をどこまで知っているのだろう。

 いや、だめだ――エアロンは思い直す。まだツェツィーリアの立ち位置が掴めていない。彼女が完全に黒で、エアロンたちにとって敵だとすれば、正体を知られるには早すぎる。

 エアロンは爽やかに歯を見せた。


「何もありませんよ。今は、まだ。恥ずかしながら、僕はまだ社交界で名が売れていないのです。あなたとお近付きになって得られる恩恵を享受できれば十分です」

「謙虚ですこと。まあいいでしょう。成果報酬ということにしましょうか」


 今日はもう下がっていい、と歌姫は言った。三日間のどこかで再度話す機会を設けるつもりだと言う。

エアロン・カンタールは恭しく頭を下げて退出した。



***


 リコ・メリライネン大佐がエントランスに向かって階段を下りようとしていた時、階下からベンジャミン・ロードマンの憤った声を聞いた。


「君がそういう態度を貫くのなら、手にした成功は長続きしないだろうよ! 覚えておいた方がいい!」


 ベンジャミンは踵を返し、そのまま階段上でメリライネンと鉢合わせした。怒り心頭といった様子であったが、メリライネンを見るなり人の良い笑顔が戻ってくる。彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。


「いやぁ、聞こえてしまいましたよね? 見苦しいところを、申し訳ない」


 メリライネンはちらりと階下を見遣る。若き俳優オーランドの後ろ姿が食堂へ消えていくところだった。


「彼とも仲良くなろうとしたんですがね、取り付く島もないと言うか。まったくあんなのがどうして俳優としてやっていけるのか疑問に思うほど、不愛想で不躾な男でしたよ」


 この男は誰とでも仲良くならないと満足できないのだろうか。メリライネンの相槌も素っ気ないものだったが、彼については不愛想でも気にならないようだった。


「ツェツィーリアもなんであんな男がいいんだろう? あ、歌姫との噂はご存知ですか? 大佐はこういう俗な話にはそそられませんかね?」

「いや」


 本当はまったく興味がなかったが、メリライネンは話を合わせることにした。


「両名とも正式なコメントは避けてるんですよ。けどね? パパラッチが密会後と思われる現場を押さえているし、舞台関係者はツェツィーリアからの手紙をオーランドの楽屋で見つけたというんです。あんな大御所がまだ無名に等しい若者にそんなに目を掛けますか? いやぁー、これは完全に黒だよなぁ」


 ベンは噂話を漏らすことで先程の怒りが収まったのか、今度は面白がって興奮気味だ。ふと顎に手を当てて考える素振りを見せたかと思えば、名案が浮かんでパアッと顔を輝かせる。


「よし。ボクはこの滞在中に二人の関係の確固たる証拠を掴むとしますよ。ふふふ、今からボクは実業家ではない。探偵ベンジャミンと呼んでいただきたい!」


 大佐の訓練された無表情は呆れや苛立ちを相手に悟らせない。尚も興奮気味に持論を捲し立てる探偵ごっこをどう回避しようか考えていると、背後から助け舟が出た。


「ナーヴィカパティ、今よろしいでしょうか」


 侍者のアクバルだ。ベンジャミンが驚嘆の声を上げる。


「おお! 珍しい付き人をお持ちですね!」


 アクバルは最低限の会釈で応えると主に向かって言った。


「お耳に入れたいことが」

「わかった。ミスター・ロードマン、私は失礼する」


 二人は追って来られないよう早足で彼らの客室へ入った。

 扉の施錠を確認し、アクバルが口を開く。


「ご報告です。屋敷にいるすべての使用人を確認いたしました」

「聞かせてくれ」

「およそすべての者たちがここに勤めて三年以上ですが、十年を超える者はいないようです。また、クルグマン伯爵が二名、ダニーク医師が一名連れてきています。ダニーク医師の侍者のみ主人と同室に泊まっています」

「何か気になることは?」

「伯爵の侍者のうち若い方の男と、ダニーク医師の侍者は今回初めて連れてきた新しい人物のようです」


 メリライネン大佐、もとい〈アヒブドゥニア〉号の船長は報告を聞きながら窓際へと歩み寄った。

重たい遮光カーテンを開ければ、先程散歩した庭が一望できる。二階からでも庭の秘匿性は保たれており、小道の一部と東屋の屋根以外はすべて木々によって隠されていた。


「それから、これは重要なことかはわかりませんが――」


 アクバルはそう言いかけて続けるかどうか躊躇った。船長が目で促す。


「料理女が特別なリキュールのことを話していました。南米原産の果物を使用した珍しい品で、あまり一般的に好まれる物ではないため、毎度少量しか購入しないとか。今回、買い付け品になぜかそれが含まれていたとのことです」

「紛れていたということか?」

「いいえ。これはある人物の訪問が予定されている時にのみ、その都度注文しているのだそうです。当然、今屋敷にいる人物でこれを愛飲する者はおりません」

「――つまり?」

「レディ・キリアノワがこれを用意させる相手はただ一人――今回は欠席ということになっている、ウォルター・キースリング氏のみだそうです」


 船長は僅かに眉根を寄せた。


「疑問に思われるお気持ちはわかります。私もキースリング氏の急な欠席のためだと考えましたが、料理女たちはそうではないと言い張ります。彼女たち曰く、キースリング氏は実は欠席ではなく、他の客人の目を忍んで訪れる予定に違いないとのことでした」


 二人は怪訝そうに顔を見合わせた。推理小説などでは使用人たちのこうした噂話が鍵になっていることもあるが、彼らにはいまいちピンとこない。

 船長は暫く考えてから呟いた。


「……念のため気に留めておくことにしよう」


 船長は再び窓の方を向いた。濃緑の大地に映り込む黒と白。ふとそちらに目を遣って、彼は急いでアクバルに言った。


「ご苦労だった。少し休みを取ったら引き続き情報収集を頼む。私は庭に出てくる」



***


 階段を駆け下り、庭に出ると、ちょうど黒い影が尾を引きながら小道へと消えていくところだった。船長も早足で後を追う。相手は先導するように、しかし立ち止まることもなく突き進み、奥まった場所にある東屋の前に出た。

 飾り程度の窓があるだけの円柱形の建物。薄暗いその中へ足を踏み入れると、黒いドレスの少女が彼を待っていた。

 メルジューヌ・リジュニャンは微笑んだ。


「こんにちは、船長さん。あたしを信じてここまで来てくれて嬉しいわ」


 そう言ってちらりと男の腹部を見やる。船長は仁王立ちのまま動かなかった。


「お加減はよさそうね」

「ああ」

「よかった。ちゃんと臓器には傷を付けないようにやったのよ。あたし、結構器用でしょう?」

「ああ」


 メルジューヌはつまらなそうに唇を尖らせた。


「船長さんって反応が薄いからつまらないわ。エアロンだったらあたしの顔を見るだけで物凄い表情が変わるのに。もちろん、悪い方にだけど」


 船長は答えなかった。メルジューヌは後ろで手を組み、軽い足取りで彼の周囲を回り始めた。


「ツェツィとはもう話せた?」

「いや――なぜ私に彼女と接触させたい?」

「あなたが知りたいことの手掛かりをツェツィが握っているからよ」


 淡い紫の瞳が覗き込む。細かな光が筋を刻むその目には、お道化た様子も面白がる様子も見られない。ただ真っ直ぐな眼差しに、いつの間にか船長は魅入られていた。


「……それは」

「ごめんなさい。あたしはツェツィが知ってるってことしか知らないの。あたしもカマを掛けてみたけど、どうしても教えてくれなかった。だから、あなたに望みをかけたのよ。あなたが直接聞けば、彼女も口を開くかもしれないと思って」

「お前はその情報を引き出させるために私を使いたい、ということか?」


 メルジューヌは少し傷付いた顔をした。


「違うわ。船長さん、勘違いしてる。あたしはそれを知りたいと思わないし、知る必要もないの。そうじゃなくて、あたしはあなたにそれを教えてあげたいのよ。あなたは知りたくないかもしれないけど、あなたには知る『権利』がある」


 権利――その言葉がやけに耳に残る。

 二人の胴が触れる。縫合部に治まったはずの痛みが蘇った気がした。

 あの日、港で彼の腹を掻っ捌いた時のように身を寄せて、メルジューヌは船長に囁いた。


「もうわかってるんでしょ。気付いているからあたしを信じてここまで来てくれたんだわ。ツェツィーリアが断片を握っているもの――それは、失われているあなたの記憶よ」


 柔らかな、耳孔へ溶けて流れ込むような。

 嗚呼、なんて甘美な声なのだろう。

 記憶のない男は静かに目を伏せた。


「……なぜ?」

「あたしね、あなたのことは好意的に思っているの。アバヤ帝国で初めて会った時……あの時、あの場で剣を収めたあなたの行動は、とても気高いと思ったわ。亡くなった仲間の遺体を一欠片も残さず拾い集めるあなたたちが酷く不思議で。その間も一滴の涙も流さないあなたの横顔を見て、『可哀想だ』って思ったの。それであなたを少しだけ手伝ってあげたくなったのよ」

「私にそれを信じろと言うのか?」

「うふふ。そりゃあお腹を裂かれたら誰だって信じる気をなくすわね。でもね、あれはあたしも仕方がなかったのよ。殺そうとして失敗したみたいに見せたかったの」


 メルジューヌは申し訳なさそうに船長の腹を撫でた。僅かな痛みが腹に広がる。彼女はそれで満足したのか体を離した。


「お前は何者なんだ? 何を考えている?」


 メルジューヌはにこりと笑った。くるりと身を翻し、黒いドレスで大輪の花を咲かせる。その瞬間の彼女は人ではなく、妖や妖精のような超常の神秘さを纏っていた。


「あたしはメルジューヌ。メルジューヌ・リジュニャン――でも、あたしはあたしとして生きていくことに決めたから、あたしの思うように、したいようにするの」


 船長は囁いた。


「……お前は私たちの敵だ」

「『あたしは』違う。ううん、違うつもり。あたしには従わなきゃならない人たちがいるけど、彼らの命令なんかよりもずっとエアロンのことが大事だと思ってる。そこが矛盾しないですむ時が来たら、あたしはきっとあなたたちの味方になって戦うわ」


 彼は暫くメルジューヌと睨み合っていた。無垢で穏やかな少女の笑みからは何も読み取れず、その真意は藤色の中に沈んだままだった。

 それでもほんの少し。本当に、彼にも何がどうと説明はできないのだが、少女の中に何かを感じ取れそうな気がしていた。あと僅か手が届かないところで、この娘は悲しげな笑みを湛えて立っている。


 メルジューヌが彼の前から姿を消し、独りになった薄暗い東屋の中で、船長は彼女とのやり取りを何度も思い返していた。

 ふと、気が付く。

 先程の彼女の声の響き。

 

 なぜ彼女は切羽詰まっているのだろうか。


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